第8話  永遠を信じる女

「完成っ!」


 アーシャは窯から取り出したばかりのパイを満足げに見下ろした。表面に野草から採った植物油を塗れば、キツネ色の生地が艶やかなリンゴパイの完成である。上々の出来に気分を良くし、鼻歌を歌いながらパイを籠に入れ、その上に布をかけた。


「お父さん、ヤスヴァルさんのところに行ってくるね」

「ヤスヴァル様だと言ってるだろう」


 居間の肘掛け椅子に揺られながら本を読んでいたワムダが呆れたように言う。


「だって、ヤスヴァルさんがさん付けでいいって言ったんだもん」

「それでもあの方はノッカ村の英雄で、我々の守り神だ。万が一にも失礼なことがあってはいかん。それと、パイを召し上がっているところをちゃんと拝見して、感想をいただいて来るんだぞ? 不味いものをお出しするわけにはいかんからな」

「私のパイが不味いって言いたいの?」

「いや、そういうわけではないんだがな」

「ふふっ、ごめんなさい。ちょっと言ってみただけ。行ってくるね」

「あ、ちょっと待ってくれ」


 ワムダはアーシャを呼び止めて椅子から立ち、黄土色の紙に包まれた何かを手渡した。


「エルノーラ様から発注を頼まれていた薬草が昨日王都から届いた。これもついでに渡してきてくれ」

「うん、わかった」


 アーシャはパイを入れた籠とは別に、肩からかけた鞄に薬草の紙包みを押し込んで、家を飛び出した。


 ワムダの養子になって数日だが、親しみやすい家庭の雰囲気にすっかり溶け込み、アーシャは本当の父親のようにワムダと接することができるようになっていた。亡くなった親が読み書きを教えてくれたおかげで、村長の仕事を手伝うこともできている。村の人々も優しく、毎日が楽しい。


 そして、何より心躍るのがヤスヴァルに会いに行くことだった。

 ヤスヴァルの語り口は平凡だが、どんな物語を読むよりワクワクする。

 時々饒舌になり、ふと気づいて決まり悪そうに声を落とす恥ずかしがりな性格も好きだった。


 ──喜んでくれるかな。ヤスヴァルさん。


 期待と緊張で胸を高鳴らせ、アーシャは森に分け入った。初めて来たときは迷ってしまった森だが、今は大木や老木を目印にして、ヤスヴァルの家へまっすぐ歩いて行ける。


 ありのままの自然に満ちた森の中に人の手で作られた家が見えた瞬間、アーシャの足は自然と速まった。きっとあの家で、ヤスヴァルは今日も少し面倒臭そうな顔をしながらも、家に招き入れてくれるはずだ。


 玄関前で二度、三度と呼吸を整えてから、アーシャは戸をノックした。

 ノックに応えるように鳥の声がしたが、誰かが出てくる様子がない。

 もしかして、留守だろうか。

 そう思ってもう一度ノックしようとしたとき、戸の向こうに人の気配を感じた。


 戸が静かに開く。

 目の前に現れた人物を見て、アーシャの口がポカンと開いた。


 アーシャの乏しい語彙では──いや、如何に高名な吟遊詩人でも、その美しさを讃える言葉は持ち合わせていない。そう思ってしまうような絶世の美女が立っていた。


 触れずとも絹のような手触りとわかる金の長髪。

 人間のものとは明らかに違う尖った耳。

 青空を凝縮して閉じ込めたかのような澄んだ碧眼。

 一点の曇りもない美貌が、彼女がエルフの姫であり、ヤスヴァル・リヴィエントの妻エルノーラであることをアーシャに告げていた。


「ああ、この間のね。ヤスヴァルに会いに来たの?」


 桃色の唇から滑り出る言葉が、音楽家が奏でる楽器の調べのような優雅さを持ってアーシャの耳に届く。

 アーシャはふと、先日ヤスヴァルと話をしていたときに帰ってきた彼女のことを思い出した。

 あの現場がエルノーラの目に、「そういう現場」だと映っていたとしたら、自分はこの場でカエルにされてしまうのではないか。スカートに隠れた脚が不安と恐れからカクカク震え始めた。


