第17話 千年越しの告白

「……何?」


 そう言うエルの声には不安が滲んでいた。

 改まって言う俺に、何かただならぬものを感じたのだろう。


「エル。俺たちは夫婦だよな?」

「当たり前じゃない」

「そう。俺たちは恋人同士ではなく夫婦だ。出会った頃の俺たちと、今の俺たちの関係は同じじゃない」


 胸の中にいるエルの体が、わずかに震え出すのを感じる。

 まるで恐ろしい亡霊でも見たかのように、エルは俺にしがみついた。


「……じゃあ、ヤスヴァルはもう私のことを愛してないの?」

「そんなことはない。今でもお前のことは大事だ。その一点は千年前から大きく変わってない。けど、残念なことに俺は人間だ。エルみたいに心まで永遠に若くはいられないし、考え方も変わる。お前はそれが不安で……怖いんだろう?」


 やや躊躇ってから、エルは「そうよ」と言って頷いた。

 俺の胸に弱々しく拳を叩きつける。何度も何度も、繰り返し。


「お父様がヤスヴァルの心まで不老にしてくれればよかったのにって何度思ったかわからない。出会った頃から少しずつ変わっていくあなたを見るのが怖くて、私、本当は嫌われてるんじゃないかってビクビクしてるの。いつか、私の知らないところにフラッと行ったまま戻らないんじゃないかって……」


 そんなことないと言いたくて、俺はさらにエルを強く抱き締める。


「お前の言う通り、昔と比べて俺は変わった。一緒にいる時間が長過ぎて……告白すると、正直鬱陶しいと思うこともある。

 けどそれは、昔と比べて関係が疎遠になったとか、後退したとかいう一言で片付けられるほど単純なことじゃないんだ。お前と過ごして、出会ったばかりの頃は知らなかったお前の駄目なところを数多く見てきた。それと同じくらい――いや、それ以上に、良いところも沢山知った。

 駄目なところばかり目につくこともあるが、好きなところも嫌いなところも全部合わせて、それでも一緒にいたいと今は思える。この先もずっとそう思い続けたい。だから俺は、これからもっともっと努力する。何千年、何万年経っても、お前を妻として愛し続けるつもりだ」


 俺はエルから体を少し離し、彼女の顔を真っ直ぐ見る。

 エルは今にも泣き出しそうな顔をしていたが、視線は逸らさずにいてくれた。


「エルフみたいに、永遠や絶対がないのが人間だ。俺の口約束なんて信じられないかもしれない。だが、少しでも永遠に近づけるように、俺はお前を想い続ける。それができなければ俺にお前の夫を名乗る資格はない。いつ三行半を突きつけて出て行っていい。こんな情けないことしか言えない俺とでも、もし、一緒にいてくれるなら……一緒にいたいと思ってくれるならな……」


 少し躊躇して、「恥ずかしいから一回しか言わないぞ」と念を押してから、俺は満を持してこの言葉を口にする。


 実を言うと、初めてエルに愛の告白をされたとき、俺はわずかな後悔を抱いていた。

 ああいう場面では男が先に想いを告げるべきだと思うのだ。

 だが、先にエルが告白をしてしまった。

 だから、これは千年越しの意趣返し──


「改めて俺と――ヤスヴァル・リヴィエントと夫婦になってくれ」


 訪れた静寂の中で、自分の心臓の音が聞こえる。

 おそらくエルも、あの泉のほとりで想いを告げたとき、同じくらい緊張したのだと思う。


 エルの目から涙があふれてきた。

 濡れた瞳は、窓から注ぐ月明かりしかない部屋の中でも、自ら光を放っているようにはっきりと見える。

 彼女の瞳には、今もかつて見た美しい星が瞬いていた。


 エルが流す涙はだんだんと勢いを増していき、彼女は嗚咽を上げ始めた。

 涙が止まるまで、俺はベッドの中でそっとエルの手を握り続ける。

 やがてエルの嗚咽は収まり、ようやく話せる程度まで落ち着いてきた。

 第一声は──


「ごめん」


 だった。

 一瞬奈落に突き落とされたような気がしたが、ちゃんと続きがあった。


「……わかってた。ヤスヴァルは私とは違う考えを持ってるって。でも、私のこと、こんなに考えてくれてたんだって思ったら嬉しくて……。変わらなきゃいけなかったのは私の方。いつまでも昔と同じように愛してくれないから不安で不満で……私、こんな性格だから意地張って……」


