第16話 酒の肴に愛を語る
「あぎゃあああああああ!!」
家の中に一瞬流れた沈黙が、ディオンの泣き声によって破られた。
茶を淹れる手を一旦止めて、カリナが「よしよし」と言いながらエリスをあやす。
「四年前にね。出航したときはこれでもかーってくらい良い天気だったんだけど、西の空から黒い雲が流れてきてさ。あっという間に街の階段が滝になるような大雨が降ったんだ。波も荒れて、港に戻ろうとした船が沈んだの。酷いよね。私と、まだお腹にいたこの子を置いて逝っちゃうなんてさ」
たはは、と苦笑するカリナ。
俺はそのとき、数年の間カリナから手紙が届かなかった理由を悟った。
深い悲しみと、女手一つでディオンを育てていかなければならない苦労の中、手紙を書いている余裕を見出せなかったのだろう。
「今は、何か仕事をしてるの?」
と、エルが尋ねる。
「うん。港で外国から来た積み荷の管理をね。頭は使うし、時には男たちに交じって積み荷の運搬もやるから滅茶苦茶大変だけど、お給金はけっこういいんだ。私たちだけなら、不自由なく暮らせるくらいは稼いでるよ」
「そうなの……大変だったわね」
「ごめんね。来て早々辛気臭い話しちゃって。はい、どーぞ。この間入ったばかりの茶葉だよ」
と言ってカリナの出した茶は、どことなく甘い果実を思わせるような香りを放っている。口に含んでみると、果実の香りが口から鼻に抜けていくのを感じた。
「「美味しい……」」
と、俺とエルは言葉を揃える。
俺たちを見たカリナは「息ぴったりだね」と笑いながら言った。
芳しい香りで気分が落ち着いたのか、カリナの背中にいるディオンはうつらうつらして、頭が左右に大きく揺れ始めた。「ちょっと待ってて」と言ってカリナは一度奥の部屋に消え、程なく戻ってきた。ディオンをベッドに寝かせていたようだ。
「旦那はずっと漁に出てて、家に帰ってくる時間もあまりなかったし、ディオンと遊んでくれることも少なかった。今頃天国か地獄で、『もっとディオンと遊んでおけばよかったー』って後悔してると思う。……絶対大切だったはずなんだ。あの子のことが。そうじゃなかったら、毎日命懸けで海に出て行ったりしなかったに違いないもの」
「そうね……旦那さん、きっと愛してたわ。ディオンのことも、カリナのことも」
しんみりした声でエルが言うと、俺たちの予想に反してカリナは笑いながらこう言った。
「どうかなー。あいつ、私のこと好きだったかどうかは怪しいよ?」
「「え?」」
俺たちの声は再び重なった。
「結婚したのも何ていうか……成り行き? みたいな感じだったし。あいつが酒に酔って『カリナ、結婚してくれ!』って言って、私も酔ってたから『おう、いいぞ!』って言ったのがきっかけだったから、あはは。私もこんな性格だから、私のこと好きかなんて聞けなくってさー」
何やら話が思わぬ方向に展開する中、エルはまるで綱渡りをしている人でも見ているように不安そうな顔をしていた。
「ふ、不安じゃなかった? 旦那さんが自分のこと好きじゃないかもしれないとか、出て行っちゃわないかとか思わなかったの?」
「んー、元々ずっと一緒に仕事してた仲間で、どういう人かはだいたいわかってたからなあ。今振り返ったら自分でも馬鹿みたいだって思うけど、全然不安はなかったよ」
はははと、快活に笑うカリナ。
この港町を照らす太陽のように明るい笑顔だ。
「あいつのこと、信頼してるんだ。たとえ遠く離れても、私は今もあいつと同じ方を見て走ってるって思えるの」
そのとき、俺は、俺の中に漂っていた霞が少しずつ晴れていくのを感じていた。
霞の向こうから、俺を悩ませてきたものの答えが徐々に輪郭を露わにしていく。
見えてきた答えは決して知恵を絞り、悩み苦しんで導き出すようなものではなかった。
如何に偏狭な考えの中で苦しんでいたのだろうと、自分の至らなさを思い知らされる。
