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 連絡のため一時下山した一ノ瀬さんを待つ間も,重々しい空気は晴れそうになかった。聞こえてくる音といえば運び込まれて後意識を取り戻した高杉さんのすすり泣く声と雨音,それから強風に煽られ揺れる雨戸のガタガタという音だけ。高杉さんを心配した土井さんと奏ちゃんがその両脇に寄り添うも,かける言葉もなくただただ気の毒そうに見守るばかりだ。

 テーブルを挟んだ反対側には1つアームチェアを空けてわたしと松本君が座っており,松本君はデジカメで撮影した岡部の部屋の写真を見返している。わたしの右手,食堂側には目を閉じた鳴海さんが座る。腕を組み一見すると寝ているかのようだが,時折目を開いては体勢を変え思案に耽っているようだった。応接間の最奥では菅が不機嫌そうな顔で壁に寄り掛かっている。空いた席に座らず酔いもまだ醒めていないだろうに態々立っているのは,少しでも距離を取りたいという心境の表れか。

「原口さん」

 沈黙の中突如名前を呼ばれ思わず体が竦む。松本君を見るとデジカメを右手で掲げ軽く人差し指で2度叩いた。

「しばらくカメラ僕が借りていてもいい?」

 遺体の画像満載のカメラなんて,気味が悪く好んで持ち歩きたいものではない。わたしは何となく声を出し辛い場の空気を感じ黙って頷いた。松本君は「ありがとう」と応えるとデジカメをテーブルの上に置き,思案気に右手で顎を摩る。何か思うところがあるようなその態度が気にかかり,小声で問いかけた。

「……何か,気になることでも?」

「寧ろ気になることだらけだ」

 松本君は珍しく苛立たしそうにガリガリと頭を掻いた。

「そもそも何故犯行予告を打つ必要があったのかが分からない。犯行前でも不審がられる可能性があるし,1人目の殺害後は猶更だ。岡部さんの性格上気に留めないと見込んだかもしれないけれど,予告しない方が明らかに利は大きい。それにもかかわらず犯行を仄めかした理由が現時点では見えない。白い百合の花に意味があるのなら,犯行上の都合ではなく犯人の心情的な理由も考えられるけど……」

「どういうこと?」

「犯行予告に百合の花を使った理由が不明瞭だということだよ。何らかの恨みによる犯行なら,告発文なり藁人形なり刃物なり,敵意や恨みを表す手段なんていくらでもある。白い百合の花が敵意でなく死を意味しているとしても髑髏や十字架のように死を連想させる他のモチーフでも良かったはずだ。単なる偶然といえばそれまでだけれど,仮に意図的なものだとしたら第3者には通じない特別な意味があるのかもしれない」

 逆に言えば,岡部や菅にはその意味が通じると犯人は踏んでいるということか。悟られないよう盗み見るも菅は時折思い出したように舌打ちをするだけで,苛立ちが収まる気配は見られない。特段百合の花の意味に気付いた様子は伺えないものの,気付いたところでそれを共有する性質でもあるまい。そんな風に考えていると,ふとある疑問が頭に過った。

「あれ,待って。百合の花が犯行予告だとすれば,犯人が岡部さんを最初のターゲットにした理由は何?」

「それも分からないことの1つだ。菅さんの体調が悪いことは周知なわけだから,休んでいる最中犯行に及ぶことも十分選択肢になり得たはずだ。それでも岡部さんの方を先に狙った理由を敢て挙げるなら,比較的意識がはっきりしている岡部さんより菅さんの方が争っている時の物音に気付きにくいと考えたからかもしれないけれど,そこまでの強い確証があったとは思えない。正直,現段階では何とも言えないな」

 内容が内容だけに,途中から菅や高杉さんの反応が気になったわたしは別の疑問を投げかけた。

「……でも,やっぱり一番気になるのは密室だよね。現状分かっていることはあくまで犯行後あの部屋が密室だったということだけで,犯人が錠の開閉どちらもできるかどうかすら分からない」

 特に,錠を外部から開けることができるかどうかで話は大きく違ってくる。争った形跡から犯行時岡部の意識はあったと考えられるため一見犯人は内部から招き入れられたとも思えるが,就寝中に目を覚まし抵抗したとも考えられないわけではないだろう。今後わたし達の身を守る意味でもどちらなのかはっきりさせたいところだが,あの部屋の様子を見た限りではまだどちらとも言えない気がする。

「身の安全という意味では,両方できると想定して動くべきだろう。岡部さんに招き入れられていたのだとしても,今後警戒される中犯行に及ぶつもりなら外部から錠を開ける手立てを持っていないと見るのは楽観的過ぎる」

 その言葉に,岡部の部屋の扉を抉じ開けた時の様子を思い返す。部屋の錠前はシリンダー錠で,室内側のサムターンの形状も各部屋共通のようだった。このため,一般的な紐などを利用しサムターンを回す密室トリック自体は利用可能なように思える。また扉を抉じ開けた直後観察した限りでは,何か細工が施されていたようには見えなかった。極端な話,痕跡を残さないトリックであればどのような手段でも密室を形成できたと言えてしまう。要するに現段階ではどのように密室を作り出したのか,その手段を絞るには情報が少な過ぎる。

 でもそうか。どのように......

