Chapter 3

1

 誰もが言葉を発することができない中,鼻につく鉄臭さと高杉さんの悲鳴だけは,目の前の光景が現実であることを訴え続けていた。

「ちょっと,待てよ……岡部?」

 ようやく,放心した体の一ノ瀬さんがふらふらと室内に踏み入ろうとする。漠然と,まるで映画の1シーンかのようにその様子を眺めていたわたしの耳に,突如松本君の緊迫した声が飛び込んできた。

「危ない!!」

 見ると松本君が崩れ込む高杉さんの背中を慌てて支えているところだった。間一髪間に合った松本君は高杉さんの様子を気にしながらも,振り返った一ノ瀬さんの顔を見上げ制止した。

「入室は待ってください。迂闊に指紋を残さない方がいい,状況から見て他殺の可能性が非常に高い」

 いっそ冷酷とも言える落ち着き払ったその声に,松本君以外の皆の表情が俄に強張る。突拍子もない現実を見せつけられ停止していた脳が,酷く暴力的な解釈を突き付けられ急速に活動を始める。わたしは恐怖と嫌悪感を必死に抑えながら岡部の遺体に目を向けた。

 岡部の両手はナイフの柄を握っておらず,ベッドの上に投げ出されている。幾許か抵抗したのか,両腕には防御創と見られる切り傷がある。距離と黒いTシャツのせいで初めは分からなかったが,目を凝らすとTシャツはぐっしょりと流れ出た血に濡れていた。シャツの上から刺されたと見て問題はなさそうだ。喉元のナイフはこと切れた後の止めだったのか,出血は多いものの胴体と比べると周辺に飛散した風には見えない。更に視線を顔の方へ移すと,天井を見つめる両目は大きく見開かれ,何か不測の事態に出会したことが伺えた。

 次に室内へ目線を巡らし,そこでようやく照明が全て点けっぱなしのおかげで中の様子が見通せていることに気が付いた。それに,わたし達が泊っている部屋と比べ少し広いようだ。幾分奥行きがあり,扉の対面側にある張り出し窓が遠く感じる。窓には今カーテンが引かれており,外の景色は伺えない。部屋に備え付けの椅子は倒され,岡部が持ち込んだワインボトルは割れてその中身を盛大にぶちまけている。

「……他殺?」

 まだパニックから抜け出せないのか一ノ瀬さんはオウム返しに呟く。途方に暮れる他の面々に構わず松本君は気を失ったらしい高杉さんを奏ちゃんに任せ,ドアノブ付近の観察を始めたのでわたしも彼の肩越しに覗き込んでみる。

 錠はバールで強引に押し込まれたせいで擦れた跡が残っているものの,大きな変形はないし付着物など何らかの仕掛けが施されたような痕跡もない。木枠の方もドアノブ付近を中心に酷く破損しているが,見たところバールで抉られたくらいで特に変わったところはない。

「……原口さんデジカメ持ってきていたよね。今取ってきてもらえる?」

 松本君の意図を察し「分かった」と短く応えた。デジカメを手に戻ってくると,松本君はそれを受け取り熱心に錠前と破壊されたドアの木枠部分を写真に収め始めた。

 ある程度扉近辺を撮り終えると,今度は廊下から室内の様子を執拗に撮影する。遺体の横たわるベッドはもちろん,部屋全体の外観や床と天井,窓の方などをズームで撮影しているようだった。それも済ませると徐に一ノ瀬さんの方を振り向く。

「現場保存の観点から,入室する人数は制限するべきです。極力室内のものには触れないようにするので,写真撮るために入室しても構いませんか?」

「あ,ああ……」

 一ノ瀬さんは未だ混乱から立ち直れていないのか気圧されおずおず頷いたが,菅は落ち着き払った松本君の態度が癪に障ったらしい。半ば呻くように詰った。

「何の......話をしてんだよ! 康友が,死んでんだぞ!! こんな時に探偵ゴッコか!?」

「その『こんな時』の中に,ご自身が殺害される可能性は含まれていますか?」

 どこまでも冷静なその問い返しに,わたしは自分に対して向けられたわけでもないのに底冷えする思いがした。

「何を……?」

「白い百合の花です。岡部さんの殺害を確定事項としてもその犯人が必ずしも百合の花を貼り付けた人物と同一であるとは限りませんが,仮に同一人物だと考えた場合素直にあれは殺害予告だと捉えることができる。もちろん,菅さんの部屋の扉に貼られた百合の花がカモフラージュで,第2第3の標的は他にいるかもしれませんし,百合の花のターゲット以降に殺人が止まるという保証もない。それでもこれまでの情報を率直に解釈した場合,菅さんも殺害対象に含まれていると言えるでしょう。ただ差し迫っている危険はそんなタラレバの可能性じゃない。更なる殺人を犯し得る具体的な手段を,岡部さんを殺害した人物は確実に有していることが喫緊の問題です」

「……どういうことですか?」

 奏ちゃんはすっかり青ざめ,力なく喉を震わせる。わたしは松本君の危惧している事態に思い至ったけれど,それを自ら口にする勇気がなかった。

「見たところドアの木枠部分は今バールで破壊した痕跡があるだけで,何か仕掛けが施されていたようには見えない。つまりドアが開かなかったのは正常に錠が下ろされていたからだ。また窓の方も錠が降りているか確認する必要があるものの,ここから観察する限り閉められているように見える。次に岡部さんの遺体だけど両腕を大きく投げ出していて自分でナイフを掴んで自らの体を刺したとは考えにくいし,防御創もあれば室内に争った形跡もある。この状況から岡部さんが何者かに殺害されたことと,この部屋が密室であったという2点は断言してもいいだろう」

