第14話 黒い魔女はかく語りき
本を読み終えた後、俺たちはマリノの街をぶらぶらして時間を潰した。あまり大きな街ではないため、日が沈み始める頃には街の裏路地まですべて巡り終えてしまった。
空が群青色に染まり、空に星が瞬き始める頃、俺たちは部屋を取った宿に戻った。昼間と同じ食堂で簡素な夕食を済ませると、大衆浴場がすぐ近くにあるという話を宿の主から受けた。
「大衆浴場なんて久しぶりね」
浴場に向かう道すがら、エルが言った。
「いつもは家の近くの泉で済ませるからな。ヴァラノリアの浴場はどんなだった?」
「ヴァラノリアに浴場なんてないわよ。強いて言うなら、王城から少し歩いたところにあった泉が浴場ね。だから、人工的に作った浴場って何か新鮮」
「王城は立派なのに浴場は自然のものを使うのか……」
またひとつ、エルフの不思議に触れた気がした。
そして俺たちは大衆浴場の中で、男湯と女湯に別れた。
共有部分は大勢の人がおり、男女を問わず楽しそうに談笑している。
俺はその間を抜けて、男湯に入った。
脱衣所に来ると、俺は奇妙な感覚を抱いた。
脱衣所と共有部分を隔てる戸を閉めた瞬間、外の音が完全に閉め出され、耳が痛くなるような静寂が下りてきたのだ。それほど音を遮るような戸には見えないのだが。
静かなのは脱衣所にまったく人がいないのも原因だった。
共有部分には男の客も数多くいたはずなのに、どういうわけだろう。
あそこは完全に近隣住民の社交場として使われているだけなのだろうか。
貸し切りは喜ばしいのだが、まるで亡霊でもいるような気配を感じ、俺は寒気を覚えつつ服を脱いで脱衣所を出た。
中央がへこんだすり鉢状の部分に湯が張られているだけの簡素な浴場が目の前に現れる。大きさもそこまでではないが、汚くなければ特に気にはならない。
浴場の中も恐ろしく静かで、聞こえるのは壁に付いている蝋燭がチリチリ燃える音だけだ。
違和感を覚えつつも垢擦りで体の汚れを落としてから、湯船に浸かる。
「あ~……」
思いのほか湯は熱く、体を沈めると思わず声が漏れた。
秋のひんやりした空気で冷えた体に、湯の温かさが染み渡る。
それと同時に、浴場の空気への違和感も湯に溶けていくように感じられた。
女湯も貸し切りだろうかと、おそらく壁の向こうにある女湯に思いを馳せる。
あの美貌は女だろうと構わず魅了してしまうから油断ならない。
無事出て来られればいいがと、益体のない妄想をしていたときだった。
ペタッペタッという、裸足で石の床を歩く音が戸の向こうから聞こえてきた。
どうやら他の客が入ってきたらしい。貸し切りでなくなるのは少々残念だが、静か過ぎても落ち着かないため、ちょうどいいと思い直した。
浴場の戸がゆっくりと開く。どんな男がやって来たのかと、入口に目を凝らす。
スラッと伸びる長い脚。美しい曲線を持つ尻にくびれた腰、豊かな胸。
そして、あるはずのものがない。そいつは布で前を隠していなかった。
「なっ……!?」
入ってきたのはユトだった。
背中まで伸びる黒い髪を束ねた姿は、いつもと違う雰囲気を醸し出している。
無駄の一切ない肢体と妖艶な微笑から、俺は慌てて目を逸らす。
「お前、何でここに……!? というか、何で男湯に入ってこれた!?」
「魔女をナメてもらっちゃ困るわね。こっそり入るのはマントでできるし、人除けの結界を張るのなんて簡単よ」
「やけに人がいないと思ったらそういうことか……」
あることにふと気づき、俺は湯船から上がって戸の取っ手に手をかけた。
鍵など付いていなかったはずだが、押しても引いても戸は開かない。
「連れないわねえ。せっかく一緒のお風呂なんだから、ゆっくり話しましょうよ」
「人を閉じ込めておいてよく言うな」
「あ、垢擦ってから入るから、ちょっと待ってて」
「人の話を聞け!」
昔も今も、こいつには振り回されっぱなしだ。
俺は湯冷めしないように仕方なく再び湯船に浸かった。
ユトが何か妙な動きをしないように、一挙一動を監視する。
「あまりじろじろ見ないで……恥ずかしいから」
「うるさい黙れ」
変態と言われようが関係ない。これ以上妙な真似をされては困る。
ユトが垢を擦っている間、俺は彼女の脇腹に目を留めた。
完璧に見える白い肌に一点だけ、醜い傷跡が付いている。
「お前、その傷……」
「ん? ああ、これ。あのときの。覚えてる?」
「ああ」
俺とこいつが二人で魔物狩りをしていた頃。ゴブリンの巣窟に踏み込んだとき、ユトは脇腹に矢を受けた。あのとき下手を打ったのは俺で、こいつは俺を庇ったのだ。
矢には毒が塗られており、ユトは生死の境を彷徨った。ゴブリンの巣窟から人里に下りている余裕はなく、ユトが持っていた薬草を利用して俺が解毒をするしかなかった。
だが、当時の俺に薬草に関する知識はない。
そこで、息も絶え絶えのユトから薬草の煎じ方を指示してもらって治療を施したのだ。
「傷……残ったのか」
「脇腹を貫かれたからね。でもこれは、あなたが私のために頑張ってくれた証。魔術で消すこともできるけど、これを消すつもりはないの」
ザバッと桶に張った湯を被り、垢を落としたユトは俺のすぐ隣まで来て、そっと足先から湯船に浸かった。
「どう? 奥さんとの旅行は楽しい?」
