第10話 Love me do.

「もうっ! 何なのよあの女!」


 アーシャが帰った後、私はヤスヴァルの前で叫んだ。

 突然現れて、ヤスヴァルに色目使って、宣戦布告みたいな真似までして。

 まだ怒りが収まらない私とは対照的に、ヤスヴァルは落ち着いていた。


「もういいだろう、あいつのことは」

「よくないっ! 夫婦が形式的な繋がり!? 愛は形を変える!? 千年程度しか生きてない癖に何であんな知ったような口を利けるの!? 理解できないわ!」


 私は恐れから喚いていた。


 ──夫婦の繋がりは形式的。

 ──結婚で人の想いは縛れない。


 もし……もし本当にそうだとしたら、私とヤスヴァルを繋ぐものは何だろう?

 私たちはお互いに永遠の命を持っている。

 でも永遠に一緒にいなきゃいけない決まりはない。


 結婚したときに一緒にいることを神に誓い合ったけど、神様なんてエルフの私ですら本当にいるかわからない。存在が曖昧なものへの誓いだけで、私たちの関係が永遠に保たれるなんて幻想を抱くほど私も子どもじゃない。


 まして、人間は心変わりしやすい生き物だ。人間が皆、揃って心変わりしやすいとは言わないけど、ヤスヴァルが昔と変わってしまったことは間違いない。

 気持ちが離れていったら、いつか、あの女のところに行ってしまうんじゃないか。


 怖くなった私は、ヤスヴァルに抱きついた。そのまま唇を重ねる。

 ヤスヴァルは嫌がることなく受け止めてくれた。それでも恐れは拭えない。


「ねえヤスヴァル。『愛してる』って言って」

「急にどうした」

「いいから」

「あー…………」


 やや戸惑ったように視線を彷徨わせてから、彼は言う。


「あいしてる」


 ヤスヴァルの口から出たのは、酷く辿々(たどたど)しい『あいしてる』だった。

 何で、こんなに心が籠もってないんだろう。それとも照れてるだけ?


「もう一回言って」

「嫌だよ、恥ずかしい」

「恥ずかしくても言って! もっと心を込めて! 本心から!」

「お前……ユトのことを意識し過ぎなんじゃないのか?」


 魔女の名前が出た途端、私の顔が怒りでカッと熱くなった。

 ヤスヴァルの背中に手を回したまま、彼の顔を見る。

 何だか、酷く疲れた顔をしていた。


「あいつは俺にとってただの昔馴染みだ。良い奴だが、それはもちろん相棒としてだ。お前が変に対抗心を燃やす必要はない」

「あいつのことは関係ない。あなたに愛してるって言ってほしいだけなの! ヤスヴァル、私はあなたのこと愛してるわ!」

「はいはい。あいしてるあいしてる。大丈夫だから」


 まるで聞き分けのない子どもを適当にいなすみたいな対応だ。

 本当に恥ずかしいだけ? 私のことなんてどうでもいいって思ってない?

 聞きたいけど怖い。怖くて聞けない。


 私が自分の気持ちをちゃんと示さない間に、今まで変化のない暮らしをしてきたヤスヴァルは急に女を引き寄せるようになった。閉ざされた世界で暮らしているから、ヤスヴァルが外の女と出会うことなんてないと油断していた結果がこれだ。


 とにかく私とヤスヴァルの間にある溝を埋めて、離れてしまった距離を近づけないことには話にならない。こんな状況で愛を囁いたり、性交を求めたとしても、ヤスヴァルはきっと今みたいに冷たくあしらうだろう。


 今までも感じてきたけど、何となく目を背けてきた危機感が急に膨れ上がった。

 何とかしなくちゃ。


 私はヤスヴァルを放して、仕事部屋に直行した。

 内側から鍵をしっかりかけて、誰も入ってこれないようにする。


「この手は使いたくなかったけど……」


 もう四の五の言ってる場合じゃない。

 私は棚から薬の材料を取り出した。


 乾燥させたマンドラゴラ、羊の睾丸、蛇の血液、鹿の角の粉末、ヒキガエルの粘液などなど。これらを混ぜ合わせ、まじないをかけながら薬を精製していく。


 作業開始から一時間ほどで完成したのは、ドロリとした赤黒い液体。

 指先にちょっとつけて舐めただけでも一気に性欲が膨れ上がる魔法の薬。

 はっきり言ってしまえば媚薬だ。


 媚薬で彼の心を繋ぎ止めようとするのは反則だろうと、これまで作ったことはあっても実際に使ったことはなかった。とにかく、これを使って一度ヤスヴァルの気を引くことができれば、今より距離を縮めるきっかけになるかもしれない。


