第11話 そうだ、旅行へ行こう。

アーシャの言う通り、昔のようにエルと接するにはどうすればいいか。

ユトが襲来してから数日の間、俺はそのことについて悶々と考え続けていた。


 勢いに任せて抱けばいいという声も聞こえてきそうだが、それは不誠実に思えるし、やりたくない。今俺に求められているのは、出会ったばかりの恋人のように、傍にいるだけでソワソワするような、そういう関係性だ。


 ユトのせいで一時情緒不安定になったエルを見て、俺もようやく以前から抱いてきた「このままではいかん」という意思を形にしようと思い立った。


 だが、残念なことに時間を巻き戻すことはできないため、日常生活の中でかつてのように新鮮な気持ちでエルと触れ合うのは困難である。少なくとも、このまるで変化のない田舎では。


 そこで思い立ったのが──


「エル。旅行に行こう」


 柄にもない提案をするのは恥ずかしかったが、俺は朝食の際に勇気を出して提案した。


「旅行? どうしたのいきなり」

「いや、ここ数十年、近場を行き来するだけで遠出することがなかったと思ってな。特に行き先の候補とかは決めてないんだが、どうだ?」

「う、うん。いいけど」


 嫌々というわけではなさそうで、とりあえず一安心。


「どこか行きたいところはあるか?」

「うーん、そうね……それならファリアブルクにしない? 港町で海が綺麗だし、あそこならカリナも住んでるから、宿代が浮くかも」

「あ、ああ。そうだな」


 カリナというのはエルが最後に生んだ息子の孫のそのまた孫の……よく覚えてないが、とにかく俺たちの子孫である。


 先日送金されてきたウルクスタンの砦攻略の報酬がたっぷり残っており、宿代などいくらでも出せるのだが、王家を離れて久しいエルフの姫は百年後、千年後のために貯蓄を増やすという質素倹約の精神を庶民の間で身につけていた。

 この場でもそれは発揮され、いかにお金をかけず旅行を楽しむか考えているようだ。


「それじゃあファリアブルクにしよう。いつ出発する?」

「明日にしない? ファリアブルクだったらそんなに旅支度も必要ないし、ワムダへの報告は今日中に済ませておけばいいし」

「そうだな。報告は俺がしておく。お前はゆっくりでいいから、準備を始めていてくれ」

「わかったわ」


 おお、自然に会話ができている……気がする。

 こうして非日常を作り出せば、少しだが新鮮な気持ちを体感できるのか。


 気持ちが沸き立つのを感じながら、朝食を終えた俺はノッカ村に向かい、ワムダに事情を説明した。

 ワムダは俺たちが何も告げずに消えると、俺たちに見捨てられたと勘違いして慌てふためくため、長い間留守にするときはこうして報告するようにしている。


「おお、夫婦でご旅行ですか。それはいいですな」


 と、ワムダは言った。

 てっきり狼狽するかと思っていたが、とりあえず一安心だ。


「どちらに行かれるんですか?」


 客間に茶を持って現れたアーシャが尋ねてきた。


「ファリアブルクに行ってくる。あいつは森育ちで海を見たことがほとんどないから、海が好きなんだ」

「ファリアブルクですか! とっても綺麗な港町だって有名ですよね、あそこ。いいなあ」

「俺も以前、子孫を訪ねて行ったことはあるんだが、かなり昔で記憶が曖昧なんだ。だから行くのが楽しみだよ」


 俺は二人と一緒にしばし茶菓子を食べて歓談した。本好きのアーシャはファリアブルクの事情にも詳しく、本から得た情報をいろいろと教えてくれた。


 石灰のような白い石造りの家々が立ち並ぶ港湾都市ファリアブルク。海産物の行き来が盛んで、エルバニアにおける海外との貿易拠点としても名高い。海外の珍しい食材や工芸品などにいち早く触れられるということで、各地から料理人や芸術家が集まってきているということだ。