 わたしはそこまで考えを巡らせ一度お大きく息を吸い込む。解けない謎に行き詰まった時,基本に立ち返り推論をやり直すのはミステリの定石だ。ちらり,と横目で菅を見遣る。

 推理物普遍のテーマがハウダニット,フーダニット,ホワイダニットであることに誰も異論は唱えまい。今回の件で考えると,動機の点から見た場合どうしても疑わしくなるのは合宿以前から岡部と面識のあった人物ということになる。そりゃ不躾な態度に全く腹が立たなかったわけではないが,今日合宿に参加し初めて岡部と顔を合わせたわたしが殺害に及ぶまでの感情を抱くことは難しい。松本君,奏ちゃんにしてもそれは同じだろう。よしんば衝動的に殺意に類する憤りを覚えたとしても,その激情は密室を態々形成した計画性と性質が合わない。土井さんと鳴海さんには岡部と予め面識があったかどうかは不確かだけれど,これまでの会話から推察するに2人も今回が初顔合わせのようだった。そうなると必然的に,殺害に至る動機を持ちえたのは菅,高杉さん,そして一ノ瀬さんの3名ということになる。

 3人の中で岡部のことを恨んでいそうな人物となると,やはり一ノ瀬さんが最も疑わしい。土井さんに対する言動はもちろん,大学在学時から相当岡部の振る舞いを迷惑に思っていたことが伺えるし,この合宿の企画者なのだから如何様にも準備しようと思えばできただろう。そういった背景だけを見ると容疑者筆頭なのだけれど,一ノ瀬さんには犯行予告時を含めアリバイがある。

 百合の花が貼り付けられたと思しき時刻はわたし自身直接この目でアリバイを確認しているし,岡部が部屋へ戻って行った時も共に見届けている。一ノ瀬さん自身が部屋に戻って以降は婚約者とはいえ一応土井さんがアリバイを裏付けている。この条件でなお一ノ瀬さんが犯人となると,単に密室を形成しただけでなく遠隔で閉ざされた場所にいる岡部を刺殺できたことになる。さすがにこの仮定は現実離れしているように思う。

 では高杉さんはどうだろう。ただ1人岡部の死に涙している目の前の姿が演技だとは思えないが,深い繋がりのある恋人だからこそ周囲には窺い知れない恨みつらみがあるのではないか。そう考えてみるものの,やはり一ノ瀬さんと同じくアリバイからその可能性は否定できる。百合の花の方はともかく,岡部が殺害されたであろうその時間,わたしはまさに高杉さんの目の前にいたからだ。確かに岡部の様子を見に行った時,ものの数分1人で行動する時間があった。だけどその2,3分程度で気付かれることなく岡部を滅多刺しにするのは物理的に難しいのではないか。

 翻って菅には全くと言っていいほどアリバイがない。犯行予告時と犯行時共にアリバイがないのは菅と鳴海さんだけだ(しかも鳴海さんに関しては殺害に割くことのできた時間的猶予と動機の点から,菅よりも犯人である蓋然性は低いときている)。当人曰く二日酔いでずっと寝ていたとのことだが,傍から見てそれが身動きできないくらい重いものだったかどうか判断することはできない。少なくとも物理的に犯行が可能な状況にあったことは確かだろう。状況証拠レベルでも菅の関与を積極的に匂わせる証拠がないのは事実だが,同時に積極的に関与を否定できる根拠のない唯一の人物でもある。

 そう考えると宿泊している部屋が隣というのも恣意的だったのではと疑わしくもなる。例えば,隣の部屋なら人気を見計らって百合の花を貼り付けやすいのではないか。例えば在室の有無も音で判断できるのでは? 例えば返り血のついた服の処分は? 考えれば考えるほど,菅にとって不利な材料が揃っているように思える。

 とその時,開け放した応接間の扉の向こうから物音が聞こえた。玄関の方だ。どうやら風音でエンジン音が聞き取れなかったようで,やがてずぶ濡れの一ノ瀬さんが廊下から顔を覗かせる。その顔つきはどことなく浮かなく見えた。

「どうでしたか?」

 松本君の問いかけに一ノ瀬さんは力なく首を横に振った。

「だめだ。途中川が氾濫していて,公道に続く橋が水没で渡れそうにない。車で電波の届く場所まで行くのは難しいだろう」

「他に降り道はないですか?」

「晴れていれば徒歩で行けるルートもあるにはあるんだけれど,落石もあったし相当泥濘んでいた。この雨量で歩いて下山は相応の危険を伴うと思う」

「......状況が良くなるのを待つしかなさそうですね」

 と,松本君が溜め息交じりに呟いた時だ。これまで固く口を閉ざし1人距離を置いていた菅が,不意に寄りかかっていた身を起こし足をホール側の扉へ向けた。何も言わずそのまま応接間を出ていこうとするのを慌てて一ノ瀬さんが呼び止めた。

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