第15話 乾いた朝

「どうしたのヤスヴァル? 浮かない顔して」


 浴場からの帰り、隣を歩くエルが心配そうに俺の顔を覗き込んできた。


「……いや、何でもない。そっちの湯はどうだった?」

「一緒になったお客さんといろいろ話してきたわよ。やっぱりエルフが珍しいみたい。まあそうよね。ほとんどのエルフは〈約束の地〉に行っちゃって、残ってるエルフも人里に下りて来ないもんね」


 宿に戻る間、エルは居合わせた客との会話について話していたが、俺は上の空だった。

 ユトに言われたことが頭にこびりついたまま離れない。


 ――あなたがどんなに口先だけ「あいしてる」って言っても、それは彼女が望む『愛してる』とは違う。


 違うなんてことはない。俺は今でもエルのことを想っている。想った結果、今回の旅行を提案し、昔のことを思い出しながら、こうして旅を満喫している。


 だが、今の俺の想いはエルの望む『愛してる』に端を発していると言えるだろうか。彼女の傍にいても、かつてのようなときめきはない。過去を振り返ってあの頃の感情を呼び覚まそうとしても、まるで大根役者が役になり切れず、上辺だけの台詞を読み上げているように心が籠らない。


 俺にとって今のエルはどこまでも家族であり、恋人とは明らかに関係が変化してしまっている。しかし、エルの不安と不満を拭うためには、俺は再び彼女にとっての『恋人』にならなければならないのだ。


 歩きながら悩むうちに、宿の部屋まで戻ってきていた。

 我が家の寝室より一回り小さい粗末な部屋で、家具はベッドだけというがらんとした部屋だ。


「ベッド……ひとつしかないね」


 エルはわずかに声を震わせて、囁くように言った。

 ユトの言葉が再び頭を過ぎったことで、エルが求めていることが今ならわかる。ユトの言う通り、俺はこの世界一の美女を前にしても、以前のような感情を抱けない。まるで聞き分けのない娘を相手にしているような気持ちにすらなる。