千年も生きているというのに、自分に比べれば赤ん坊のように幼い人間たち──アーシャやカリナに諭されてばかりだ。どれだけの年月を経ても、人間の成長には限度というものがあるのかもしれない。それとも、俺が単に馬鹿なだけか。
「どうしたのお祖父ちゃん? 黙り込んじゃって」
「ヤスヴァル?」
妻と子孫に、俺は笑みを返す。
「何でもない。それよりカリナ。お祖父ちゃんはよせ。確かに千歳超えてるが、中身はまだまだ若いつもりだからな」
◆
その夜、俺はエルとカリナが作った夕食をいただき、カリナがとっておきだというワインを飲んでファリアブルクの夜を明るく楽しんだ。明日仕事だというカリナは外の浴場から帰ってきたらすぐにベッドに入り、旅の疲れが出たらしいエルもカリナが寝た後、すぐにうつらうつらし始めた。
エルをベッドで休ませてから、頭が冴えていた俺はカリナが出してくれたワインの飲み残しと、グラスを二つ持って庭に出た。
夜空には雲ひとつなく、欠けた月が優しく地上を照らしている。月明かりのせいで星はあまり見えないが、とても美しく、静かな夜だった。
「ユト」
俺は夜の空気を震わせて、魔女の名前を呼んだ。
あいつの言葉が本当なら、おそらく傍にいるはずだ。
突如、何の気配も感じなかったところに影が差す。
魔女ユトは俺の呼びかけに応じて、影の中から生まれ出でるように現れた。
「こんばんはヤス。お酒まで持ち出して、やっぱり私を選ぶ気になった?」
「お前と久しぶりに酒盛りしたい気分なのは事実だが、お前を選ぶっていうのは早計だ」
俺は庭の隅に打ち捨てられていた円卓と二脚の椅子を並べ、軽く埃を払ってユトを座らせた。俺は反対側の椅子に座り、用意したグラスを卓に置く。そこにワインを慎重に注いでいった。
トクトクという気持ちのいい音と共に、泡の弾ける音が響く。
「発泡ワインなんて珍しいわね。さすが港湾都市ファリアブルクってところかしら」
「さっき飲んでみたが、味は格別だ。酒の味にうるさいお前でも気に入ると思う」
「それじゃあいただくわ。私たちの前途を祝して」
そんな乾杯の言葉でグラスを合わせる気にはなれず、俺はユトに先んじてワインを呷った。口の中で泡が弾け、思わず「くーっ」という声が出る。
「それで、私を選ばない理由は何?」
「その話をするのはまだ早いぞ。まだ一杯目なんだ。結論を急ぐなよ」
「いつも事を急ぐあなたらしくないわね」
そう言うユトは少し嬉しそうに微笑んだ。
「それじゃあ何を話そうかしら?」
「昔話でもしよう。久しぶりに会ったんだからな」
「構わないわ」
酔いで少々ぼんやりした頭でも、あのときのことははっきりと思い出せる。
「初めて会った日のこと、覚えてるか?」
「あなたが私の店の前に倒れてたときのことなら、よく覚えてるわよ。当時の私は繊細な乙女だったからね。朝、外に出たら軒先に血まみれの男が虫の息で倒れてるの見て、卒倒しかけたわ」
初めてユトに会った日の前日、俺はユキオオカミの群れを相手にして、全身噛み傷や引っ掻き傷だらけになって生死の境を彷徨った。夜中に近くの村にたどり着いたものの、村の路地裏で倒れてしまったのだ。
そして倒れた場所が、当時占いで日銭を稼いでいたユトの家の前だったのである。
「最初は傷が治ったら放り出すつもりだったのよ。怪我して魔物も狩れない穀潰しを世話する余裕もなかったしね」
「だろうな。なのにどうして付いてきたんだ?」
「あなたこそ、怪我が治ったら出て行く気満々だった癖に、付いてく私をどうして追い払おうとしなかったの?」
「…………」
「…………」
俺もユトも口を閉ざした。
本当は互いに何を思っているのかわかっている。
少々恥ずかしくて口にしづらいだけだ。
だから、俺が先に言うことにした。
「魔物を狩ることしか興味がないって気取ってた癖に、連れができて何だかんだ嬉しかったんだ。要するに寂しかったんだと思う」
