第9話  魔女襲来

 俺が家に戻る数日前のこと──


 魔術の影響が消え、死者の兵が総崩れになったことにより形勢は逆転。エルバニア軍はその日の内に物量を活かして一気に砦を攻め落とした。生き残ったウルクスタンの兵士は国内へ敗走。砦はもぬけの殻となり、エルバニアの兵士たちが瞬く間に内部を闊歩するようになった。


 その中に、鎧を纏って馬を駆るアルカヴァリオの姿もあった。


「ヤスヴァル殿!」


 砦の中で俺を見つけたアルカヴァリオは馬の足を速めて駆け寄ってきた。


「まったく、こちらの指示を無視されては困りますぞ。規律を守っていただかなければ、軍の指揮に差し障ります」

「軍人ではなく傭兵でもない俺に、命令を聞かなければならない理由はない。結果的に勝てたんだから問題ないだろう」

「では、魔術師を討ち取られたのですね?」


 俺はとんがり帽子をアルカヴァリオに見せ、帽子の穴に指を入れてクルクル回した。


「なかなかの手練れだったが、斬りつけたら砂になってしまった。かなり無茶な魔術を使っていたせいで、斬られた瞬間に反動が来たんだろうな」

「魔術のことはあまりよく知りませんが、そのようなことがあるのですか?」

「ああ。力を使い過ぎた代償のようなものだ。遅かれ早かれ、砂になって死ぬ運命だったんだ」

「成程……。何はともあれ、ヤスヴァル殿の功績によって我々は勝つことができました。お礼を申し上げます。つきましては陛下に謁見を──」


 俺はアルカヴァリオの言葉を遮って、首を横に振った。


「それは勘弁してくれ。いちいち帝都に行くのは面倒だ」

「しかし、これほどの戦功を収められた方をこのまま帰すわけには」

「別に褒めてほしくて戦いに参加したんじゃない。選択肢がなかったから戦っただけだ」

「ですが」

「くどいぞ」


 強い口調で言うと、アルカヴァリオはビシッと踵を揃え、拳で胸を叩いた。


「失礼いたしました。陛下には私から事の子細をご説明しておきましょう。では、家まで馬車でお送りいたします。少々準備にお時間をいただきますが──」

「それもいい。久しぶりに体を動かして気分がいいから、この気分のままゆっくり歩いて帰りたい」


 いろいろ断ってしまって申し訳ないが、今は一刻も早く一人になりたかった。

 正確には二人なのだが。


 幸いアルカヴァリオは俺の意図を汲んでくれて、俺はそのまま帰路に就くことができた。壁を駆け上がって侵入した砦から、正門を潜って外へ。そこから死体が転がる戦場跡を横切って元来た道を戻る。周囲を警戒し、誰かに呼び止められはしないかと怯えながら。


 やがて平原を見下ろせる林まで戻り、夕日で赤く染まり始めた木々の間に分け入った。そこで俺は一度立ち止まり、


「もういいんじゃないか?」


 と、背後に声をかけた。

 すると、何もない空間から魔術師ユトが現れた。ここに来るまで人の目を欺く特殊な絹で編んだマントを被っていたのだ。砦の中からずっと俺の後ろを付いてきていたのだが、どうやら誰にもばれずに済んだらしい。


「マントを質に入れなくて正解だったわ」

「そのマント、国が所有権を巡って争うくらい貴重なものだろう。それを質に入れるつもりだったのか?」

「これを売らないと食い詰めて死ぬかもしれないときがあったのよ。何とかなったけどね」

「……で、聞きたいことはいろいろあるが、まずは――」


 魔術師がユトだとわかってから抱いていた疑問をぶつけようとした瞬間、

 俺は唇を奪われた。


「ん…………」


 熱を帯びたユトの鼻息がかかる。

 唇の隙間からユトの生温かい舌が口の中に侵入し、口蓋や歯の裏を舐め回す。

 あまりに突然のことに一瞬対応が遅れ、されるがままになってしまった。


 俺が慌てて肩を押して唇を離すと、ユトは口の周りに付いた食べ残しを舐め取るように自身の唇に舌を這わせ、ニヤリとした。


「何だいきなり!」

「再会のキスだけど……やっぱり反応から童貞臭さがなくなったわね、あなた。昔のヤスだったら顔真っ赤にして心臓バクバク言わせてたのに。やっぱり絶世の美女と千年もイチャイチャしてたら、その辺の女にドキドキすることなんてなくなっちゃうのね」