 これを食べ物に混ぜ、ヤスヴァルに食べさせる。

 今はちょうど夕食時。善は急げだ。


 媚薬を詰めた小瓶を服の袖に隠し、何食わぬ顔で仕事部屋から台所に向かう。台所から外に続く戸を開け、家の隣にある食料庫から食材をいくつか見繕って持ってきた。媚薬を目の前に置いて野菜を刻み、スープを作り始める。


 媚薬入りの料理を食べたときのヤスヴァルの反応を想像したら、顔が熱くなってきた。

 昔みたいに激しく求めてきたらどうしよう。受け止めきれるだろうか。


 と、考えたところでふと大事なことに気づいた。

 するなら沐浴して、汗を流してこないと駄目だ。

 台所から出て、食卓でぼーっとしていたヤスヴァルに声をかける。


「ごめん。さっきカッカして汗かいちゃったから、泉で体洗ってくるね」

「ん? あ、ああ」


 怪訝そうな顔をするヤスヴァルをあまり見ないようにして、私は外に出る。

 あるものを忘れていることに気づかないまま。


     §


 夕食を作るために台所に行ったにもかかわらず、汗をかいたから沐浴に行くなど、普通言うだろうか。

 妻の奇行に俺は首を傾げた。やはりユトのことを気にして、いろいろ混乱しているのかもしれない。


 台所を覗いてみると、刻んだ野菜がそのまま残されている。余程慌てていたらしい。

 ここまま放置しておくのも何である。俺が調理して、エルの帰りを待っておいてやるか。


 と、思ったところで俺はあるものの存在に気づいた。

 台所の隅に見慣れない小瓶があり、中に赤黒い液体が入っている。


「何だこれ」


 エルが薬草を煎じて作った新種の調味料だろうか。それにしては禍々しい見た目だが。

 もしかしたら、俺で味を試すつもりだったのかもしれない。


 瓶の蓋を開けて人差し指の先に一滴落とし、ペロッと舐めてみる。


「……うえっ」


 舌先で転がして味を確認するが、お世辞にも美味とは言えなかった。粘り気が強く、苦い上に辛味もある。だが、エルがこれを調味料として作ったのなら、料理に混ぜることで本来の役割を果たし、料理の味に見事な変化を与えるのかもしれない。


 という推察がとんだ見当違いだったことを、俺はすぐに知った。

 居間に戻った瞬間、視界が突然ぐにゃりと歪んだのである。

 倒れそうになった俺は食卓の椅子を掴んで何とか踏ん張った。


「何だ……!?」


 毒を疑ったが、倦怠感や体の痺れはない。むしろ体から発熱して、激しく体を動かしたいという衝動に駆られた。息が苦しく、胸が締め付けられるようだ。


 静かにしていれば治るかと思ったが、視界の歪みは徐々に酷くなっていく。歪みが酷くなるのに比例して、膨れ上がっていく感情があった。ここ数百年、自覚したことのない感情がムラムラと沸き起こってくる。

 そしてようやく、あの赤黒い液体が何なのか理解した。


「はあ……はあ……はあ……」


 締め上げられるように痛む心臓を抑えつつ、椅子に腰かけようとしたときだった。

 誰かの足音が外から聞こえてきた。

 エルではない。エルフはそもそも足音をほとんどさせない。


 玄関の戸が開く。

 現れたのは、アーシャだった。


「ヤスヴァルさん、ごめんなさい。エルノーラさんが注文してた薬草を渡し忘れてて……」

 ふらつく俺を見て、アーシャの顔が引きつった。

「ヤ、ヤスヴァルさん、どうしたんですか!? 顔が真っ赤ですよ!?」


 歪んだ視界の中で、アーシャの姿だけが恐ろしいくらい鮮明に見える。アーシャの声、アーシャが動くたび聞こえる衣擦れの音、アーシャの息づかいが耳を刺激し、感情を昂ぶらせた。


