第12話 遠い日の思い出

血飛沫が顔に降りかかる。

 トロルの口蓋を貫いた剣を伝って流れる鮮血が俺の手を赤く染めた。


 ここはヴァラノリア西部の森にある洞穴周辺。ここには大量のトロルが棲み着いており、俺たち狩人はこの日、洞穴までトロル討伐のために派遣されてきていた。


 トロルは人間の二、三倍の背丈を持つ人型の魔物だ。もっとも、似ているのは手足があって二足歩行する点だけで、容姿は人間と似ても似つかず、酷く歪んでいる。肌は灰色か黒で、いずれも岩のように硬く、手足を剣で斬りつけても傷を付けられない。


 だからこそ、唯一柔らかい口の中や目を突く必要がある。トロルの口に剣を突っ込むのは不潔な上に臭いので正直避けたいのだが、武器が剣と弓しかない俺はそうするしかなかった。


 これで今日討伐したのは四体。

 トロルを相手にしていることを考えれば、まあまあの数と言えるだろう。


 だが、トロルはまだまだいる。数では圧倒的に勝っている狩人だが、巨人族に類するトロルの腕力は人間の比ではない。俺たちは奴らの棍棒で打たれただけで簡単に骨を砕かれて死ぬのだ。既にそうなってしまった狩人が何人もその辺に転がっている。


「ひっ……! ひいぃっ!」


 足を怪我したのか、動けない狩人にトロルが迫る。奴らに感情などないだろうが、どこか勝ち誇ったような表情で巨大な棍棒を振り上げた。


 狩人にとどめを刺すのに気を取られているトロルの目に、俺は横から矢を放つ。

 矢はトロルの右目を射貫き、トロルは絶叫しながら棍棒を取り落とした。

 すかさず間合いを詰め、トロルが滅茶苦茶に振り回す腕を躱して懐に入る。

 そして、血にまみれた剣を口の中に柄も通れと押し込んだ。

 剣の切っ先が喉を貫き、首の後ろ当たりの皮膚を突き抜けた。


「ゴォ、グフッ、ゴァ……」


 大量の血反吐を浴びる前に剣を抜き、距離を取る。

 トロルはまるで酔ったようにふらついてから、ばったりと仰向けに倒れた。


「す、すまない」


 怪我した狩人はそう言ったが、俺はそれを無視して次のトロルを狩りに走った。

 元より助けるつもりなどなかったのだ。むしろトロルを油断させてくれたあの狩人を、俺は囮として利用した。礼を言われる筋合いはない。


 全身が血まみれだ。すべてトロルのドロッとした返り血である。トロルを狩るたび服が重くなっていったが、それでも俺は休まずトロルを狩った。剣の一振り一突きに憎しみを込めて、確実に殺す。すべてのトロルを狩り終えたときの俺の有り様は、周りの狩人が青ざめて距離を置くほど酷いものだった。


 この日、俺が狩ったトロルの数は十四。狩人の中でも抜きん出た数を記録したということで、俺は帰還後、シルヴァから魔術の施された聖剣を授かった。


 いくら血と脂に塗れても切れ味が落ちず、刃毀れもしないという聖剣。

 これで手入れを少し怠っても、気にせず魔物を殺せると俺は思った。


     ◆


「さすがに落ちないか……」


 聖剣を授かった後、ほかの狩人から勧められた酒を断った俺は野営地に程近い川原に来ていた。血みどろになった服を洗うためである。

 ちなみに式典のときは王に失礼であるということで、エルフの服を貸してもらって事なきを得た。


 元の色がどんなだったかわからないほど赤黒くなった服を流水に晒し、揉み洗いしてみたが、染みはなかなか落ちず、臭いに至ってはまったく消えない。

 まあ、べとべとした感じがなくなればとりあえず狩りに支障はない。

 そう楽観的に考えて、服を川から上げたときだった。


「ちょっと、あなた! そこで何してるの!?」


 どこかで聞いた声がしたと思ったら、前に騒動を鎮めたエルフの姫だった。

 どうやら怒っているらしいが、怒られるようなことをした覚えがなく、首を傾げる。


「服を洗っていたのですが」

「そこで魔物の血を流したりしたら川が汚れるでしょ!」

「では、どうすれば……」

「桶で川の水を汲んで、その辺で洗えばいいじゃない!」

「……ああ、そうか。その手があったか。申し訳ない」


 今は桶がないので、あとで探すことにしよう。

 とりあえず洗った服を近くの木の枝にかけた。


「あなた、今日一番多くトロルを退治した狩人でしょ。ヤスヴァル・リヴィエントだっけ」

「そうですよ。まあ、自慢するほどのことでもないです」

「どうして?」

「優劣を競っているわけではないので。俺は仕事をしただけですから」

「ふうん」


 正直、誰かと話して余計な体力を使いたくないので、いつも以上に素っ気ない言い方をして追い払うつもりなのだが、このお姫様は俺の意図など知らず、去る気配をまったく見せない。


