第13話 昔々の物語

 予定よりも少々遅れて、俺たちはマリノの街に到着した。粗末な木の家が目立つノッカ村とは違い、マリノの街を形作る家々は石と鮮やかな橙色の屋根でできている。美しいが真新し過ぎず、長い歴史を経てきた風合いを感じさせる眺めがそこにはあった。


「時間は……昼より少し前か。先に昼食を済ませるか?」

「まず、馬車が出発する時間を調べた方がいいんじゃない?」

「確かにそうだな」


 というやり取りを経て、俺たちは道行く人に馬車の発着場所を尋ねつつ、街の東側までやって来た。

 話に聞いた通り、馬車が何台も待機している停留所があった。馬車が出発するのを待つ人、長旅を経てきた馬の毛繕いをする人、壊れた馬車を修理している人など、多くの人で停留所はごった返している。


「すみません」


 俺は馬に刷子さっしをかけている若者に声をかけた。


「ファリアブルク行きの馬車が次に出発するのはいつですか?」

「あー、それならついさっき、今日最後の馬車が出発しちまったよ。もう少し早く来てればねえ」

「え」


 まだ昼前なのにもう最後の馬車が出たのか。

 ファリアブルクほどの港町なら、一日に何台も馬車が行き来しているものと思っていたが、まさかこれほど本数が少ないとは予想外だった。

 考えてみれば、ノッカ村に比べれば栄えているというだけで、マリノもマダラス地方にある辺境の田舎町である。あまり利用者がいないのだろうと思い直した。


 俺は明日のいつ頃馬車が出るのか尋ねてから、停留所を離れた。

 出鼻をくじかれる形になったが、期限があるわけではないので焦ることはない。


「今日はどこかに宿を取るか」

「それがいいわね」


 エルが怒っていないことに内心胸を撫で下ろし、宿を探す。

 運が良いことに宿はすぐ見つかり、そこの食堂でゆっくりと昼食を食べた。硬いパン二個と豆しか入っていない味の薄いスープ、チーズの欠片という簡素なものだったが、俺たちは黙々とそれらを腹に収めた。


「さて……午後が丸々空いたな。どうする?」

「とりあえず街中を散歩しない? さっきここに来る途中で本屋さんを見かけたんだけど、そこに行ってみたい」

「わかった」


 一度宿を出て、エルが行きたいと言った書店に向かう。ノッカ村には書店がなく、読みたい本があればワムダを介して発注するようにしているのだが、それでも手にできる本は限られている。


 エルがかつて過ごしていたヴァラノリアの王城には、エルフが何万年にもわたって蓄積してきた知識をまとめた大書庫があったそうで、彼女は小さい頃からそこに入り浸っていたという。薬草の知識も書庫にある本から得たものだと以前言っていた。本好きの彼女にとって、やはり書店は今も心躍る場所なのだろう。


 俺は反対に、魔物狩りをしている頃はほとんど字が読めなかった。そのせいで、魔物狩りの依頼に関する契約書の内容がよくわからず、騙されることがしばしばあった。

 字を学んだのはエルと結婚してからだ。彼女を先生にして、頭痛を覚えながら本を読み進める……今では良い思い出になっている。


 エルが見かけたという書店は背の高い書棚が立ち並ぶ狭苦しい空間だった。

 だが本好きという人種は得てして、本で混沌とした空間を好むものだ。

 というのも、エルがまさにそういう人種だからである。


 彼女は案の定、薄暗い店内で目を輝かせ、やや色褪せた本の背表紙を一冊一冊眺めていた。

 俺はエルの横で、嬉しそうに本を見る彼女を眺める。

 本に関心はないが、この時間の過ごし方はなかなか悪くない。


「ヤスヴァル。これ」


 エルは少し背伸びをして、一冊の本を手に取った。

 革の表紙に金の箔押しがされており、表題は──


「『ヴァラノリアのエルフ姫』」


 互いに顔を見合わせ、クスッと笑う。


「これ、私のことよね?」

「他にいないだろう。ちょっと開いてみてくれ」


 俺がそう言った瞬間、店の奥から大きな咳払いが聞こえた。

 見るからに頑固そうな老人がこちらに睨みを利かせている。


 少々荷物になるが、俺たちはその本を購入して書店を後にした。

 それから近くにあった広場の椅子に腰かけて、本を読む。

 子どもにも読みやすいようにするためか、本には優美な挿絵もついていた。


「『昔々、ヴァラノリアというエルフの国に、それはそれは美しいエルフの姫がおりました』」


 フフッと照れ臭そうに笑いつつ、エルは本を読み進める。


「『姫の美しさに惹かれた王様や貴族、高名な騎士たちが、毎日毎日代わる代わる姫に結婚を申し込んできます。ですが、姫はいつも気のない返事ばかり。〈あなたたちは私と違って、いつか死んでしまうでしょう? 私のことを永遠に守れない人とは結婚できないわ〉』……って、私こんなこと言ってないわよ!」