「……私は身寄りがなくて、頼れる人も誰もいなくて、一人で細々日銭を稼ぐだけの人生に嫌気が差してた。あなたに会って、誰かと一緒に過ごすのがこんなに楽しいことだったって、初めて知ったの。だから私も……やっぱり寂しかったのね」
ユトはワインをクイッと呷り、グラスを空にした。
次の一杯を俺が注ごうとすると、彼女は手で制した。
「ずっと独りだった私にとって、あなたは私のすべてだった。この退屈な人生を生きる価値があると、私に思わせてくれた。だから、不老の霊薬を飲んだ理由が若くありたいからっていうのは半分嘘。いつかあなたにこうして会える日をどこかで期待してたの。だから──」
「それでも、俺はエルの傍にいるよ」
シュワ……と、ワインの中に漂っていた泡の弾ける音がやけに大きく響いた。
ユトは被っていた三角帽子の鍔を下げ、目元を隠す。
「前も言った通りよ。あのお姫様が求めている関係にあなたたちはもう戻れない。あなたがいくら恋人を装ったって、心が伴わない限り真似事に過ぎないわ」
「そうだ。当たり前だ。俺たちはもう恋人じゃなくて夫婦なんだからな」
思えば当然のことを、俺は世界に隠された真理を解き明かしたかのように自信たっぷりに言った。
「お前やアーシャが言う通り、エルは俺に恋人のような関係を求めてるんだろう。だが、俺は心が歳を取る人間で、エルフじゃない。あいつと同じ恋愛観を持って生きてくなんて土台無理な話だったんだ」
「それじゃあ、あなたは彼女の気持ちに応える気がないっていうの?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
回りくどい言い方に、ユトは目を細めた。
それでも俺は淡々と、カリナの話を聞いて気づいたことを述べていく。
「いつでも笑い合って、見つめ合って、愛を語り合って、抱き締め合う……これもひとつの愛の形だとは思う。だが、恋人同士が覚える感情がなくても、夫婦は信頼と安心で繋がれる。今日、俺の子孫を見てたらそんな風に思えたんだ。夫婦の間にある信頼が、かつて抱いた気持ちに劣るなんてことは絶対にない。俺はそのことをエルに伝えたいと思う」
「それでも、彼女が恋人のような関係を望んだらどうするの?」
「話し合うさ。長い時間をかけて話し合う。幸い、俺たちには永遠の時間が与えられてるからな」
三角帽子の鍔を摘まんで、ユトは笑う。
その声はわずかに震えていたが、俺は何も言わずに彼女の言い分を聞いた。
「あなたらしくない気障なこと言っちゃって……呆れて物が言えないわ。あのお姫様の我儘はそう簡単に直るもんじゃないわよ? 何たって、数千年も同じ性格を通して生きてきたんだからね」
「それでも俺はあいつと同じ方向を向いて、この先歩いて行きたい。夫婦ってそういうものだろう?」
「……さあ、どうだかね。私は結婚したことないからわからないわ。もらえる?」
ユトの求めに応じて、俺はグラスにワインを注ぐ。
俺も自分のグラスに残っていたワインを干して、二杯目を注いだ。
「ヤスは、永遠の愛って存在すると思う?」
「エルフにはあるのかもしれないが、人間の世界に永遠はないというのが俺の結論だ。どんなに情熱的な愛でもいつか形は変わる。だから人は神に誓いを立てたり、時には相手を殺したりして、愛を永遠の物にしようとした。愛の形が変わり、いつか消えてしまうことを恐れたんだ」
「案外冷めてるのね」
「ああ。何もせず放っておけば夫婦の信頼だっていつか消える。ついこの間まで、俺があいつの傍にいるのが息苦しいと思ってたみたいにな。
だが、たとえあいつへの気持ちが形を変えたとしても、俺はあいつがこの世で最も大切な存在だと思い続ける。あいつを失ったら俺は生きていけないんだと、胸に刻んで生きていこうと思う」
エルは、いつ死んでもおかしくない戦いをしていた俺に生きる術を教えてくれた。
