第2話 狩りに備えて
家の手前まで戻り、びしょ濡れの服を一旦脱いで絞ってから家に入った。
「ただいま」
これは一応欠かさない。夫婦仲がいくら悪くても「ただいま」「おかえり」や、「おはよう」「おやすみ」は最低限の礼儀だ。
それはエルも心得ているため、「おかえり」はすぐに返ってきた。
『あらあら、そんなに濡れて……すぐにお湯を沸かすわね』
などということはなく。
「ずぶ濡れじゃない。雨が降りそうだったんだから、外套くらい持って行けばよかったのに」
濡れて帰ってきた旦那にかける第一声として如何なものかと思うが、外套を持って行かなかったのは俺の落ち度なので何も言えない。
冷たく言いながらも、乾いた布を手渡してくれただけ良しとしよう。
「強く降るとは思ってなかったんだ。ところで、少し用事が出来た。すぐ村に戻ってワムダと話してくる」
「魔物?」
「ああ。今夜には来るかもしれない。帰りがいつになるかわからないから、夕食は用意しなくていい」
「わかったわ」
これから魔物と戦うといっても、エルが俺の心配をすることはない。竜が来ようが亡者の軍勢が攻めて来ようが俺は死なず、怪我すらしないからだ。
それでも「気を付けて」の一言くらいは欲しいものだが、求めても虚しいだけだ。
俺は自室に入り、部屋の隅で埃を被っていた鉄の箱に手をかけた。
ギィィと蝶番が軋んで、重い蓋が持ち上がる。
臙脂の布に包まれた一振りの大剣はエルの故国であるヴァラノリアで授かったものだ。たまに箱から引っ張り出して稽古のために振ることはあったが、魔物の討伐でこれを抜くのは十年ぶりになる。
エルフの祝福が施された剣身は、どれほど魔物の血や脂にまみれても切れ味が落ちたり、欠けたりしない。魔物の穢れは斬った瞬間から聖水で洗ったように流れ落ち、刃に定着しないのだ。
鞘から軽く抜いて、剣身の様子を確認する。白銀のように澄んだ銀色の刃は薄暗い部屋の中でも窓の外から差す光を返して、鈍く光っている。刃には俺の顔が映り込んでいた。問題は特になし。
剣を鞘に戻し、寝台を押して動かす。現れた跳ね上げ式の扉を開き、梯子を下って地下に向かった。
地下の小部屋に収められているのは、俺が魔物狩りに勤しんでいた頃に収集した無数の武器だ。弓矢や斧、槍、鎧兜といった基本的なものから、日用品を改造した暗器の類いまで、殺しに使うあらゆる道具が揃っている。
自分から依頼を受けに行くような仕事の仕方は何百年も前にやめたため、ここにあるもののほとんどは無用の長物である。使うとしても、ノッカ村の村人から魔物狩りを依頼されたときくらいだ。
ほとんどはエルフの聖剣一振りあれば事足りるのだが、今回は魔物の群れを相手にする可能性がある。一頭たりとも村に入れないためにはある程度の準備が必要と判断し、持って行けるものは持って行くことにした。
準備を終えて地下から自室に戻る。そこから玄関に向かう途中、食卓でなおも編み物を続けるエルノーラが目に入った。
完全武装で俺が出て行こうとしても、顔すら上げようとしない。夫を敬えなどと言うつもりはないが、この素っ気なさにはさすがに腹が立った。
「行ってくる」
捨て台詞のように言い残して、俺は再び家を出た。幸いもう雨は止んでおり、雨除けの外套は必要なさそうだ。
そのまま家を振り返ることなく、俺は村へと続くぬかるんだ道に一歩踏み出した。
◆
「魔物の群れが来る!?」
俺の知らせを聞いたノッカ村の村長ワムダは、眼鏡の奥にある目を丸くした。
「確実とは言えないが、来るとしたら今夜だ。念のため俺は今夜、外壁の周囲を見張る。ワムダには村の皆に、今夜は絶対外に出ないよう伝えてもらいたい」
「そ、それはもちろん。すぐに知らせましょう。ほかにすべきことはありますでしょうか?」
「そうだな……松明をあるだけ用意してくれ。今夜は確か満月だったと思うが、雲が厚いし、月明かりは望めないからな」
「わかりました。早急にご用意します。それで、報酬は……?」
「またその話か……だいぶ前にも言ったが、たまに酒を飲ませてもらったり、作物を分けてもらうだけで充分助かってる。だから金はいらん」
「ですが、ヤスヴァル様には高祖父の代からお世話になっておりますし、祖父からもかつてゴブリンの野盗が大挙して現れたとき、ヤスヴァル様がお一人で退けられたと伺っております。大恩あるヤスヴァル様にそのようなお礼しかできないようでは、村長として先祖に顔向けができません」
何度もペコペコ頭を下げるワムダにわからないよう、俺は小さくため息をついた。
俺が不老不死でエルフの妻がいることから、ワムダは俺を神の化身か、ノッカ村を守る精霊か何かだと思っているらしい。他人より長生きしていることを除けば、ただの人間と変わりないというのに。
「じゃあ……ひとつだけお願いしよう。さっきダグの酒場で酒を一杯飲んだんだが、支払いがまだだ。その酒代を今回の報酬ということにしてほしい」
「はいっ。そのようなことでしたらすぐにでも。ダグが隠している名酒も山と用意させますので、はい」
「余計なことはしなくていい」
「たっ、大変失礼いたしました!」
「だから……そんなに畏まらなくていい」
「はいっ! 大変申し訳ありません!」
こいつと話していると正直疲れる……。
とりあえず事情を説明し終えた後、すぐ村人たちが大量の松明を用意してくれた。
松明を外壁の周りの地面に刺して、等間隔に並べていく。さらに、大きな牛のなめし革に包んで持ってきた無数の槍も一緒に突き立てていく。
