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「全然そんなつもりはないよ! ただ合宿の取りまとめをしている方は本格派が好みらしくてね,話が合いそうって思ったから誘っただけ」

「ふうん,それならいいんだけれど。……プライバシーを禄に考えもせず話を聞き出そうとする輩にうんざりしていてね。君に腹を立てているわけじゃないから,その点では気を悪くしないでほしい」

 気が立ってしまったことを恥じているのか,松本くんはコーヒーを口に含みながら元の席に腰を落ち着ける。それでもまだきまりが悪いのか長く溜息を吐いた。

 ミス研は歴史こそ古いものの,あくまで平凡な文化系サークルだ。だからいくら作品のクオリティが高かろうと,それだけではさして耳目を集めることにはなるまい。松本君がサークル外にも名を広く知られているのは,彼が昨年の4月にとある事件に巻き込まれてしまったからだ。

 それは警察の介入にまで発展するほどの大事件で,当時は構内に報道関係者の姿も見受けられた。事件発生から1ヶ月以上の間,学内の話題はこれ一色だったと言っていい。もちろん事件に関係のある者の個人情報は可能な限り伏せられていたのだけれど,情報統制を逃れ,松本君が関係者の1人であり,しかも事件の解決に一役買ったという話が漏れ伝わってしまったのだ。

 入学して早々好奇の目に晒されることになった松本君には同情するが,ミス研一同も下世話な連中にはもう懲り懲りしていることに変わりない。後に彼が部誌に投稿した作品が事件を基にしているという噂が囁かれたため,研究会各員も再燃した大衆の好奇心に対応を迫られる羽目に陥ったのだ。このため,サークル内で事件の話題はほとんどタブー視されている。わたしも同じサークルというだけで嫌というほど事件のことを尋ねられたものだが,当人にとってはすっかり苦い記憶と化しているらしい。

 まるで偏頭痛を堪えるかのように,松本君は渋面を作りコーヒーの液面に目を落としている。正直苛立った言葉遣いよりもこの気温でホットコーヒーを飲んでいることの方がよっぽど気になるのだけれど,思いがけず訪れた好機をみすみす逃すつもりもない。

「それにさ,松本君の専攻の話に興味を持ってくれる人って割と多いと思うんだよね。ほら,心理テストとかって会話のネタにしやすいじゃない? それに心理学の知識を取り入れた作品って投稿サイトでも意外と見かけるし,創作の参考になるって人もいるんじゃないかな」

「心理学,ね」

 自分の畑の話題なら食いつきも良いかと思ったのだけれど,松本君は皮肉気に鼻を鳴らした。

「それなら,例えば原口さんは,心理学というとどんなことを思い浮かべる?」

「えっと,フロイトやユングが始めた学問ってことかな。後は深層心理とか無意識とか」

 意味深な態度に恐る恐る答えると,松本君は「ま,そんなものだろうね」と肩を竦めた。

「専攻の立場から言わせてもらうと,心理学に対する一般の人の理解は実情から随分かけ離れているよ。個人的にはその誤解の大部分が精神分析に端を発しているように思えるのだけれど,これは臨床心理が日頃の悩みに手っ取り早く回答しているように思えるからだろう。それとも,神話を基にした概念が中二心をくすぐるのかな? いずれにせよ,心理学の始祖がフロイトやユングであるというのはよくある誤解の1つだ」

「えっ,フロイトが始めたんじゃないの?」

「違うね。心理学を創始したのは彼ら以前の生理学者達だ。当初の心理学の主な目的は,物理量と感覚量の関係を数的に表すことだった。こうした領域は精神物理学といって,今でも心理学の基礎であり王道でもある。フロイトやユング,あるいはアドラーの理論は臨床心理学の一領域の話に過ぎない。間違っても心理学の主流ではないね」

「……へぇ,そうなんだ。何だか,全然一般的なイメージと違うね」

「だから,その手の小説でさも精神分析が心理学を代表する領域であるかのような表現や,フロイトやユングの主張が普遍性のある科学的事実であるかのような書き方を見ると,どうしても作者の知識を疑ってしまうんだよね。そもそもフロイトやユングの主張のほとんどは科学的な根拠を伴わない単なる思弁に過ぎないし,批判も多いってことを知らないのかな。確かナボコフだったかな,『だまされやすい人や下品な人には,すべての心の悩みは,いにしえのギリシア神話を自分の秘所に毎日適用することで解消できると信じさせておけばよい。私はそんなことには何の興味もない』という言葉を残していたはず」

「うわぁ,それは……」

 松本君の険のある口調にわたしは言葉を失う。というかナボコフって「ロリータ」を書いた作家じゃなかったっけ。正直,どっちもどっちだと思うけれど。

「随分棘のある言い方だね」

「そう? 僕は大分気を遣った言い方をしていると思うけれどね。だって不十分な理解のまま土足でその領域の話に踏み入っているんだ,下手すりゃ恣意的に誤った言説を広めようとしていると反感を買いかねない。というか,とっくに心理学徒はそういった誤解や偏見に辟易しているよ」