 また泣きそうになるエルの頭を静かに撫でてやって、次の言葉を優しく促す。

 子どものように泣きじゃくるエルは手の甲や掌で頬を伝う涙を拭う。


「でも、もうそんなのは嫌だ。私もカリナみたいに、あなたのことを信じて生きていけるようになりたい」


 エルは目元に残る涙を拭って、こう告げた。


「だから私からもお願い──私を、ヤスヴァルの妻にしてください」


 このとき、この一瞬を、俺はこの先永遠に忘れることはないと思う。

 千年という時間の地層を破って、俺の中に湧いてきたのは愛おしさだ。


 これから先、何があっても俺はエルと前を向いて歩いて行ける。

 エルの子どもっぽさも、我儘も受け入れ、時に対立しても足は止めない。

 もしエルが立ち止まったら俺も立ち止まり、再び歩き出すまで待つ。

 いつまでもいつまでも、同じ未来に向かって進んでいける。

 訳もなく、そう確信した。


「エル」

「何?」

「愛してる」

「なっ! ……何、急に」

「今の心境を端的に言葉にしただけだ」

「何よそれ……けど、嬉しい」


 俺たちは改めて抱き締め合った。

 千年の時を経て、改めて夫婦の契りを交わした喜びと共に。

 だが次の瞬間、エルの顔が真顔になった。


「あ、でも浮気とかしたら食事に毒盛るからね。あなたの体でも簡単に浄化できない毒を丁寧に丁寧に精製するから。一ヶ月は腹痛、頭痛、関節痛、吐き気、倦怠感、全身の痺れ、寒気が抜けない猛毒で苦しむことになるわよ。覚悟しておいて」

「……その一ヶ月はおそらく長いな」

「ええ。きっと永遠に感じられるに違いないわ」


 ニヤリとしたエルはポフッと俺の胸に顔を埋めた。

 そのままグリグリと、甘える猫のように額を擦りつける。


「ねえ、ヤスヴァル」

「ん?」

「改めて夫婦になったわけだけど……やっぱり、ひとつだけお願い」

「何だ?」

「十年……ううん、五十年に一度くらいでいいから、その、あのね……」

「…………ああ」


 何を言わんとしているかはわかる。それ以上言わせるのは男として恥だ。

 俺はエルの体を強く抱き締め、背中に回した手で全身に触れた。

 エルも同じように、俺の全身に手を這わせる。


 そして、俺はエルが望むことに力を尽くした。

 それが何であるかは、言うまでもないだろう。


     ◆


 後日、俺とエルは仕事に出かけるカリナを見送り、家でディオンと遊んだ。子育てに参加するのも数百年ぶりのことである。

 子育てに関してエルの右に出る者はいない。過去に曽孫、曽々孫を含めて数百人に及ぶ子孫たちの世話をした経験があり、子どもの扱いは慣れたものだ。


「お~よしよし、いい子いい子♪」


 ここ数百年発したことのない声音で言うので俺は笑ってしまい、あとで頭を叩かれた。幼くとも男子であるディオンのエルに対する食いつきは物凄く、遠慮なくエルの慎ましい胸を触りまくり、端で見ていた俺がやや嫉妬を覚えたことは秘密である。


 夜になってカリナはヘトヘトになって帰ってきた。腕や足には積み荷に引っかけたと思われる引っ掻き傷がいくつか付いており、エルによって治療が施された。普段はディオンをどうしているのか尋ねたところ、近所の友人に預けているらしい。


 カリナがこの街で有名なのは、街に住んでいる人の多くが荷物の集まる港に出入りするからだと後で知った。積み荷の管理という重要な責務を担っているカリナが街の人々から寄せられる信頼は厚く、外で食事をするときカリナの身内だと告げると、支払いをまけてもらったりした。