 アーシャはそのうち思い出すと言っていた。確かに昔を振り返ったことで、あの頃の気持ちは束の間蘇った。

 だが、積もりに積もった千年という時間の地層を抜けて、泉のように湧いてきた想いはごくわずかだ。長い時間に遮られ、どれだけ昔のように振る舞おうとしても心が伴わない。


 それでもエルは俺を求めている。

 夫として、彼女の傍にいる男として、俺はその気持ちに応えなければならなかった。


「きゃっ」


 エルの手を引いて、投げ飛ばすようにベッドに寝かせる。

 その上から覆い被さるようにして、俺は彼女を抱き締めた。


「ちょ、ちょっとヤスヴァル! そんな急に……!」

「あいしてる、エル」

「えっ?」

「お前のことをあいしてる。あいしてるんだ……!」


 どうしてこんなに心が籠もらないのだろう。

 本だけで学んだ実の伴わない知識を、声高に口にして悦に入っている愚かな学者のようだ。

 愛が何なのかも知らないで愛を歌う場末の吟遊詩人のようだ。


 それでも俺は情欲をかき立てて、この世で最も美しいエルフの体を抱いた。

 エルはそんな俺に、少し悲しげな微笑みを見せると、


「私も……愛してるわ。ヤスヴァル」


 そう小さく言って、優しく俺を受け入れてくれた。

 実に三百年ぶりの行為はこうして唐突に始まり、

 愛は語られず、

 何のロマンスも生まないまま、

 朝日の到来と共に終わった。


     ◆


 魔物狩りなどとは少し異なる、体力を直接抜き取られたような奇妙な疲労の中、俺は朝を告げる鳥の声を聞いていた。

 懐には猫のように体を丸めているエルがいる。穏やかな寝顔はこの世の憂いなど何も知らない無垢な子どものようだった。


「ん……」


 俺が動いたのを察したように、エルはもぞもぞと動いてから、顔を上げて俺を見た。


「おはよ……」

「おはよう」


 しばらくそのまま見つめ合ってから、俺はベッドから起き上がろうとした。

 だがエルに手を引かれ、再び寝かされる。その上にエルは体を重なった。


「もうちょっと……ね?」


 求められるまま、エルの気が済むまでベッドの中で抱き合って時を過ごす。

 エルの求めに応えることが、今の俺にできる数少ないことだった。


 馬車が出発する時間の前に起きて朝食を摂り、停留所に向かう。昨日よりも多くの人と馬車が停留所に集まっており、ファリアブルク行き馬車を探すだけでも少々骨が折れた。


 俺はウルクスタンの戦いで得た報酬を使い、乗り合いではなく貸し切りの馬車を利用することにした。これは旅行の計画を立て始めた頃から決めていたことで、この旅行をより特別なものにするための施策だ。

 だが貸し切り馬車に乗ってから、俺は自分の選択を後悔した。


「………………」

「………………」


 思わぬ形で床を同じくしたせいで、気まずさから互いに口が利けない。重苦しい空気を全身で感じつつ、互いに互いの様子をチラチラと確認しては目を逸らすという不可思議な状況が馬車内に展開した。


 この空気で半日の旅程を耐え抜くのは厳しい。ここにはダグの酒場という逃げ場はない。何か話題を考えなければ。


「「あのさ」」


 切り出した言葉がエルと重なる。


「あ、いや、先にどうぞ」

「いや、俺が後でいい」

「いやいや、いいからいいから」

「いやいやいや」


 不毛な譲り合いの末、どちらも話を切り出すことができず、それきりまた会話はなくなってしまった。


 結局何の話題も対策も思い浮かばず、窓の外を流れていく風景を見て何とかのろのろと進む時間をやり過ごすうちに、馬車はファリアブルクが見えるところまでやって来た。


 俺は重苦しい空気を変える意味も込めて窓を開け、秋の澄んだ空気を馬車内に取り込みつつ、窓から顔を出した。

 丘の上をゆったりと走る馬車から、白い家々が並ぶファリアブルクの街と、その先に広がる広大な海が見渡せた。吹きつける風には湿り気と潮の香りが交じっている。


「エルも見てみるか?」


 街の風景を口実にエルに声をかけてみる。エルは少し躊躇ってから、俺と一緒に窓から外へ顔を出した。彼女の顔に、まるで潮が満ちていくようにゆっくりと驚きの表情が浮かんでいく。


「綺麗……」


 吹きつける風に流れる髪を手で押さえながら、エルは呟いた。

 俺たちが窓から顔を出している間に、馬車はだんだんと街の様子がよく見えるところまで近づいていく。

 雪のように真っ白な家々。大きな建物を彩る鮮やかな空色の屋根。

 白い家々は遠くに見える海と見事な対比となって、言葉にならない美しさを湛えていた。


 街の入口で馬車は停まり、俺たちはついにファリアブルクに入った。

 大小様々な家が立ち並び、街はまるで迷路のようになっている。


「カリナの家……どこにあったか覚えてるか?」

「ううん。見つけるまで時間がかかりそうね……街も結構大きいし」

「そうだな。とにかく人に聞いてみよう」


 ノッカ村なら村人一人ひとりが互いの名前と顔を知っているが、ノッカ村の数倍はあるこの港町ではそうもいかないだろう。かなり時間がかかると覚悟していたのだが──


「カリナさん? ああ、知ってるよ」

「確か三番街の辺りに住んでたと思う」

「三番街なら、そこの角を曲がったらすぐだよ」

「カリナさんの知り合いかい? え、親戚?」

「カリナさんは凄い人だよ。知らないのか?」


 どうやらカリナはファリアブルクではそこそこ名前が知られているらしい。道行く人たちの半分以上が彼女の名前を知っており、家までの道を教えてくれた。


 海岸線の断崖に作られた街は高低差が激しく、階段を上ったり下りたりしなければ目的地にたどり着けない。カリナの家はすぐにわかったものの、行き着くまでにけっこうな時間を必要とした。