「あの……何か他にご用でも?」

「いいえ。特にないわ。ただ何となく、あなたと話したいだけ」

「俺なんかと話しても面白くありませんよ?」

「それを決めるのは私であって、あなたじゃないわ」


 思った以上に面倒臭いお姫様である。「失せろ」と一言言おうかとも考えたが、一応相手はエルフの国の王女だ。不敬を働けば、討伐隊から外されるのではと俺は恐れた。


 姫はその後もしばらく俺の傍に居座り、どうでもいいことをいろいろ聞いてきた。

 好きな食べ物、行ったことのある土地のこと、俺の出自のこと。

 何故彼女はこれほど俺に構うのだろうと、だんだん苛々が募ってくるのを感じた。


 そこでふと、あることを考えついた。魔物の迷信を利用するのだ。

 先程、トロルの血で川が汚れると言った彼女はきっと魔物が持つ血の穢れの迷信も信じているに違いない。毎日大量の魔物の血を浴びている俺は穢れており、近づくと穢れが伝染うつるぞと脅せばいいのだ。


「姫様。あまり俺にかかわらない方がいいですよ」

「どうして?」

「俺の体は魔物の血で穢れています」


 声を落とし、恐怖を煽るように言ってみる。


「穢れによる呪いを受けた俺の体はいつか腐り、地獄に行く。それは傍にいる人間に伝染するのです。エルフも例外ではない。だからあなたも──」

「そんなの迷信でしょ?」


 斧でばっさり首を切り落とすような一言に、俺は口を噤んだ。

 エルは小馬鹿にしたように口に手を当てる。


「……まさかあなた、魔物狩りなのにそんな根も葉もない話を信じてたの? で、自分は呪われてるかもってビクビクしてた? あはは、面白い! そんなわけないじゃない!」


 お前を遠ざけるためだよこのエルフ女、とは言えず。

 俺は顔が熱くなるのを感じながら屈辱に堪えた。


 一頻り笑い、まなじりに溜まった涙を拭ってから姫は改めて俺を見た。

 先程まで俺をからかっていた顔はない。

 慈愛に満ちた、とても優しい顔をしている。


「たとえあなたが穢れてても私は気にしないわよ」


 そのとき、俺の視線は彼女の瞳に吸い寄せられた。

 海のように深い青の瞳がまっすぐ俺を見つめている。


「だって、私たちみたいに戦えない人を守ってくれてるんだもの。だからあなた、自分の仕事をもっと誇っていいのよ」


 俺はこの瞬間、姫の瞳に星の輝きを見たように思った。

 彼女の瞳を満たす星々は、俺たちの頭上で今輝いている星より遥かに美しい。

 星に美しさを感じるような感性など持ち合わせていない俺だったが、彼女の瞳の星は純粋に綺麗だと思った。

 その美しい星を、この手にしたいとも。


 今思えばこのとき俺は既に、このエルフの姫に恋をしていたのだと思う。


     ◆


「ヤスヴァルー」


 翌日も川原に一人ぽつんといるところに、エルノーラはやって来た。


「あっ、いた。ヤスヴァルー!」


 その翌日も、野営地の隅でちびちび酒を飲んでいた俺を見つけ、エルノーラが声をかけてきた。


 彼女はどういうわけか、基本的に供を連れ歩くことがない。シルヴァが放任しているのか何なのかはわからないが、礼節など弁えないゴロツキも多い狩人の野営地に一人で来るのは危険だ。俺は彼女の身の安全を気にして、「今日はいつ来るか」「明日はいつ頃来るか」と、常に彼女のことを考えるようになっていった。