「密室殺人……っ!?」

「気持ちは分かるけれど,本当に警戒すべきはそこじゃない」

 密室というワードにざわめきが起きる中,松本君はわたしが口にするのを躊躇った可能性を平然と言い放った。

「一ノ瀬さんによれば合鍵やマスターキーの類はない,それにも関わらず密室下で殺人事件が起こった。この天候と立地で外部犯の可能性を論じるのはナンセンスだ。つまり,今ここにいる8人の中に岡部さんを殺害した人物がいて,且つその人物は岡部さんを殺害したのと同様の方法で他の者を密室にて殺害できる可能性が高いということだ」

 この言葉は,それまでとは全く異なる緊張感をその場にいた全員に否応なく意識させた。

「……どうにかして,警察に連絡すべきですよね」

 しばらくは誰も何も言えない様子だったが,奏ちゃんが切羽詰まった風に呟いた。松本君も頷き一ノ瀬さんに目を向ける。

「立地と天候を踏まえると,陸の孤島にもなり得る最悪の状況です。警察の到着までどのくらいかかるか分かりませんが,それだけに通報を最優先すべきだと思います。このコテージ電話線引いてないし携帯も圏外で通じないんですよね?」

「ああ」

「ある程度山を降りれば通じますか?」

「......一応は。ただ,安定して通話するには車で行かないと厳しい距離だね」

「では警察への連絡をお願いできますか?」

「いいよ。……僕1人で行った方がいいよね?」

「その間僕らが相互監視下にあることを条件に,ですね。ただ,この雨量だと地盤が緩んでいる危険もあります。......ただでさえ市街地から離れていますから,警察の到着まで時間がかかってしまうことは避けられない。先ずは身の安全を確保しながら連絡を試みてください」

「……そうか,最悪膠着状態のまま日を跨ぐことも考えないといけないのか。犯人の行動を制限する意味でも,連絡前にある程度状況を把握しておいた方がいいということだね」

「そういうことです。......最初に全員のアリバイを整理しておきましょう。特に、岡部さんが応接間を出て以降の行動の確認は必須です」

「何を言っているんだ!? 素人に何ができんだ? さっさと通報して警察に全部任せちまえばいいじゃねぇか!」

 動揺が尾を引いているのか,菅は信じられないものでも見るかのように松本君と一ノ瀬に向かってがなる。それでも松本君は落ち着かせるためか「その通りです」と大きく頷いた。

「もちろん通報がすんなりいくならそれが望ましいです。ただ,そうはいかない場合も考慮して行動すべきだと思います。厄介なのがこのコテージの立地です。主要駅から片道3時間弱,それも大半を山道が占めます。携帯が通じる場所も徒歩で行く距離でない。それにこの天候という悪条件が加わっています。ここに来るまでの道中,傾斜角度や渓流の多さが気にかかりませんでしたか?」

 松本君の言葉にはッとした。もしかして,途中舗装が途切れていたのも......!

 道すがら長らく外の景色を眺めていた松本君の姿を思い返し一ノ瀬さんの方を振り返った。一ノ瀬さんは後ろめたそうに釈明する。

「......キャンプ場開発の計画が頓挫した時に,道中の土砂災害のリスクを懸念する声があったことは確かだ。このコテージ一帯が被害に遭ったという話は聞いたことないし,台風が重なるとは予想していなかったけれど」

「はぁ!? 何だそりゃ! そんなん今まで聞かされてねえぞ!」

「明治期にここが建築場所として選ばれたのも,事前調査によりここ以外建てようがないことが分かったからでしょうね。そして犯人もそうした事情を把握していて,事を起こす好条件が重なったからこそ犯行に至ったと考えていいでしょう。とにかく今はそこを言い争っている場合じゃありません。今考えなければならないのは警察の到着が遅れる可能性が無視できず,その間犯人が次の行動に移らないとは言い切れない点です」

「じゃあどうするんだよ!」

「だからお互いを監視する必要があるんです。そうすれば強制的に犯人対多勢の形をとれます。仮に通報のため単独で行動する一ノ瀬さんが犯人であろうと残る7人の側に犯人がいようと,7人の側が相互に監視していれば8人共の安全が担保されますよね? では犯人はいずれ身動きが取れなくなると分かったら,次にどのような行動に出るでしょうか? それは犯行現場から自身の特定に繋がる情報の隠滅ですよ。捜査のプロである警察が来る前に致命的な証拠を処分してしまえば,例え今回全ての計画を遂行できなくとも疑惑から逃れ再度次の機会を伺えるかもしれない。そして警察が到着するまでの時間が長ければ長いほど犯人にとっては証拠を隠滅するチャンスが多くなることを意味する。つまり証拠を消される前にアリバイや殺害現場の状況を把握しておくことが自分の身を守ることに直結するんです」

 他に質問はと松本君の問いに,元々気の動転からくる虚勢だったのか菅はぐっと押し黙る。ただ理屈ではそうだろうけれど,突然他殺体を目にしその上容疑者の1人だと告げられ,アリバイを躊躇せず主張するなどそうそうできることではない。松本君もそれを察してか「言い出した僕から話しましょうか」と咳払いをした。

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