「俺も歳を取ったんだ。お前だってせん──」

「あー、年齢の話はやめて。まったく、もうちょっと気をつかいなさいよ。成長ないわね」

「わかったわかった」


 俺は一度咳払いをしてから、改めてユトに問う。


「さっき言いかけた質問だ。お前、何で生きてる?」

「もう少しマシな聞き方ないわけ? 相棒に向かってさ」

「遠慮するような間柄でもないだろう」

「そうよねー。寒いときは身を寄せ合い、暑いときは素肌を見せ合った仲だもんね」

「早く答えろ」

「もー、せっかちなんだから。早い男は嫌われるわよ」


 ユトは地面から剥き出しになった太い木の根に腰を下ろした。


「あなたと別れた後に、魔術だけじゃなくて薬草術や錬金術の勉強も始めたの。まあ、知的好奇心ってやつね。いろいろな術の知識を総合して薬を作ってたら、偶然不老の霊薬を作ることに成功したのよ」

「で、それを飲んだのか」

「あの頃は若かったし、永遠に若くいられるなら飲んでもいいかなーってくらいの軽い気持ちでね。あ、でも不死ってわけじゃないから痛くしないでね?」

「痛くはしてないだろう。それより、たとえ不死でも知り合いに即死級の魔術を叩き込むのはどうかと思うが」

「ごめんごめん」


 ユトは笑っているが、笑って済まされる威力ではなかったと思う。


「ところで、何でウルクスタンの雇われ魔術師なんてやってたんだ?」

「さっきも言ったけど、不老ってだけで不死じゃないから食べないと死んじゃうのよ。当然食べてくにはお金が必要。でも、魔術師を雇ってくれる相手なんて今の時代早々いない。流れ流れてくうちに、ウルクスタンの傭兵として雇われたってわけ」

「事情は理解したが、あの場で俺だとわかってたなら攻撃する必要はなかっただろう?」

「あれは罰よ。あなたへの」

「罰?」

「我儘ばかり言って私の前からいなくなって、勝手にお嫁さん見つけて幸せになった罰。あなたがエルフの姫と結婚したって聞いたとき、さすがの私もちょっと傷ついたわよ」


 昔の記憶が頭を過ぎる。ユトと組んで魔物狩りをしていたときは、各地で魔物が大発生するという不幸な年が続いた。各地でいくつも小さな村が滅び、依頼を受けて急行したときには廃墟しか残っていなかったということが多発した。


 正義を振りかざすつもりはないが、助けられたはずの人々を守れないことへの苛立ちが募り、無謀な戦いをやめるように言うユトに苛立ちをぶつけていたのだ。


 そしてあるとき、激しい言葉の応酬が続いた末、俺たちは袂を分かった。もう二度と会うことはないだろうと思い、いつしか彼女の存在が記憶から消えて千年。今、こうして再び言葉を交わしている。


「物凄く後悔したの……あのときどうしてあなたと別れちゃったんだろうって。頭が冷えた後、四方を駆けずり回ってあなたを捜して。見つからないとわかったら涙が出てきて、数日泣き通したわ」


 その情景を想像すると、胸に針を刺したような痛みが走る。俺が独りで無謀な戦いを繰り返していたときも、ユトは俺のことを想ってくれていたのだ。

 そんなことも知らず、あのときの俺は自分のことしか考えていなかった。


「……あのときは悪かった。何というか、苛立ってたんだ」

「そりゃあ魔物に滅ぼされた村をいくつも見れば気分が悪くなるのもわかるけど、あなたの無茶に付き合わされるこっちの身にもなってほしかったっていうのが本音かな。トロルの集団に単騎で挑むとか正気の沙汰じゃないから」

「でも、あのときはお前のおかげで勝てただろう」

「そういうこと言いたいんじゃなくて……まあいいわ。昔話はあとにしましょ」

「あとってお前、まさか付いてくるつもりか?」


 ユトは「当たり前でしょ」とばかりに、鳩のように首を傾げる。


「だってウルクスタンには戻れないし、表向き死んだことになってるから一旦どこかに身を隠さなきゃでしょ? それに、あなたの奥さんも見ておきたいし」

「姑かお前は」

「元恋人でしょ?」

「事実の曲解があったな。昔一緒に魔物狩りしていただけの関係を恋人とは言わない」

「一緒に何度も死線を乗り越えた仲だもの。恋人といって差し支えないと思わない? それに、あなたを大切に想っていることだって事実よ。この世界の誰よりも大切に想ってる」