 一通りの情報をアーシャから得て、俺はワムダの家を後にした。

 出る直前、俺はアーシャに声をかけられた。


「ヤスヴァルさん」

「ん? どうした」

「旅行に行こうって提案したの、ヤスヴァルさんですか?」

「ああ、俺だが」


 そう言うと、アーシャはまるで我がことのように嬉しそうに微笑んだ。


「やっぱり優しいですね、ヤスヴァルさん。エルノーラさんのことを考えて、旅行に行こうって提案したんですよね?」

「まあ……このままじゃいかんとは思ってたからな。いろいろ考えて、旅行に行ってみることにした」

「きっと喜ぶと思いますよ、エルノーラさん。良い旅になるようお祈りしてます!」

「ああ、ありがとう。それじゃ」

「はい! 楽しんできてください!」


 パタパタと小鳥が一生懸命羽ばたくように手を振るアーシャに見送られて、家路に就く。

 旅行──思えば本当に久しぶりだ。最後に行ったのがいつか思い出せないくらいである。

 そして、そのときどこに行ったのかも覚えていない。


 千年以上にわたって蓄積してきた記憶の量は膨大で、自分の中で整理しきれていない部分も多い。特にここ数百年は同じところに留まってろくに遠出もしなかったから、ほとんど記憶に残っていない。変化のない日常というのは、どうしても記憶に残りづらいものだ。


 不死なら尚更、日常の暮らしは張り合いのないものになる。

 死なないけれど、とりあえず腹は減るから食べる。

 体に疲労は溜まるから、夜になったら寝る。


 俺にとって人間が生きる上で欠かせない様々な行為は必須事項ではない。

 ただ何となく、生命としての活動を模倣していたいがための作業だ。


 効率をとことん重視するなら、不老不死の人間に寝食は必要ない。

 だからもし、俺が孤独なまま不老不死になっていたら、飲まず食わずのまま魔物を狩っていたかもしれず、ひどく無機質で味気ない人生を送っていただろう。


 そんな俺の人生に彩りを与えてくれているのは、やはり──


「おかえり」


 エルはいつものように家で出迎えてくれた。

 いつもならブスッとした声で、俺に目も合わせてくれないが、今日は違う。

 少し嬉しそうに微笑んで、「おかえり」を言ってくれた。

 彼女の微笑を見て、俺の口元にも自然と笑みが浮かんだ。

 そして、言う。


「ただいま」


     ◆


 ファリアブルクはノッカ村から東に向かったところにある。以前、いつ行ったのかは記憶にないが、ぼんやりと綺麗なところだったという覚えはある。それを忘れずにいられたのは、ファリアブルクに住むカリナがたまに近況を知らせる手紙を送ってきてくれるからだろう。


 ただ、ここ数年手紙が途絶えており、こちらから近況を知らせるよう催促の手紙を送ったりもしているのだが、一向に返事がないのだ。今回の旅行は、そんなカリナの安否を確認するという意味も含んでいた。


 ノッカ村から楽に行くには、まず半日ほど歩いたところにあるマリノという街に向かう必要がある。そこからファリアブルクに向かう馬車が出ているので、それに乗ればいい。早朝に出れば、夕方には到着する計算である。


「旅するときはいつも徒歩だった私たちが馬車を使うなんて、何だか人間のお婆さんになった気分」


 家を出てから、エルは苦笑しつつ言った。


 結婚してしばらく俺たちは家を持たず、諸国を旅する生活を送っていた。エルは箱入り娘だったが好奇心は旺盛で、不自由な暮らしに対する我儘は一切言わなかった。

 俺も根無し草として生きてきた時間が長かったため、自分たちの家を持つという発想がしばらく浮かばず、ずっと旅を続けていたのである。


 そのときは馬車を使って移動することなど数えるほどしかなかった。時間が無限にあり、アルカヴァリオのように何かの組織に属しているわけでもない俺たちはあらゆる点で自由であり、時間に縛られることなくゆっくりと徒歩の旅を満喫していたのだ。


「汗をかきながら行く旅路も楽しいかもしれないが、それはまた今度でいいだろう」

「あら、またどこかに誘ってくれる気なの?」

「さあ、どうかな。それはそのときの気分次第だ」

「素直じゃないわね」


 照れ臭そうに笑いながら、隣を歩くエルが俺の手に指を絡めてきた。

 恥ずかしい……が、俺はしっかりとその手を握り返した。


 寄り添ったままゆっくりと、互いに歩調を合わせて森を歩く。

 二百年も住んでいる森だが、今日は何だか違う場所のように見えた。

 秋の空気で色づいた葉が、太陽の光を受けて黄金色に輝く。

 湿り気の少ない澄んだ空気が草と土の香りを運んでくる。

 美しい光景と芳しい自然の香りを讃美するように、小鳥たちの歌が聞こえた。


「こうして二人で森を歩いてると、ヴァラノリアにいたときを思い出さない?」


 唐突にエルが言う。確かに昔、シルヴァの目を盗んで手を繋ぎ、ヴァラノリアの森を散歩したことがあった。俺たちが今いる森も充分に美しいが、エルフが統べる森の美しさに比べればやはり劣る。あの美しさはやはり、エルフの住む森にしかないものなのだろう。