「やっぱり知ってたのか。お前、うちから出て行った後、どこで何をしてた?」
「その辺をうろうろと。時々獣に憑依してあなたたちのことを観察してたわ」
「そんなことをして、お前に何の得がある?」
俺の問いにすぐには答えず、ユトは湯水で顔を洗ってからこう言った。
「あなたがちゃんと幸せかどうか監視してるの。もっと言うと、あのエルフ姫があなたの奥さんに相応しいかどうか見てるのよ」
いつもこういう話題を持ち出すときはヘラヘラして、本気かどうかわからないユトが今は怖いほど真剣な顔をしていた。
「千年も経ってまだ保護者面するのか、お前は」
昔からこいつはとにかく口うるさかった。俺の身を案じてくれていたのだろうが、怪我をするような危険な狩りには行くなと、よく無茶なことを言っていた。危険じゃない狩りなどありはしないというのに。
「だって私はヤスのこと、心の底から愛してるもの。私は別にあなたを自分だけのものにしたいなんて欲深いことは言わない。今はね。けどその代わり、あなたには幸せになって欲しいの。あのお姫様と一緒にいることであなたが幸せになれないなら、私は彼女を殺してでもあなたを奪うわ」
熱い湯に入っているはずなのに、寒気を感じる。
寒さを感じたのはユトの目のせいだ。
冷たい目は、彼女の発言が嘘や冗談でないことを告げていた。
「……正直に言うと、ここ数十年は幸せを感じられてなかった」
俺は過去を振り返り、言葉を選びながら自分の心情を述べる。
「あいつと一緒にいるのが息苦しいと感じることもあった。けど、お前がうちに来たのがきっかけで、昔みたいにあいつのことをいろいろ考えてみようと思うようになったんだ。そうしたらあいつも笑ってくれて……こんな細やかなことでも、幸せだと感じられている。あいつといることで不幸になるなんてことはない」
「けど、それは一時的なものでしょ?」
ユトの指摘は鋭く、槍のように俺の胸を突いた。
「人間が数十年生きるのとは違う。あなたたち夫婦はこれから何千年、何万年と一緒に生きていくのよ? 今は幸せだって言うけど、あなたはたった千年で一度は彼女といると息苦しいと思うようになった。今後そういうことがないって言い切れる?」
「それは言い切れないが……長く一緒に暮らしてれば、少しくらい相手を鬱陶しく思ったりすることもあるだろう」
「その通りね。でもあのお姫様、物凄く不安そうだったわよ? 私がちょっとあなたを誘惑したら簡単に慌てて、あなたの気を引こうと必死になって。きっとあなたが人間だから信用してないのよ。いつか心変わりして、自分のところから離れていっちゃうんじゃないかっていつも不安なの」
「……お前にあいつの何がわかる」
まるで尋問するようなユトの問いに、俺はだんだんと怒りを募らせた。
ユトとエルが会ったのはほんの少しの間だけだ。
俺とだって再会してからそれほど言葉を交わしたわけではない。
なのに何故、こんな風に知ったような口を利けるのかと。
「わかるわよ」
と、ユトは断言した。
「私だって千年生きた。千年の間に世界中でいろんな人間を見てきたわ。だから、顔を見て少し話せば相手の考えてることはだいたいわかる。あなたが私のことなんて眼中にないことも、あなたがお姫様の望んでる恋人みたいな感情を、もう持ってないことをね」
ユトは湯の中で手を伸ばし、人差し指で俺の胸に触れた。
指先は鳩尾を滑り、ゆっくりと腹に下る。体を這う蛇のように。
「彼女はエルフだから、人間のあなたと違って心も永遠に若い。気分はきっと今でも新婚。毎日『愛してる』って言って欲しいと思ってるし、毎夜抱いて欲しいと思ってるでしょうね。けど、あなたにとって彼女はどう頑張ってもただの家族でしょ? あなたがどんなに口先だけ『あいしてる』って言っても、それは彼女が望む『愛してる』とは違う。このすれ違いを、今のあなたじゃどうにもできない。どれだけ昔のことを振り返ってもね」
ユトの指は俺の腹を撫で、臍の上を過ぎ、股下に伸びかける。
俺はそこで、自分でも驚くほど強くユトの手を払った。
急に蘇ったのは、ユトが俺の家から去った後のエルだ。
『愛してるって言って!』と彼女は言った。
だが、俺はまともに彼女に取り合おうとしなかった。
恥ずかしさだけが取り合わなかった理由ではない。
今更そんなことを言う間柄でもないだろうという冷めた思いがどこかにあったのだ。
揺れる湯船に、混乱した俺の顔が歪んで映っている。
その顔の横にユトの顔がスッと寄せられ、頬に唇が触れた。
頬に留まった唇は、クチュッという淫靡な音を立てて頬を離れる。
「歪んだ夫婦関係に疲れたらいつでも呼んでね。私なら、いつどんなときでもあなたを受け入れてあげるから」
「お前と一緒になって、今の俺とエルのようにならないと言い切れるのか?」
「だって私はあなたに見返りなんて求めないもの。あなたの存在を感じることができていれば、それで幸せだから」
耳元でそう囁くとユトは湯船から上がり、まとめていた髪を解いた。
解けた黒髪がユトの背中に貼りつく。その様は、まるで小さく折り畳まれた悪魔の翼のようにも見えた。
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