「まあ、けっこう多くの人間がこの話は作り話だと思ってるから、仕方ないだろう。正確に伝わってないんだよ」

「もう……ええと、なになに……『エルフは永遠の命を持つ人々ですが、結婚を申し込んできた人のほとんどは人間でした。エルフの貴公子たちの多くは皆、〈約束の地〉という遠い遠い異国に旅立ってしまっていたのです』」


〈約束の地〉はこの本の創作ではない。エルの父親であるシルヴァを含め、多くのエルフが〈約束の地〉に旅立ってしまっており、この世界に残っているエルフは数えるほどしかいないのだ。


 エルフ以外にも、多くの妖精たちが住まう楽土とされる〈約束の地〉――あらゆる苦しみとは無縁の理想郷と言われているそこへ行くには、エルフが造った魔法の船に乗っていく必要がある。エルフたちは数千年前から自分たちの時代が終わり、人間の時代が到来したことを悟って、多くが〈約束の地〉に旅立っていった。


 ヴァラノリアはこの世界に残った最後のエルフの王国だったが、エルが俺と結婚して数年後、シルヴァが〈約束の地〉に渡ったことで崩壊した。今は鬱蒼とした広大な森に、美しい城跡を残すのみとなっている。


 無論、エルにも〈約束の地〉に旅立つ権利はあった。

 この世のあらゆる苦しみから解放される理想郷で、永遠に過ごすこともできた。

 しかし彼女はそれを捨てたのだ。他ならぬ俺のために。


「『姫が結婚の申し込みを断り続けていたあるとき、ヴァラノリアに悪い魔物が巣を作りました。魔物にとってエルフたちの肉はとても美味しい貴重な食べ物。それを狙って巣を張ったのです。

 このままでは行けないと、王様は各国から勇敢な戦士を集め、魔物を追い払うよう求めました。その中に、飛び抜けて強い戦士がおり、姫はその人のことが好きになってしまいます。〈この人となら、束の間でも一緒にいたい。いつか別れてしまうとしても関係ないわ!〉』」


 そのとき、エルは頁をめくる手を止めた。

 本から目を離し、遠くを見つめている。


「? どうした」


 俺が尋ねると、エルは俺の肩に頭を乗せてきた。


「私もあのとき、同じこと考えてた」


 ポツリとエルは呟く。

 あのときとは、泉のほとりで言葉を交わしたときのことだろうか。


「あなたがいつか死んでしまうとしても、私は気にしなかったもの。ただあなたと離れるのが嫌で、嫌で……ただそれだけだった」

「……そうか」


 エルと違って俺は年老い、いつか死ぬはずだった。

 そんな俺を彼女は愛してくれたのだ。


「続きを読もう」

「……うん」


 エルは静かに頁をめくる。


「『魔物を退治した戦士も姫のことを愛していました。二人は結婚を誓い、そのことを姫の父親である王様に報告しますが、王様は受け入れてくれません。


〈いつか死んでしまう人間の妻になるなど許さん!〉


 それでも二人は決して離れようとしませんでした。見かねた王様は魔法の力で恐ろしい竜に変身し、戦士に襲いかかります。戦士は傷つきながらも、竜に変身した王様と戦い、勝利しました。

 ついに王様も二人の結婚を認め、戦士に永遠の命を与えます。〈これで永遠に、娘のことを守ってくれ〉と。そして二人は文字通り永遠の愛を誓い、いつまでも幸せに暮らしました……』」


 読み終えたエルはパタンと本を閉じ、まるで大長編を読み終えた後のように深くため息をついた。

 息を吐き終えると、突然エルは含み笑いを始める。


「どうした?」

「何でもない」

「何だよ一体」

「何でもないのっ!」


 おどけて言うと、エルは俺の肩に頭を置いたまま笑った。

 釣られて俺も笑う。

 いつまでも幸せに暮らした……という一言ではとても語り尽くせないほど、千年という時間の間にいろいろなことがあった。

 だが、少なくとも言えることがひとつある。

 俺は今このとき、確かな幸せを噛み締めていた。

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