「ああ、そうだな……」


 そのときサァッと風が吹いて、地面に積もった落ち葉と枝から離れた葉が乱舞した。

 金色に覆われた世界の中で、俺は過去のことを思い出す。

 今から遥か千年前。

 精霊がまだこの世界におり、魔法の力が満ち満ちていたあの頃を──。



     ……

     ……

     ……



「んだとてめえ! もっぺん言ってみろ!!」


 夜の帳が下りた静かな森に、男の汚い声が響く。


 ここは周囲を森に囲まれたヴァラノリア王城近くにある、魔物を狩る者たちのための野営地だ。規模は小国の軍隊をすべて受け入れられるほど広く、各地から大勢の狩人たちがここを利用し、狩りの時が訪れるのを待っていた。


 国も、言葉も、宗教も、魔物狩りに対する考え方や価値観も違う。

 そうした者たちが数多く寄り集まれば、当然諍いも起きる。


「ああ、何度でも言ってやるよ雑魚! チスイオオコウモリを十匹狩った程度で自慢してんじゃねえってな! てめえみたいな雑魚が実力も弁えずに吠え散らかすと、ほかの狩人まで軽く見られんだよ!」

「……抜け! てめえを狩ってどっちが上かわからせてやるよ!」

「上等だこら! おい、誰か俺の斧持ってこい!」


 別々のギルドに属する狩人同士の喧嘩らしい。

 俺は自分の剣を手入れしながら、彼らが言い争う様子をぼんやりと見ていた。


 周りで酒を飲んでいた狩人たちは、「いいぞー」「やれやれ」と二人の戦いを煽る。野営地は束の間、まるで闘技場のような様相を呈し、瞬く間に二人の狩人は酒に酔う狩人たちの見世物となった。

 すぐに賭場も立てられ、金が行き交う。どちらが勝つか負けるかだけでなく、死ぬか否かも賭けを左右する要素となった。


 馬鹿にされた方の狩人は巨人とでも戦うつもりなのか、男の体と同じくらい大きい斧を持っている。あの斧でチスイオオコウモリを十匹ちまちま退治している様子を想像すると、少し笑えた。


 対して馬鹿にした方の狩人は槍使い。手元にある槍以外にも二本の槍を背負っている。斧の狩人に対して、速さで対抗する腹積もりだろう。


 どちらが死のうが生きようが、どちらも瀕死で動けなくなろうが、俺にはどうでもいい。あんな馬鹿共とつるむつもりは毛頭ない。俺は自分の判断だけで魔物を狩る。


 戦いの結果もどうでもよかったため、俺は剣の手入れを再開しようとした。

 そのときだった。


「ちょっと、やめなさい!」


 下卑た男たちの声に交じって、鈴のように美しく澄んだ声がしたのは。

 さすがの俺も気になって、声の主に目を向ける。


 純白の長衣を纏った美しいエルフの女が、狩人二人を囲む群衆に近づいてくるところだった。女の後ろでは、武装したエルフの兵士が弓弦に矢をあてがったまま、周囲に睨みを利かせている。


 女の顔には見覚えがあった。狩人たちが王城内に集められ、ヴァラノリア王と謁見した際に、王の傍らに立っていた女だ。容姿が異様に整っており、周囲の狩人たちが彼女の顔を見てこそこそ話をしていたから覚えている。名前は忘れてしまったが。


「魔物を退治しに来てるのに、狩人同士で喧嘩するなんて馬鹿なの!? あなたたち狩人にとってはただの金儲けの手段かもしれないけど、魔物狩りを依頼した私たちヴァラノリアのエルフにとっては国の存亡にかかわる重要な問題なの! 真面目にやって!」


 至極もっともな正論を美貌のエルフが言い放ったことで、先程までの盛り上がりはどこへやら、狩人たちは押し黙ってしまった。


 ――ずいぶん肝の据わった姫がいたものだ。


 このときの彼女に対する印象はその程度でしかなかった。

 とにかく、この騒動で俺は初めてエルノーラというエルフの存在を認識した。

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