 熱を帯びた口調を自覚したのだろう,松本君はコーヒーを呷った。

「現代心理学においては専攻外の知識も幅広く求められている。例えば基礎研究では実験や調査のためプログラミングや統計解析の知識が必須だし,神経科学や人間工学からのアプローチを取る人も少なくない。臨床場面でも不安障害のように疾患固有の生理的反応パターンに関する研究が盛んに進められている。最近では臨床心理士も神経生理学の知識が求められるようになりつつあるという話を耳にするよ。そうした状況で特定の領域に拘泥するのは旧式の考えに毒されているとしか思えないね」

 これぞまさに『科学の進展は葬式ごとに進む』ってことなのかな。

 ほとんど唾棄するように松本君は言ってのけた。どうやら,この手の話題に関しては相当鬱憤を溜め込んでいるらしい。だけど参ったな,話の振り方を間違ったみたい。

 わたしは薄く溜息を吐いた。ここまで息巻いている時に説得しても効果はないだろう。この場は一旦引き下がった方が賢明のようだ。

「うーん。とにかくそれじゃあ,今のところは合宿に参加するつもりはないって感じかな」

「今のところはって修辞を省いてもいいくらいだ」

「そっかぁ,残念。文フリとかその界隈では割と有名な社会人サークルなんだけれどね。せっかく声をかけてもらったから,出来る限りうちからも参加者を募りたいんだけれど」

「残念だけど,他を当たることだね。参加無料なんだっけ。創作未経験で入ってきた新入生辺りにでも声をかけてみたら? ちょうど学祭号に向けて何を書くか悩み始める時期でしょ」

「そーなんだけどね。期末考査とか免許合宿とか,色々予定被ってるからそっち優先しちゃった子が多くて。あーもう,皆もったいないと思うんだけどなー」

 忘れかけていた焦りと歯がゆさがぶり返し,どうしようもなさに思わずテーブルの上に突っ伏す。しかし天板に籠った熱気に耐えかね,うんざりした思いですぐ顔を上げた。

「先週の土曜日に合宿場所の詳細が来たんだけどね,明治期に建てられた洋館を改装したコテージなんだって。それも文化財の指定こそ受けていないものの,近代建築史において結構価値のある建物らしくて。これがほら,送ってもらった部屋の写真。いかにも古典の舞台になってそうな雰囲気じゃない?」

 スマホに提示した写真を見せると少しは興味があるのか,松本君はまじまじと眺めながら画面をスワイプした。

「......文化財って県レベルの指定も受けていないんだよね? 既視感があるんだけど,気のせいかな」

「ああ,それはそうだよ。だって松本君,読んだことがあるはずだもん」

 そう言ってわたしはテーブルの上に積み重ねられた冊子の塔に手を伸ばす。即売会などで手に入れた最新の同人誌は本棚に片付けず,こんな風に広げておくのがミス研の習わしだ。塔の上から3番目,社会人サークルのものとしてはやや分厚い同人誌を取りページを捲った。

「ほら,これでしょ?」

 そう言って手渡すと松本君は少し驚いたように眉を上げ,徐にページを繰って話の筋を確かめている風だった。

 どうしたんだろう。松本君のことだから,各サークルの最新号には目を通しているはずだけれど。

「……ミステリ同人Fだっけ?」

「えっ? うん,主催のサークルはね。そのサークル以外からも参加するみたいだけれど」

「それで,既視感があったのは合宿場所がこの作品のモデルになったコテージだからってこと?」

「うん,そう。送ってもらった写真自体は結構前に撮られたものらしいけど,いかにも本格物の舞台って感じの雰囲気だよね」

「因みに聞くけれど,この作者の實市さねいち稔って人が参加するかどうか分かる?」

「分かるも何も『實市さん』は取りまとめをしている方のペンネームだよ」

「……参加する」

「えっ?」

「僕も合宿に参加する」

「......あれー? ついさっき『今のところはって修辞を省いてもいいくらいだ』って言っていたのはどこの誰だっけ?」

 大げさに首を傾げてからかうと,松本君は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。

「前から思っていたけれど,君って良い性格してるよね……」

 君ほどじゃないと思うけど。

「あははっ,ごめんて。でも,實市さんの名前聞いて急に心変わりしたのは何で?」

「同人誌でいくつか作品を読んだけれど,純粋に上手かったんだ。本格派志向でトリックが巧妙なだけでなく,キャラクターの行動が立体的というか,単調じゃないんだよね。なんと言えば良いのかな,どう話が展開していくのかというメタ的な視点だけじゃなくて,各キャラクターが状況をどう解釈した結果どう行動するのかって個別の視点が無理なく組み込まれていてさ。それに割と理系ミステリも書いているし,どうネタを組み立てているのかとか,あるいはどういうバックグラウンドなのか話してみたい」

 へぇ,これは珍しい。

 わたしは内心感嘆する。松本くんがプロを除き,誰かを素直に賞賛するのを初めて耳にしたからだ。

 何はともあれ,渉外としてはエースの参加以上の結果は望むべくもない。思いがけない展開に上向く口角を抑えつつ話をまとめにかかる。

「ま,取り敢えず分かったよ。じゃあ松本君も参加ってことで話を進めるね。急に気が変わってドタキャンとか勘弁してよー」

「ああ,予定は空けておくよ」

 こうして,わたし達は外部の社会人サークルと合同の缶詰合宿に参加することとなった。この時勧誘が上手くいったことを呑気に喜んでいたわたしには,自分達が凄惨な殺人事件に巻き込まれることになるとは思いもよらなかった。

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