「あった。ここだ」


 長い階段を上った先に、青い丸屋根の家が見える。庭と外を隔てる柵には、「カリナ」と書かれた札がぶら下がっていた。


 階段を一段一段上っていき、柵の開く部分を押し開けて庭に入る。庭には多くの花を咲かせている鉢植えや家庭菜園があり、広々とした穏やかな空間があった。その中で、小ぶりな円形の食卓と二脚の椅子だけが隅に追いやられ、埃を被っているのが目に留まった。


「前にカリナからの手紙が来たのは、いつが最後だ?」

「確か……三、四年くらい前ね」


 カリナは多くの疎遠になってしまった子孫と比べて、二年に一度は手紙を寄越してくれるマメな子孫として記憶している。もしかして何かあったのではという不安を、ここに来ても拭い去れずにいた。


 不安を拭い、ゴクッと生唾を呑んでから玄関の戸をノックする。

 しばしの沈黙。そして──


「ギャアアアアアアアアアアアアア────ッ!!!」


 子どもの泣き叫ぶ声がシンとしていた空気を震わせた。

 それに交じって、母親と思しき女性の声も家の中から聞こえてきた。


「え、あ、おもちゃが壊れたの!? あとで直してあげるから、ちょっと待ってなさい! お客さん来たみたいだから、ほんの少し! ほんの少しだけ待ってて!」


 どうやら子育てという戦場の真っただ中に訪問してしまったようだ。一瞬、このまま退こうかとも考えたが、母親は泣き喚く子どもを引き連れて玄関までやって来た。


「はいはーい! 今開けま──」


 戸を開けた黒髪の女は、背中に二、三歳と思しき子どもを背負っていた。女の顔は疲れからか少々やつれていたが、海沿いに生きる女らしく、小麦色の健康な肌をしている。

 容姿の記憶は少々ぼんやりしているが、間違いなく俺たちの子孫であるカリナだった。


「……お祖父ちゃん? ……お祖母ちゃん?」


 呼び名に違和感があるが、言われてみれば彼女にとって俺たちはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんである。その前に、曽曽曽曽曽曽曽……と長々続いていくことを無視すれば。


「お、おう。久しぶりカリナ。大きくなったな」

「え~!? 何ちょっとどうしたの突然! 言ってくれればいろいろ準備したのに~!」

「ごめんなさい。二人でファリアブルクまで旅行に来たから、カリナに会っておこうと思って」

「そうだったんだ! ありがとう、すっごく嬉しい! あ、この子たち見るのは初めてだよね。この子が長男のディオンよ。ディオン、この人たちはね、私のお祖父ちゃんのお祖父ちゃんのそのまたお祖父ちゃんのお祖父ちゃんの……とにかく遠い遠い親戚なの」


 ディオン少年はべそをかきながら、じっと俺たちを見つめる。

 エルがすかさず微笑みかけ、「良い子ね~」と言いながら頭を撫でた。


「ほら、入って入って。もう宿決まってんの? 決まってなかったらうちに泊まってってよ。そんで、できたらこの子の相手してもらえる? 明日から仕事でさー」


 家の中は子ども用の玩具や下げられていない食器やらで酷く散らかっていた。カリナは忙しなく動き回って、床に散らばっているものを脇に寄せたり、食器を台所の桶に浸けたりして、俺たちが座れるところを用意してくれた。

 その慌ただしさに、ある違和感を拭えず、俺は思わず尋ねてしまった。


「カリナ。旦那はどうした?」


 台所にある食器棚に伸ばしたカリナの手が止まった。

 しかし止まったのは一瞬で、再びあくせくと動き始める。

 茶を用意してくれている最中に、彼女はポツリとこう言った。


「死んだよ。漁に出てるとき、嵐に遭ってね」

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