「あ、ええと、あの、その」

「ヤスヴァルなら用事で出かけてるわ。いつ帰ってくるかはわからない」

「そ、そうなんですか。あの、これ。これを召し上がってほしくて」


 たどたどしい口調で言いながら、籠にかかっていた布を取る。

 現れたパイを、エルノーラは品定めするようにじっと見た。


 相手は伝説にも語られるエルフの姫である。アーシャには想像もつかないような高貴な出自であり、この世のものとは思えないほど美味しいものを山と食べてきたに違いない。

 そんな高貴な相手の前では、自信作の艶やかなパイも色を失って見えた。


「わざわざありがとう。上がっていく? お茶くらい出すわよ」

「えっ! いや、そんな、いいですいいです──じゃなくて! これはヤスヴァルさんとエルノーラ様にお世話になっているっていう感謝の気持ちですから! 私は、全然そんな、おもてなしされるような身分では!」

「このパイ焼きたてでしょ? こういうのはできてすぐ食べた方がいいわ。ヤスヴァルは……今回は運がなかったってことにしときましょ」


 悪戯っぽく片目を閉じて見せたエルノーラは、アーシャの手を取って家の中に引き入れた。どうやらカエルにされることも取って食われることもなさそうで、アーシャは内心ホッとした。

 アーシャは以前、ヤスヴァルを訪ねたときに座ったのと同じ椅子を勧められた。おっかなびっくり腰かける間に、エルノーラはパイの入った籠を持って台所に向かう。


「あの、私も何かお手伝いを──」

「ん? ああ、いいのよ。座ってて」


 いや、だが高貴な女性に下々の人間がやるようなことをさせていいのだろうか。ワムダの言いつけに従うなら、ヤスヴァルはもちろんエルノーラにも礼を尽くさなくてはならない。だが、座っていいという気づかいを無視して手伝いを申し出るのも失礼に当たるのでは──。


 混乱した頭で冷静な判断を下せるわけもなく、アーシャは結局椅子に座ったままエルノーラが戻ってくるのを待った。


 やがて芳醇な香りを伴って、台所からエルノーラが戻ってきた。

「茶は妻に淹れてもらっている」というヤスヴァルの言葉をふと思い出す。


 確かに、香りの立ち方がヤスヴァルの淹れたものとはまるで違っていた。扇か何かで扇いでいるように、香りは部屋中に広がっていく。何の変哲もない家の中も、茶の香りとエルノーラの輝くような美貌によって、御伽の国のように見えてくるのだった。


 エルノーラは慣れた手付きで自分とアーシャの前にカップを置き、その間に大きめの皿に乗せたパイを置いた。パイは綺麗に六等分されていた。


「いただくわね」

「あっ、はい。どうぞ」


 エルノーラは六等分されたパイをさらにナイフで小さく切り、小皿に取ってから口に運んだ。所作一つひとつに無駄がなく、アーシャは改めてその美しさに目を奪われた。

 エルノーラの細い喉元がわずかに上下すると、彼女は元々大きな目をさらに大きく見開いた。


「美味しいわ、とても。甘過ぎず、酸っぱ過ぎず。生地の食感もいいわね」

「あ、ありがとうございます! エルノーラ様のような、高貴な方に喜んでいただけて」

「高貴って言っても、私が王女だったのは千年も前の話よ。今は隠居暮らししてるただのエルフだから、別に気をつかわなくていいわ。ノッカ村の人とは普通に話してるしね。だから前も言ったけど、様なんて付けなくていいのよ」