 さらに五日が過ぎた。この頃には主要な魔物の巣窟をほぼ潰し終え、残りはヴァラノリアが誇るエルフ軍だけで処理できる段になった。

 つまり俺たち狩人の仕事は終わりで、翌日にはヴァラノリアを去ることになったのだ。


 旅立ちを翌日に控えた日の夜。俺は王城近くにある美しい泉のほとりに立っていた。

 鏡のように澄んだ水面の上を、燐光を放つ虫がゆったりと舞っている。

 俺はエルノーラにこの泉のほとりに来るよう言われていた。話したいことがあるという。


 心を落ち着かせてくれる虫の声以外は何の物音もしない静かな場所だ。

 だが、そんな場所の空気に反して、俺の胸はざわついていた。


「ヤスヴァル」


 後ろから、このほとりに漂う空気のように澄んだ声がした。

 振り返った俺は、闇に慣れた目をやや細めて彼女を見た。


 薄い布を重ねた純白の服を纏う彼女──エルノーラは、空に浮かぶ月のような光を放っている。ゆったりと歩く様にはいつもの町娘のような活力はなかったが、代わりに月か星が人の形を取って現れたかのような輝きと美しさがあった。


「ごめんね、呼び出して。明日ここを発つって聞いたから、話したいことがあったの」

「はい……いえ、構いません」


 あまりの美しさに呆気に取られた俺は自分でも何を口走っているのかわからなくなっていた。これまでは大して意識したこともなかったエルノーラの美貌に、強く惹かれている。そのことを自覚するのに、しばしの時間を必要とした。


「あなたに初めて話しかけたときのことなんだけど……。私あのとき、一人で夜の森を散歩してたのよ。そのとき偶然あなたを見かけたの。最初は声もかけずに通り過ぎようとしたんだけどね」

「血で川が汚れてしまうと、注意してくれたんでしたね」


 俺が言うと、エルノーラは苦笑しながら首を横に振った。


「それは話しかけるための口実。本当は、あなたのことを放っておけなかっただけ」

「放っておけなかった?」

「根拠はないんだけど、ただ何となく、この人はこのまま放っておいたらどこかで死んでしまうと思ったの。物凄く強い狩人だってことはわかってたんだけどね」


 俺は目を見開いた。確かに俺は自分の体のことなど顧みず、一度飛んだら戻らない矢のような戦い方をしている。生に対する執着はない。誰とも言葉を交わさず、孤独で、いつどこで死んでも誰からも顧みられることのない人生を送っている。


 それを何の会話もせず、俺の姿を見ただけで察したのか。


「だから気になって話しかけたの。それから討伐隊が魔物の巣に向かうのを見送って、今日は怪我しないで帰ってくるかって気にして……そうしたらここ数日、ずっとあなたのこと考えてるなーって気づいた。今はあなたに死んで欲しくないって、心の底から思ってる」


 気づくと、隣に立つエルノーラは俺の顔をじっと見つめていた。

 星を湛える瞳をわずかに潤ませて。


「死んで欲しくないの。それと……あなたから離れたくない」


 そっと伸びてきたエルノーラの手が俺の手に触れる。

 俺はその手が離れてしまわないうちに、サッと捕まえた。

 彼女の大きな瞳が揺れる。

 彼女に見つめられていることを感じながら、俺は泉を見た。


「……俺も、ここ数日、ずっとあなたのことを考えていました。今日は来るだろうか……明日も来てくれるだろうかと」


 エルノーラの手をさらに強く握り締めて、俺は彼女と真正面から向き合った。


「俺も今、あなたと同じ気持ちです」


 精一杯の告白が水面を揺らす。虫の声はいつの間にか止んでいた。

 沈黙の中に響くのは自分の心臓の鼓動。

 エルノーラの顔が近づくに連れて、鼓動は大きくなっていく。

 そして──



     ……

     ……

     ……



「ヤスヴァル。ねえ、ヤスヴァルったら」


 ハッとして、周りを見る。

 夜の泉は消えていて、俺は黄金色に輝く森に立っていた。

 隣にはエルの姿がある。昔と何ひとつ変わらない美しさを湛えて、彼女はそこにいた。


「どうしたの? ぼーっと突っ立って」

「……いや、何でもない」


 エルは俺の手を握ったままだ。

 俺はその手を一度放してから、もう一度強く握り直す。


「行くか」

「? うん」


 少し小首を傾げたが、エルは少し嬉しそうに微笑んで、手を強く握り返してくれた。


 過去に思いを馳せて気づいたことがある。

 以前、俺はアーシャに「妻の方が俺を好きになってくれた」と言った。

 だが、彼女が俺を意識するようになったのは、たぶん最初に話しかけて少し経った後だ。


 俺が彼女に恋をしたのはもう少し前。青い瞳の中に星を見たときから。

 その星は今も確かに、彼女の瞳の中で光り輝いていた。

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