 黒髪の魔女は途端に今まで見せなかった妖艶さを放ちながら、俺の背中に腕を回した。


「本当に久しぶりね、ヤス。あなたに会えて私、とてもとても嬉しい」


 鼻先がくっつきそうな距離で囁かれ、さすがに顔が熱くなる。

 相棒の想いが柔らかい体を介して、俺の中に流れ込んでくるようだった。


「俺も嬉し……くなくはない」

「まったく、素直じゃないんだから」


 いつもの調子を取り戻し、ユトは俺の背中をバシッと叩いた。


「さっ、早くエルフ姫のところへ私を案内しなさい!」

「はいはい。わかったよ」


 それから俺たちはたっぷり一週間かけて、家路に就いた。


     ◆


 そして、今に至る。

 自宅の前で粘り続け、ようやく中に入れてもらえたのは夜の帳が下りた頃だった。


 食卓の中央に三本の蝋燭を立てた燭台を据え、それを囲むようにして四人の人間とエルフが座る。

 吐瀉物を見るような目で俺とユトを見るエル。

 落ち着かなげに視線を彷徨わせるアーシャ。

 この状況を楽しんでいるようにニヤニヤするユト。

 そして、今すぐにでも逃げ出したくて、椅子から腰が浮いている俺である。


 俺たちはしばしの間、誰も口を開かなかった。

 戦場の方がいくらかマシと思えるような緊張感が漂う。


「……ねえ、ヤスヴァル。この女は誰なの? ずいぶん仲が良さそうに見えたんだけど、知り合い? 私、魔女に知り合いがいるなんて話、千年の間に一度も……い、ち、ど、た、り、と、も、聞いたことがないわ。ねえ、どういうこと?」


 最初に口火を切ったのはエルだった。

 声音が冷たく、氷を背中に放り込まれたみたいにゾクッとする。


「話してないってことは何かやましいことがあるからよね? どういう関係? ねえ、私にもわかるように懇切丁寧に紹介してよ。できないなら自白を強制する薬草煎じてくるから、ちょっと待っててもらえる?」


 部屋の気温が誇張ではなく、どんどん下がっている気がする。魔術を使うのが得意ではないエルだが、その才能が今ここで開眼し、氷の魔術でも使っているかのように部屋が寒い。窓はすべて閉めているのに、やけに蝋燭の火がユラユラ揺れるし。


「私はユト。見ての通り魔女よ。彼とは千年前、一緒に魔物狩りをしてた仲なの」


 と、俺の代わりにユトが自己紹介を始める。

 エルはユトに猛禽のような鋭い視線を送った。


「私はヤスヴァルに聞いてるんだけど」

「自分のことなんだし、自分で紹介するわ。気になることがあったら何でも聞いて」

「それじゃあ聞くけど、あなたとヤスヴァルが知り合ったのは千年以上前でしょ? なのに何で生きてるの?」

「彼と同じこと聞くのね。一言で言うと、不老の霊薬を作ってそれを飲んだから。ヤスヴァルと別れた後にね」

「それじゃあ、ヤスヴァルはあなたが生きていることを知らなかったのね?」

「一週間前に戦場で会うまで知らなかったわ。私も彼に会えるなんて思ってなかった。彼にあったのは本当に偶然よ」


 よし。ここまでは順調。

 このまま行けば、俺がユトと不倫していたという誤解も解ける。

 そう思った矢先、ユトが「でも………」と言って話を続けようとした。

 そして事もあろうにユトは隣に座る俺に身を寄せ、腕を絡ませてきたのだ。


「彼のことは千年間、ずっと想い続けてた……一日だって忘れたことはなかったわ」


 大胆過ぎる告白に顔を赤らめるアーシャは無視するとして――

 こいつ、一体何を言ってる!?


「ふうん。そうなんだ……」


 落ち着いたところを見せ、本妻の余裕を示そうとしているらしいが、エルの声は怒りからか微妙に震えていた。


「でもごめんなさい。今は私がヤスヴァルの妻なの。あなたがいくら彼のことを想っていても無意味よ」

「あら、そんなことないわよ? 夫婦なんてどうせ形式的な繋がりに過ぎないわ。結婚で人の想いは縛れないし、愛は形を変えるものよ。だから、妻じゃない私にヤスが恋することも充分あり得るわ」