この世界で生きる希望をくれた。
そんな彼女を守るために授かったのが、この不老不死の肉体だ。
人間の世界にないはずの〈永遠〉を、俺は確かに持っている。
「俺は永遠の命を手に入れ、同じく永遠に生きる妻を持った、おそらく世界で唯一の人間だ。人の理を外れた俺なら、人間で初めて永遠の愛って奴を体現できるかもしれない」
「……そう」
ユトはグラスの葡萄酒を一気に飲み切った。
「ぷはっ」と息を吐いたユトの顔はどこか清々しい。
天を見上げる黒真珠のような瞳は、空に浮かぶ月を映していた。
「せいぜい頑張ることね。ワイン美味しかったわ」
「もう行くのか?」
「ええ。お邪魔虫はさっさと退散することにします」
「これからどうするつもりだ?」
「これまでと同じよ。世界をブラブラしながら自由に生きるわ。夫婦にはわからない独り身の楽しさっていうのもあるのよ」
「そうか……元気でな」
「あなたもね」
椅子から立ち上がったユトは彼女が現れた庭の隅に向かい――
途中で、忘れ物を思い出したようにふと立ち止まった。
「ねえヤス。ひとつだけ聞かせて」
「何だ?」
「さっき、連れができて嬉しかったって言ってくれたわよね」
「ああ」
「それでも私があなたのものになれなかったのは、昔の私があのお姫様ほどあなたの中に踏み込めなかったから?」
ユトがエルと口論していたときの言葉を、俺はそのときふと思い出した。
――あなたの復讐を邪魔したくなくて、何も言わなかったの。
言わなかったというのは嘘だ。
ユトは死地に赴こうとする俺を何度も止めようとしてくれた。
俺の危うさを察して声をかけてくれたエルと、やったことに大差はない。
だがあのとき、ユトの言葉は俺に響かず、エルの言葉だけが俺を動かした。
その差は一体何だったろう。
過去に思いを馳せて、ひとつの結論にたどり着く。
この無責任で、残酷に思える結論は、きっとユトを傷つける。
だが俺も、千年という時の中で多くの人々に出会ってきた。
様々な出会いと別れを経験した長い長い人生の重さが、この一言に込められる。
きっとこの一言が持つ重みを、同じく千年生きてきたユトは理解できる。
「たぶん俺たちには、縁がなかったんだ」
ユトは振り返らない。黒い後ろ姿は今にも闇に溶けてしまいそうだった。
しばしの沈黙。ユトは俺に背を向けて立ち尽くし、俺は彼女の背中を見つめる。
永遠にも思える長い沈黙の果てに、ユトは俺に横顔だけ見せてくれた。
その口元にはわずかだが、微笑みが浮かんでいた。
「きっとそうね」
それだけ言い残し、ユトは庭の隅の影に呑み込まれるようにして姿を消した。
俺も立ち上がり、月を見上げながらワインを呷る。
ワインの発泡はすぐに消えてしまったが、酒の香りと甘みは口の中に残った。
空になったワインの瓶とグラスを片付けて、家の中に戻る。
闇の中で瓶とグラスを台所に置き、そのままエルの寝ている部屋を目指した。
ベッドと衣装箪笥しかない殺風景な部屋で、エルは静かに寝息を立てていた。元々はカリナの旦那の個室だという部屋は掃除が行き届いており、埃ひとつない。残された部屋の扱いに、子孫の確かな愛を感じた。
俺はそっとエルが寝ているベッドに潜り込む。
俺に気づいたエルは寝ぼけ眼を擦り、目蓋を何度も開いたり閉じたりした。
「ちょっと酒臭いわよ、ヤスヴァル」
「ついさっきまで飲んでたからな。あのワインは美味い」
「確かに味はよかったわね。どこで売ってるか聞いて、帰りに買っていきましょうか」
「それがいい」
俺は横になったまま、エルの体を優しく抱き寄せた。
エルの体がだんだんと熱を持っていくのを感じる。
そんな彼女をしっかりと抱き締めたまま、俺は耳元で囁いた。
「エル、お前に話したいことがあるんだ」
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