 アルカヴァリオもそうだが、子孫たちが立派に生きているのは先祖として誇らしい。こうした繋がりを感じ、彼らの奮闘を見つめていられるのは不死ならではの醍醐味だ。


 そして訪れた帰宅の日。カリナの家の庭でマリノ行きの馬車が出発する時間を待ちながら、ぽろりと思ったことが口から出る。


「子ども作るか」

「ブッ!?」


 飲んでいた茶を盛大に吹き出したエルはむせ返り、何度も咳き込みながら俺を見た。

 彼女の顔はこの海で獲れるタコのように真っ赤だった。


「ななななな何言い出すの急に」

「いや、ディオンを見てたら久しぶりに子育てするのも悪くないなと思って。お前、子ども好きだしな」

「す、好きだけど」

「じゃあ決まりだな」

「何なのよ……少し前まで面倒臭がって自分からはしてくれなかった癖に」

「快楽を求めてするのと、子どもを求めてするのじゃ意味が違うだろう」

「快楽とか言い切るのやめてよね。子どもが目的じゃなくても、するのは恋人や夫婦が交流するのに必要な行為のひとつだから」

「そういうものか?」

「そうよ」


 鼻息を荒くして言うエルの主張を適当に受け流して、俺は少し離れたところで遊んでいるカリナとディオンを見た。笑いながら駆け回る子どもと、それを見守る母親。父親がいないのは残念だが、幸せの縮図がそこにはあった。


「それじゃあカリナ。俺たちはそろそろ行く」

「えー、もう行っちゃうの? しばらくここにいてよ。どうせ暇なんだから」

「どうせ暇とか言うな。長く家を空けると騒ぐ奴がいるんで、あまり長いこと外にいられないんだよ」

「そうなんだ。おじい──ヤスヴァルさんも何だかんだ大変だねえ」

「千年も生きてれば悩みは尽きないさ。いろいろ頭を抱えるようなこともあるが、それもまた生きる楽しみになってる」

「ふーん。よくわかんないけど、また来てね。最近忙しくて手紙出してなかったけど、また出すようにするからさ」

「待ってるわ」

「うん。お祖母ちゃんもありがと」

「できれば私もお祖母ちゃんはやめてほしいかな……」

「エルノーラさん?」

「それにしましょ」


 三人同時に笑い合う。ディオンも場の空気を察したように、キャッキャと笑った。その直後、エルが帰ってしまうことを知って大泣きに泣いたのだが。


 道中は平和そのもので、俺たちは他愛のない話をしながら帰路を楽しんだ。マリノで一旦休憩し、そこからゆっくりと並んでノッカ村まで歩く。

 手は繋がない。それでも俺たちの歩調は自然と合った。どちらが前を行くことも、後ろを行くこともなく、秋の色が濃さを増しつつある大地を行く。


「だいぶ冷えてきたわね」

「大丈夫か?」

「平気。気づいたらあっという間に冬になってるわね、きっと」

「不死になってから季節が流れるのが早いよ」

「そ、そういえば襟巻き編んでるんだけど、帰ったら巻いてみてよ」

「あー、あれ襟巻き編んでたのか。ただの暇潰しかと思ってた」

「暇潰しは暇潰しよ。けど、それが誰かのためになるなら一石二鳥でしょ?」

「その通りだな。ありがとう」

「どういたしまして」


 エルの編んだ襟巻きなら、訪れる冬がどれだけ寒かろうと俺をしっかりと温めてくれるに違いない。今から帰るのが楽しみになってきた。

 家に帰ることを考えるだけで心が浮き立つ。こんな感覚はいつぶりだろう。


 日が西の空に沈み、空が茜色に染まり始めた頃、ノッカ村の外壁が見えるところまでやって来た。ほんの数日留守にしていただけだったのだが、ずいぶん久しぶりに思える。

 外壁を潜って中に入り、以前と変わらない景色に安心する。道行く人々は俺たちを見て、笑って挨拶をしてくれた。挨拶を返しつつ、ワムダの家に向かう。


 ワムダの家の戸をノックすると、バタバタという足音が中から聞こえ、勢いよく戸が開いた。現れたのはアーシャだ。彼女は俺とエルの顔を二度見してからスッと微笑み、こう言った。