 頭、目、鼻、耳、口、首筋、胸、腹、手、足……。

 アーシャを形作っているものすべてに触れたいという欲望が俺を呑み込んでいく。


「ひゃっ!!」


 気がつくと、俺はアーシャの短い悲鳴を聞いていた。

 心配して駆け寄ってくれたアーシャを抱き締めて、居間の床に押し倒していたのだ。


「えっ、ちょっ、あの、ヤヤヤヤスヴァルさん!?」


 年頃の女がいきなり男に抱き付かれて押し倒されれば混乱するのも無理はない。

 と、俺の中にわずかに残された冷静な部分が思う。理性と呼べるものは残っているが、それを遥かに上回る性欲が理性を押し退けて、俺の体を強引に動かしていた。


「ぐ……!」


 とにかくアーシャの肌に触れたいという衝動を抑えられない。

 衝動に抗えず、俺は肌が露出している顔や首筋、腕に掌を這わせる。

 やがて手は服の下に滑り込んだ。脇腹から胸の方にかけて、掌が彼女の柔肌を滑っていく。

 恐怖のせいなのか、アーシャは死んだ魚のように動かない。


「ヤ、ヤスヴァルさん、駄目です……心の準備が……!」


 心の準備とは何だ。それは俺の行為をある程度許容しているということなのか。

 もはや正常ではない思考がそのような曲解を生み、さらに感情が昂ぶる。


 服の下に差し入れた手で、いよいよ服を剥ぎ取りにかかった。

 このままでは非常にまずい。婦女暴行でノッカ村にいられなくなる。

 という危機感も媚薬で増強された性欲の前では無意味だった。


 そのとき、キィという玄関の戸の蝶番が軋む音がした。

 この瞬間、性欲の権化と化していた俺がわずかな理性をぎりぎりのところで保って手を止め、玄関に目を向けたのは奇跡としか言いようがない。


 玄関には、髪をしっとりと湿らせ、肩で息をしているエルが口をあんぐり開けて立っていた。


     ◆


 結論から言うと行為は未遂に終わり、大事にはならなかった。エルは沐浴中、台所に媚薬を置きっ放しにしていたことを思い出し、走って戻ってきたそうだ。

 俺がアーシャに覆い被さっていることに驚きはしたものの、すぐ原因に気づいて俺の体内に入った媚薬の効果を除去し、事なきを得た。


 直後、俺とエルは居間の床に額を擦りつけてアーシャに全力で謝罪した。


「本当に、本当に申し訳ないっ!!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……!!」

「ふ、二人とも頭を上げてください! びっくりしたけど、私は平気ですから!」


 顔をまだ真っ赤にしてアーシャは言う。

 だが恐ろしい思いをさせたことは事実で、俺はしばらく頭を上げることができなかった。媚薬の効果で我を忘れるとは一生の不覚だ。


 不用意に得体の知れない液体を舐め、尚且つ自制できなかった俺の責任は重い。

 しかし、この場でエルにも問わなければならないことがある。


「お前、何でいきなり媚薬なんて作った?」


 ビクッとエルの肩が跳ねた。この反応を見れば、あの媚薬が貰い物や誰かの悪戯などではなく、自分で作って自分の意志で入れようとしたものであることは明白だ。


「夕食に混ぜようとしてたみたいだが……一体何の真似だ」

「……馬鹿」

「あ?」

「ヤスヴァルの馬鹿。朴念仁。鈍感」

「何なんだいきなり。媚薬を作った理由を聞いただけだろう」

「あ、あの~、ヤスヴァルさん。ちょっと」


 アーシャがおずおずと手を挙げて俺を制し、エルを見つめた。

 まるで悪戯をしてしまった子どもを優しく諭す母親のような目である。


「エルノーラさん。ユトさんのことがあって、ヤスヴァルさんの気を引きたかったんですよね?」

「…………うん」


 ああ、そのことかと合点が行く。

 あいつとは何でもないと、どうしたら信じてもらえるのか。


「何度も言うが、あいつとは何もない。だから──」

「ヤスヴァルさん、ちょっと黙っててもらえます?」


 声の調子は変わらないが、有無を言わせぬアーシャの剣幕に俺は口を閉じた。

 エルは膨れ面をして、本物の子どものようにいじけた顔をしている。


「……どうせヤスヴァルは私のことなんて、もう好きじゃないんでしょ」

「は? どうしてそうなる?」

「別にいいわよ。夫婦ってそういうものだし。男と女っていうより家族だもんね。私だって自分の親兄弟と手を繋いだりキスしたりしたいなんて全っ然思わないから」