「人の夫を変な呼び方で呼ばないでくれる?」

「どう呼ぼうと私の勝手でしょう。あまり独占欲の強い女は嫌われるわよ?」


 目の前を見えない剣が乱舞して、鍔迫り合っているのが見えるようだった。

 エルは透き通りそうな白い肌に青筋を立てて怒っている。

 対してユトはエルの口撃を流水のようにスルスル受け流している。

 年齢でいえばエルが五千歳は上のはずだが、余裕があるのはユトの方だ。


「どうせあなたの片想いで、ヤスヴァルとはキスもしたことないんでしょ!?」

「ここに来る途中したわ」

「はぁっ!? ヤスヴァル、どういうことよ!」

「あれはお前が無理矢理してきたんだろうが!」

「はっ! なーんだ、無理矢理したキスなんてキスの内に入らないのよ、残念でした! 私なんて三日三晩ヤスヴァルと────したり、────したことだってあるんだから!」


 それは何百年も前の話だろうという指摘を呑み込む。

 元エルフの王女にあるまじき発言で、アーシャの顔が湯気が出そうなくらい真っ赤になり、焦点が合わなくなってきた。重ね重ね、巻き込んで申し訳ない……。


「アーシャ! こんな訳のわからない淫乱泥棒猫がヤスヴァルに近づこうなんておこがましいと思わない!?」

「ひゃいっ!? え、あ、えと、その」


 まさか自分に話を振られるとは思わなかったに違いない。奇声を発した気の毒なアーシャはだらだら汗を流しながら、必死に考えを巡らせている。


「わ、私は夫婦の絆って特別なものだと思うし、そうであってほしいと思ってます。だから、ユトさん、でしたっけ。お二人の間に割って入ろうとするのは、控えるべきだと思うんですけど……」

「そうよ! よく言ってくれたわ、アーシャ!」

「ふうん、成程ねえ」


 ユトは何やら思案するように頬杖をつき、アーシャを見つめた。

 ユトの黒い瞳に何かを感じるのか、この修羅場の空気に気圧されているのか、アーシャはびくびくしてユトとまともに視線を合わせることができない。


「でもアーシャ。最初にヤスのことを好きになったのは私なのよ?」

「そ、そうなんですか?」

「だってヤスがこのお姫様と会う前から、私とヤスは知り合いだったんだもの。ヤスは当時、私を好きじゃなかったかもしれないけど、私はずっとヤスのことが好きだった。ヤスを好きでいた時間だったら、私の方が長いのよ。なのにあなたは、私のこの片想いを諦めろっていうの?」

「え、あ、いや、そういうことを言っているわけではなく……」

「押し負けないでアーシャ! あなた、変に論点をすり替えるのはやめなさい! 昔のことなんてどうでもいい! 問題は今でしょうが!」

「じゃあとりあえず、今ヤスがどっちのことが好きか聞いてみない?」

「とりあえずって……まあいいわ。ヤスヴァル! 私の方が好きに決まってるわよね!?」

「誘導するのは駄目よ。どう? ヤス。こんな神経質で独占欲の強いエルフより、私の方がいいんじゃない? 私も今なら歳を取らないし、永遠に傍にいられるわよ」


 女たち、特にエルは物凄い剣幕だが、この選択の正解は道義的に考えてひとつしかない。そんなに顔を真っ赤にして言い争うようなことでもないだろうに。

 俺は努めて冷静に、ユトの顔を見ながらこう言った。


「ユト。少なくとも、俺はお前のことを恋人として見ることはできない。それは昔も今も変わらない。俺の妻はエルだけだ。そもそも、お前は俺に告白したことなんてないだろう」


 エルは今の今まで蕾だった花が急に花弁を開くように笑顔になったが、ユトの表情はまったく変わらなかった。俺の選択を初めからわかっていたみたいだ。


「そうね。告白したことはないわ。何年も一緒にいたのに。けど、それはあなたが魔物狩りのことしか考えてなかったからよ。あなたの復讐を邪魔したくなくて、何も言わなかったの」

「……そうか」

「けど、そうね。確かに昔のことは関係ない。千年経っても私はあなたを愛してる。その事実に変わりはないもの。よかったわねお姫様。一応愛してもらえてて」


 ユトは椅子から立ち上がり、漆黒の長髪をファッと払ってから、玄関の戸の前に立った。

 そこで首を回し、不敵な笑みを浮かべる。


「けど、油断してると私が掠め取っちゃうから、注意してね」


 戸を押し開けて漆黒の魔女は颯爽と去り、夜の闇に溶けた。

 俺とエルの家に、気まずい沈黙と甘い香りを残して。

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