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「どうして,僕が出頭前の大悟に入浴を勧める必要がある?」
「万が一遺体が見つかった時「逃走の途中誤って足を滑らせ,水嵩の増した川の流れに呑まれた」と警察に解釈してもらうためです。夏真っただ中のこの時期です。腐敗の進みは速いですが,さすがに殺人のあったコテージに近い川の流域で身元不明の遺体が発見されればDNA鑑定にかけられる確率が高い。そもそも見つからない可能性もありますし,現に今遺体は発見されていない。ですが遺体が見つかってしまった時に溺死以外の死因と判断されてしまったら,一ノ瀬さんが誰かに殺された可能性が高く,必然疑われるのはコテージに滞在していた僕達です。他殺となると今まで説明した理由から,たちまち鳴海さんは一ノ瀬さん殺害の最有力容疑者として浮上する。だから一ノ瀬さんを工作の途中刺殺することも絞殺することもできなかった。入浴中の一ノ瀬さんを溺死させた後,遺体を隠蔽し一旦自室へ戻った。翌朝僕らと合流し首を切断された菅さんの遺体を全員で目撃した後,一ノ瀬さんへの提案とは裏腹に一ノ瀬さんが殺人犯で逃走しているように僕達の思考を誘導した。案の定僕達が狙い通りに岡部さんの遺体が移動させられていることを確認し通報に向かったため,ミニバンで隠していた一ノ瀬さんの遺体を運び増水した川に遺棄した」
「まるで,実際に起きた出来事を見ていたかのように話すんだね」
半ば遮るように,唐突に鳴海さんは口を開く。犯行を認めたとも受け取れるその発言に,目の前の人物が人を殺したかもしれない可能性を俄かに意識させられる。わたしは恐怖心が擡げたのだけれど,松本君は落ち着き払って応じた。
「何が起きたかについてはほぼほぼ把握しているつもりです。ただ分からないことが1つだけある,それは動機です。一ノ瀬さんが岡部さんや菅さんを殺害した理由は分かる。ですが鳴海さんが実の兄である一ノ瀬さんや,ほとんど接点のない高杉さんを殺害したかった理由が分からない」
「それはそうだろう。僕には2人を殺したい理由なんてないんだから」
また容疑を否定したのかと思ったけれど,松本君は間をおいて再度問う。
「では何故です?」
「何故だって? 君が言ったんだろうに」
突然声高に,煽るような口調でそう言うと鳴海さんは嗤った。くつくつと咽喉を鳴らす鳴海さんから,わたしは知らず知らずの内に後退りしていた。これまで一度も笑っている姿を見せなかったのに態度が急変したこともそうだが,微塵も殺人を後悔していないような振る舞いが不気味だった。最早鳴海さんは一ノ瀬さんと高杉さんの殺害を認めたと言っていい。問題はその前の「殺したい理由なんてない」という発言だ。これが真実であれば,何か別の目的があってやむを得ず2人を殺害したように聞こえる。けれど暗い表情で嗤う鳴海さんからは赤の他人の高杉さんだけでなく,血の繋がった一ノ瀬さんを殺したことに対する罪の意識すら感じられない。それどころか,達成したい目的のためであれば殺人という手段もやむを得ない,そう思っている節も伺えた。倫理観の通じない,得体の知れない存在と初めて直面し背筋が寒くなる。いわゆるサイコパスと呼ばれる人種だ。人の形をした化け物が身近に潜んでいる現実にショックを受けた。
松本君は豹変した鳴海さんの振る舞いを不審に思っているらしく,眉根を寄せているものの別段恐怖は抱いていないらしい。これまでと変わらぬ声音のまま問い返した。
「僕が何か言いましたか?」
「切断された頭部に果たして意識は宿り得るのか」
予想だにしない回答に,松本君は虚を衝かれたように固まった。微塵も反応できないわたし達に構わず鳴海さんは続ける。
「分かっているさ。リニエールやポーリオの例は逸話的な側面が強く到底エビデンスと呼べるような代物じゃない。だから再現性はないと言うのだろうけれど逆だ,だからこそ試す価値がある。当時と今とでは中枢神経系の活動に対する理解には雲泥の差がある。黎明期には試行錯誤的に検証するしかなかっただろうが,今なら論理的な仮説立てを基に意識の崩壊過程を観察することができる。何もその過程全てを一度で正確に把握する必要はない,手掛かりさえ得られれば数理モデルに載せて証明していけばいい。菅とかいう対して生産性のない,大悟がやらなくともいずれ誰かから殺されていただろう下らない人生を歩んできた男に最期価値を与えてやったんだ。その命を無駄にしなかったことを感謝されど非難される筋合いはないし,科学の発展に資することができて彼も本望だろう」
話している言葉が全く別の言語なんじゃないかと思えるくらい,何を言っているのか理解不能だった。菅のことは心底嫌いだったが,それでもさすがに死んでもいいとまでは思わなかったし,もし生きていたならこの言葉に激高して殴り掛かっていることだろう。殺しておいて感謝しろという発想が理解できない。
......でも,それは多分こっち側からしか見ていないからかもしれない。
逆の立場ならどう見えるか。そう俯瞰してみて,ふと考えを改める。鳴海さんからするとわたし達の考え方こそ異常で理解できないものとして映っているのだろう。共感と倫理観の欠如というのは,人を殺すことができるか否かの分水嶺なのかもしれない。どちらの側に生まれるかはたまたま決まるもので,幸運にもこちら側にわたしは生まれ,鳴海さんは向こう側に生まれたのだ。そしてどちら側であれ,一方に産み落とされた以上その境界線を越えることはできないのだろう。
「......それで,結果はどうだったんですか?」
ぎょっとして松本君を振り返った。その顔はいつものようにほとんど無表情に近く,まるで興味深い実験の結果でも尋ねているかのような発言の真意は伺えない。対照的に,これまでの態度は一般社会に紛れ込むための演技だったのか,鳴海さんは眉根を上げ更に煽るように応えた。
「君も科学を志す者なら,自らの目で確かめてみればいいじゃないか」
できるものならやってみろ。
鳴海さんは言外にそう言っているのだ。この発言に,わたしはできる訳ないじゃないかと半ば憤りにも似た思いを覚えた。
松本君はしばらくじっと鳴海さんの顔を見つめていたが,意外にもふっと口元に笑みを浮かべた。
「そうですね。自らエビデンスを確認することこそが仮説の妥当性を主張する唯一の方法である。僕もそう考えます」
わたしは愕然と松本君に目を向ける。鳴海さんの考えに賛同する発言は,彼があちら側の人間であることを示す何よりの証拠ではないのか。何気なく普段接していた友人が決定的に自分とは異なる人種であることもショックだったが,この場で少数派はわたし1人という事実に総毛立つ。一度は汗の引いた背中に,嫌な汗が再び滲みだすのを感じる。これまでの人生で初めて命の危機に,悟られないよう咽喉を鳴らした。
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