「いや、まあ、昔みたいにしろと言われると抵抗はあるが……だが、今も好きか嫌いかで言われれば好きだぞ」

「それじゃ駄目なのよ! 馬鹿っ!」


 涙目になったエルは自室に駆け込み、固く戸を閉じてしまった。

 エルを止められず、呆然としている俺の前でアーシャがため息をつく。


「ヤスヴァルさん……きっとエルさんは昔と同じように、恋人としてヤスヴァルさんに見て欲しいんだと思いますよ」

「しかしだな、俺とエルはもう千年以上一緒にいるんだぞ? 自分の親兄弟より遥かに長い時間を一緒に過ごしてきた。今更昔みたいにしろと言われてもな……」

「じゃあ、エルさんとギスギスしたままでいいんですか?」

「それは嫌だが……」

「だったら、最初は振りでもいいですから恋人らしくしてあげてください。そのうち昔のことも思い出しますよ、きっと。だってエルさんは間違いなく世界一の美人ですよ? そんな奥さんに迫られてドキドキしない人なんていませんっ」


 若干一名いるのだが。

 しかし、このまま放置しておくとまた空気の悪い家になってしまう。

 ここはアーシャの言葉に従っておくのが吉だろう。


「わかった。やってみる。改めて、今日はすまなかった。詫びはまた後日」

「全然気にしてないですよ。それじゃあ、頑張ってください」


 ペコリと頭を下げると、アーシャは家から出て行った。


「さて……」


 俺は意を決してエルの部屋の戸をそっと開けた。

 鍵はかかっていない。会話まで断絶されたわけではないようだ。


 ベッド上の布団がこんもりと盛り上がっており、本当にいじけた子どものようで笑ってしまいそうになった。

 かつて俺たちが育てた息子娘も、叱るとこんな風にベッドに潜り込んでいた。あれは母の遺伝だったようだ。


 布団の膨らみを見つめたまま、俺は昔、彼女とどう接していたのか思い出してみた。

 振り返ってみると、正直今とそこまで変わっていないような気もする。俺は昔から女が苦手で、ギルドに属していたとき、皆で娼館に行くのを辞退したこともあるくらいだ。


 女の扱いなんてわからず、初めて恋人になったエルともどう接すればいいかわからず、四苦八苦したと記憶している。ただ、それはエルも同じで、「こうかな?」「ああかな?」と言いながら、試行錯誤をしていたように思う。

 そのときのことを振り返ると何だかおかしくて、俺は立ったまま笑ってしまった。


「……何笑ってんのよ」


 膨らみからニュッと亀のように顔を覗かせるエル。

 その様子がおかしくて再び笑う。


「いや、昔のこと思い出してたらちょっと笑えてきたんだ。はじめは何やるにも手探りで、お互いキスのやり方もよくわかってなかったなと思って。お前、あのときもう五千歳くらいだったのに」

「だ、だって、あまり男の人と会う機会なんてあまりなかったし、侍女に囲まれて育ったから」

「義父上は結婚とか、あまり強要しなかったんだったな?」

「母が事故で亡くなって、身内が私一人しかいなかったからね。自分で言うのも何だけど、手放したくなかったんだと思う」


 昔話を通して、徐々に肩が解れてくる。

 俺は自然な流れで、エルの入っている布団に潜り込んだ。

 ベッドは一人用の大きさなので、自然と体が密着する。

 エルの少し赤らんだ美貌がすぐ目の前にあった。


「今思うと、義父上はかなり過保護だったよな」

「だからこそ、あなたを不老不死にしてくれたのよ」

「不老不死になった俺は、箱入りのお前を義父上の代わりに見守る役目を託されたわけだ」

「何よその言い方」

「ははは、すまん」


 笑いつつ、謝りつつ、俺はベッドの中で腕を伸ばし、エルの体を包み込んだ。


「すぐに昔のようにやれというのは無理だが、これくらいのことは頼まれればしてやれる。これじゃ満足できないか?」

「……まだ駄目」


 エルの手がゆっくりと俺の頬に伸びてきた。

 しなやかな手に包み込まれた俺の顔が、エルの顔に引き寄せられる。


 唇が触れるだけの控えめなキス。

 それでもエルの顔は赤く、俺も自分の顔が少し熱くなるのを感じた。


「あの女とキスしたんでしょ? その埋め合わせ。今日はこれで許してあげる」

「……ありがとう。姫様」


 出会ったばかりの頃の呼び方をしてみると、エルは「馬鹿」と言って俺の頭を優しく叩いた。

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