「は、はい。すみません。何か、勝手に緊張しちゃって」

「気にしないで。ほら、あなたも食べて」


 エルノーラに促されるまま、アーシャも取り皿にパイを乗せて食べた。

 緊張で味はよくわからなかったが、エルノーラの言う通り生地の食感は良かった。


「エルノーラさんも、ヤスヴァルさんも本当に素敵な方です。飾らないというか……ヤスヴァルさんも、様は付けなくていいっておっしゃったんです」

「あの人は照れ屋だからね。でもあまりおだてると調子に乗るから、程々にしておいて」

「あははっ。わかりました」


 エルノーラの気さくな人柄のおかげで、少しずつ緊張が解れてきた。何百年、何千年も生きていると、このような物腰の柔らかさが身につくものなのだろうか。


「ところでアーシャ」

「はい、何でしょう?」

「あなた、ヤスヴァルのことが好きなの?」

「むぐっ!?」


 食べたパイが喉に詰まりかけ、胸を拳で叩きながらお茶で飲み下す。


「ぷはっ! い、いきなり何をおっしゃるんですか!?」

「この間、彼と話してるあなたを見てたら何となくね。で、どうなの?」

「ソ、ソンナコトアルワケナイジャナイデスカー」

「……隠し事が下手なのね、あなた」


 ため息をつくエルノーラの前で、アーシャは罪悪感と恥ずかしさから消えてしまいたくなった。妻のいる男のことが気にかかっているなど、考えるだけでも恐ろしい。


「好き……とは少し違くて、ただ、気になってるだけといいますか……。初めてお会いしたとき、ヤスヴァルさんは私のことを助けてくれたんです。そのときはどんな方なのか知らなかったんですけど、あとで魔物狩りの英雄と呼ばれる方だって知って」


 自分の想いを言葉にするうちに、少しずつ気持ちが落ち着いていく。体裁を考えていた言葉は純度を増し、アーシャの中にある本音が徐々に滲んでいった。


「ヤスヴァルさんとお話をするのはとても楽しいです。けど、男性として好きかと言われたら、どうなんだろうって……自分でもよくわからないです。もしかしたら、物語の中に出てくる男の人に憧れるのと同じ感覚なのかもしれません」


 エルノーラは訥々と語るアーシャを、異教徒を裁く異端審問官のような目でじっと見ていた。

 その目と対峙するのは怖い。まるでエルノーラが送る視線の中に電気が走っているようで、目を合わせると反射的に顔を伏せてしまう。


 しかし、おどおどしていては疑われる。

 ヤスヴァルへの気持ちに邪なものはないと、この場で証明する必要があった。


「ヤスヴァルさんは尊敬できる人です。そういう意味では……好きです。でも、男女としてどうにかなりたいとは思ってません!」


 唇を噛み、アーシャはエルノーラの碧眼を真っ直ぐ見つめた。エルノーラは身じろぎひとつせず、静かにアーシャを見返している。

 張り詰める緊張と重々しい沈黙を破ったのは、エルノーラの満足げな「うん」という声だった。


「あなたの気持ちはわかったわ。ごめんなさいね、意地悪なこと聞いて」

「い、いえ。わかっていただけてよかったです」

「実を言うとね……少し不安なの。彼の気持ちが私から離れていってるんじゃないかって」

「えっ?」


 驚きで思わず声が出た。

 ヤスヴァルとエルノーラの夫妻といえば、苦難を乗り越えて結ばれ、永遠の愛を誓い合った婦人たちの憧れだ。実は二人の間に距離ができているなどと、誰が信じられるだろう。


「エルフはね、何千年生きてもあまり価値観や考え方が変わらないの。体だけじゃなくて、心も老いることがない。ずっと若い頃のまま。だから……彼を想う気持ちも千年前から変わってないの」

「それじゃあ今も──」

「ええ。心から愛してる。でもね、人間のヤスヴァルが同じ気持ちを何年も保ち続けるのは難しいみたい。昔みたいに接してくれることはないし、人間ってそういうものなのかなって思って合わせてるけど、やっぱり寂しいの」

「で、でもヤスヴァルさんもエルノーラさんのことを愛してるんですよね?」

「たぶん……ね。けどわからない。不老不死っていっても、彼も人間だからね。心変わりするかもしれない」

「そんなの悲し過ぎます!」


 アーシャは思わず椅子から立ち上がっていた。

『永遠の愛』は人間の中にもあると、アーシャは信じたかった。

 たとえ自分の価値観の押しつけであったとしても。


「ヤスヴァルさんと前に会ったとき、お二人の馴れ初めについて聞いたんです。ヤスヴァルさん、少し照れ臭そうにしながら当時のことを話してくれました。千年経っても、あの人はエルノーラさんと出会ったときのことをちゃんと覚えてるんです! 今も素敵な思い出として、大切に胸にしまってるんですよ!」