「おかえりなさい」

「ああ、ただいま」


 アーシャはこの通り笑ってくれたが、奥から慌てて出て来たワムダの顔ははじめ、激しく引きつっていた。予想よりも俺たちの帰りが遅いことを気に病んで、ここ数日眠れぬ晩を過ごしていたらしい。俺たちが謝る筋ではないのだが、一応頭を下げた。


「旅行、どうでしたか?」


 と、アーシャはエルの視線が離れている隙に尋ねてきた。

 俺はそれに笑って応じる。


「ちょっと大変だったが、楽しかったよ」


 俺が言わんとしていることを聡明な彼女は汲んでくれたようで、「それはよかったです」と嬉しそうに微笑んだ。

 ワムダへの報告を済ませ、アーシャと別れた俺たちはいよいよ自宅に帰ろうとした。


 が、途中で足が止まる。

 酒場の手前に何やら人だかりができている。人を集めているのは椅子と卓を置いて水晶玉を見つめている黒服の女だ。女の周囲で、村のうら若い乙女たちが何やら顔を赤くして色めき立っている。


 女の顔には見覚えがあった。


「……こんなところで何してる、ユト」

「あら、ヤス。遅かったわね」


 と、何食わぬ顔でユトは言った。

 俺の隣に立つエルの美貌が怒りで徐々に歪んでいく。


「見ての通り商売よ。私の本業は占いだから」

「自由にフラフラ旅をするんじゃなかったのか?」

「それもいいかなと思ったんだけど、ウルクスタンの奴らからもらったお金も底を尽きたし、稼ぐなら一箇所に留まった方が常客も付いていいと思って」

「それで、どうしてここなんだ」

「決まってるじゃない……あなたの傍にいたいからよ」


 吐息の交じる妖艶な声で言うユトの前に、エルが立ちはだかる。


「あなたにヤスヴァルは渡さないんだからね」

「決めるのは彼よ。私やあなたじゃないわ」

「ぐぬぬ……」


 どうやら、まだ修羅場から解放されたわけではないようだ。

 ため息をつきつつユトに別れを告げ、村を後にし、俺たちは暮れなずむ森に入る。

 枝葉の間から注ぐ夕日が木々の陰を色濃くする。

 太陽が燦々と照る黄金の秋の森とは違う、どこか寂しげな美しさを湛えていた。


 その中に、赤く照らされた俺たちの家が見えてきた。

 帰ってきたという実感がじわりと胸の奥に起こる。

 何故だかとても嬉しくて、俺は一度家の前で立ち止まり、エルを見た。

 エルも嬉しいのか、美しい微笑みを浮かべて俺を見つめている。


「ただいま」


 という俺たちの声が、暮れなずむ森の優しく響く。

 荷を下ろし、手を洗い、俺はエルと一緒に夕食の準備を始めた。

 俺は湯を沸かすために火を起こし、その間にエルは野菜を刻む。


「こうして一緒に料理するのも久しぶりね」

「お前、初めてこの家の台所に立ったとき、盛大に塩を床にぶちまけたよな」

「……あれは一生の不覚だから忘れて。そういうどうでもいいことはよく覚えてるんだから」


 はは、と互いに笑う。

 いつものパンと肉、スープという料理に、今日はファリアブルクで購入した発泡ワインを添える。本来なら食糧庫で少し冷やした方が美味いのだが、この美酒を旅の余韻が残る今、エルと飲みたかったのだ。


「さて、じゃあいただきましょうか」

「先にワイン飲もう」

「あ、そうね。せっかく買ってきたし」


 二人分のグラスを出し、互いにゆっくりと注ぐ。薄い黄金色のワインの中で、泡がシュワシュワと音を立てている。俺はワインを軽くグラスの中で揺らしてから、エルに微笑みかけた。エルも同じように、微笑み返してくれる。

 乾杯の言葉は何にしようと一瞬思ったが、言うことはとっくに決まっていた。


「永遠に続く俺たちの未来に、乾杯」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る