ユキオオカミの素早さを考えると、弓を構えている暇はおそらくない。咄嗟に地面から槍を引き抜いて、遠くの魔物に投げつけようという判断だ。
村の外壁は少し歪んだ円形をしている。一番怖いのは四方から攻め込まれることだ。いくら俺でも、一人で村の周り全体を守り切るのは難しい。だからこそ、奴らを引き寄せる工夫が求められる。
俺は家の地下から持ってきた、木の葉が詰まった麻袋を取り出した。ニムレという木の葉で、ユキオオカミが好む蜜と同じ香りを放つ。これを焼いて煙を炊けば、奴らを引き寄せることができるはずだ。
「しばらく放っておいたからな……乾燥してないといいが」
少し不安はあったが、これ以外ユキオオカミを引き寄せる方法はないと割り切った。最悪村の中で防戦し、家の屋根や戸を食い破られる前に全滅されればいい。
準備しておくことはこれくらいで、ほかにやることはない。後は日が暮れるのを待つだけだ。
秋の空に浮かぶ太陽は西に大きく傾いている。雨で湿った空気はひんやりしていて、ぼーっとしていると体が硬くなってしまいそうだ。
不老不死の体は風邪を引くことはなくても、寒さの影響は受ける。冷えて動けなくなるのはまずい。
剣の素振りでもして体を温めておこうと思い立ったとき、外壁に沿ってこちらに歩いてくる人影があった。門の前で会ったあの女だ。
「あ、あの」
「何だ? 危ないから外に出ないよう村長から言われているだろう」
「私、その、村長に言われて、これを」
女の手には、湯気を立ち上らせるスープの器があった。
具は少なめだが、食欲をそそる香りを漂わせている。
「ありがとう」
「は、はい。どうぞ」
女はどもりながら器を俺に渡すと、村長と同じように深く頭を下げた。
「さっきは本当にごめんなさい。助けてくれたのに、逃げてしまって」
「構わない。それより、見ない顔だな。最近この村に越して来たのか?」
「はい。アーシャといいます、ヤスヴァル様」
「様は付けなくていい」
「で、ですが父から、ヤスヴァル様はとても偉大な方なので、失礼のないようにと言われておりまして」
「父? もしかして君は……」
「ワムダの娘です。正確に言うと父ではなく遠縁の親戚で、親を亡くした私を養子として引き取ってくれることになったんです。ここには三日前に来ました」
成程。遠縁ではあるが、腰が低いところはなんとなく似ている。
「ワムダに何を言われたのか知らないが、俺は偉大でも何でもない。西の森に勝手に住んで、隠居暮らしをしてるだけの男だ」
「けれど、ヤスヴァル様は〈魔物狩りの英雄〉と呼ばれていた方なんですよね? それと、エルフの魔導王とそのお姫様の伝説……あのお話に出てくる勇者様もヤスヴァル様だって、父から聞きました」
あの村長、余計なことを喋りやがって……。
「確かにそれは俺だ。でも、もう千年も前の話だ」
「本当に……不老不死なんですね」
「ああ」
「なんと言うか、すごいです。物語の中に出てくる人が私の目の前でこうして生きてるなんて」
「人間じゃ珍しいだろうが、エルフの大半がそうだ。伝承で語られるエルフの英雄や魔術師は今も俺たちの知らないところでひっそり生きてる。もっとも、この世界にエルフはもうほとんど残っていないがな」
「ヤスヴァル様は、そうした方々に会ったことがあるのですか?」
「ある」
「そのお話、もっとよく聞かせてくれませんか?」
「エルフに関心があるのか?」
「エルフもそうですけど、私……」
アーシャは顔を赤くしながら、俯いたり、急に顔を上げたりして挙動がおかしい。何か言おうとしてるようだが、言葉にならない様子だ。
気にはなったが、彼女の言葉を待っている時間はない。
「早く村に戻れ。日が落ちてきた」
「えっ? あ、本当だ」
アーシャは暗くなり始めた曇り空を見上げて言った。
「そ、それでは私はこれで。ご武運をお祈りしています」
再びペコリと頭を下げて、アーシャは足早に去って行った。
残された俺は外壁に背中を預けて地面に腰を下ろし、アーシャの持ってきたスープを飲んだ。
塩味が効いていて美味く、体がポカポカと温まった。
元々暗かった曇り空に少しずつ夜闇が迫る。
人が安らかな眠りに就こうという夜こそ、奴らの独壇場。
だが、それは俺も同じこと。
魔物を殺す狩人は、夜にこそ感覚が冴え渡る。
大量の魔物が接近している。
気配ではなく、最初に感じたのは予感だった。
俺はすぐにニムレの木の葉を麻袋ごと松明の火に押し当てた。
思った以上に水気を含んでいた葉はパチパチと爆ぜながら燃えた。
赤々と燃える葉を散らして、匂いを広めていく。
戦場に漂うのは血と生き物の焼ける臭いが似合いだが、今香っているのは菓子のような甘い香り。久しぶりの狩りだが、香りのおかげで緊張せずにできそうだ。
「……思ったより早く来たな」
今度ははっきりと目で魔物の存在を確認した。
松明に照らされて見えたのは、無数の白い影。
遠目に確認できるだけでも百は下らない。通常よりも大きな群れだ。
あれだけの群れを相手にして、一頭たりとも外壁を越えさせないのは少々厳しいかもしれない。
骨が折れそうだが、仕事を請け負ったからにはどんなことになっても剣を振るうだけだ。
俺は腰に提げた聖剣を抜き放つ。
聖剣は夜の訪れた曇天の下、松明の光を受け、輝きながら翻った。
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