「ヤスヴァルが……?」

「そうです! だから心変わりしてるなんてことないですよ!」


 力強く言い放つと、エルノーラは掌を両の頬に添えて、ぼーっと中空に視線を彷徨わせた。


「ヤスヴァルが……そっか。まだ覚えてくれてたんだ……」


 そう呟く様子を見て、アーシャは自分の顔が熱くなるのを感じた。

 今のエルノーラはまるで初恋に胸を打たれたばかりの乙女だ。

 何千年も生きているにもかかわらず、これから初めて恋路を歩み出そうとしているような初々しさに、アーシャは強い愛おしさを覚えた。


 ──恋をしている女性が、こんなにも魅力的だなんて。


 その上、彼女には誰もが羨むような美貌がある。

 あまりの完璧さに、わずかながら嫉妬を覚えた。


 だが、今は自分の嫉妬心などどうでもいい。エルノーラの純粋な愛を応援してあげたいという気持ちが急速に強まり、アーシャは身を乗り出して、食卓越しにエルノーラの両手を握った。


「大丈夫です! エルノーラさんの美しさがあれば、いつだってヤスヴァルさんを振り向かせられます!」

「そ、そうかな?」

「そうですよ! 一緒に頑張りましょう!」


 鼻息を荒くして、アーシャはエルノーラの手を握ったままブンブンと振る。

 するとようやくエルノーラの顔に笑みが浮かんだ。

 彼女の笑顔は、油断していると女である自分がうっかり恋に落ちてしまいそうなほど美しい。この笑顔に魅力を感じない男などいるはずがない。


「ありがとうアーシャ。何だか元気が出たわ」

「よかったです。何かあったらいつでも相談してください。私でよければ力になりますから」


 アーシャはエルノーラの手を放し、残っていたパイに手を付けた。すっかり緊張は解れ、機能を取り戻した味覚がパイ生地の仄かな甘みとリンゴの酸味をしっかりとアーシャに伝える。

 早くも莫逆の友となった二人の女に、平穏な時間が訪れた──かに見えた。


 玄関の外から人の話し声が聞こえてくる。

 低い男の声と甲高い女の声だ。何やら言い争っているらしい。


「何かしら」


 エルノーラが立ち上がって玄関に向かう間にも声は近づいてくる。

 戸に手をかけたときには、声の主たちは戸のすぐ向こう側にいるらしかった。

 戸が開き、エルノーラとアーシャの目の前に現れたのは──


「……え?」

「あ……」

「あら」


「え」はエルノーラ。

「あ」はヤスヴァル。

「あら」は、アーシャの知らない黒髪の美女だった。

 女の腕に絡みつかれたヤスヴァルの腕は、女の豊満な胸の谷間に収まっている。


 バタンッ!

 と、ヤスヴァルと女の前で戸が力一杯閉められる。

 一拍遅れて、戸をドンドンと叩く音が響いた。


「ま、待てエル、誤解だ! こいつはそういうんじゃない! 俺の話を聞いてくれ!」


 エルノーラは目にも留まらぬ早業で鍵をかけ、ヤスヴァルを完全に閉め出した。そのまま背中を戸にピタリと付ける。

 どれだけヤスヴァルが戸を叩こうと、戸の前で何を言おうと、エルノーラは微動だにしなかった。


「ねぇアーシャ。もう少しだけお話ししない? 何だったら今日は泊まっていってもいいわよ」


 呆気に取られるアーシャに向かって、エルノーラはにっこり微笑む。

 笑顔の裏に見え隠れする赤黒い炎を目の当たりにした気がして、アーシャは頷くしかなかった。


 ──一緒に頑張ろうとは言ったけど、いきなり修羅場なんて聞いてないよぅ!

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