第6話  祝えない再会

 アーシャの訪問でエルが機嫌を損ねてから二週間が経過した。

 予想通り俺はまったく口を利いてもらえなくなり、家には常に重苦しい沈黙が流れている。会話をしないだけなら耐えられるが、エルから不機嫌な霊気が満ち満ちているせいで酷く息苦しく、同じ空間に十分と居続けることができない。


 食事を作ってくれる気があるのは不幸中の幸いだが、俺は今朝も食事を終えてすぐ家を逃げ出してしまった。向かうのはいつもの酒場である。


「まーだエルさんの機嫌、直らないのかい?」


 麦酒を持ってきたダグが苦笑いしながら尋ねてきた。


「なあダグ。お前は奥さんを怒らせたとき、どうやって機嫌を取ってる?」

「そうだねえ。花贈ったりとか、とにかく謝り倒すとか。うちの場合は謝ってるとき、母ちゃんのビンタが飛んでくることあるけどな、はは」

「花は前に贈ったしな……。謝り倒してどうにかなるとは思えない」

「にしても、エルさんも純情というか嫉妬深いというか。千年も連れ添った間柄ならもっと大きく構えといてほしいもんだが。信用されてないんじゃないかい、旦那?」

「そうかもしれん。だが、俺は浮気したことなんてないぞ?」

「だからこそかもしれないよ? これまで女っ気がなかった旦那が突然女連れ込んだもんだから、びっくりしたんじゃないかねえ。見方を変えれば、やっぱり旦那は愛されてんのさ。だから素直に事情を話して謝ったら許してもらえるかもしれないよ」


 俺もさすがにそろそろ謝まらなければならないとは思っていた。だが、今回の件で自分が悪かったとはどうしても思えず、意固地になって謝ることができずにいたのだ。

 俺が意地を張れば長引くのは明白だ。エルから謝ってくるとは到底思えない。


「よしわかった。戻って謝ってくる」

「その意気だ。仲直りできたら、結果報告しにまた来てくれよ」


 ダグに見送られて俺は酒場を出た。まだ夏の名残が漂う湿り気を帯びた空気を吸い込んで、決意を固める。

 悪くないと思っても謝らなければならない場面もある。

 そう己に言い聞かせ、森へ至る道に踏み出そうとしたときだった。


「ヤスヴァルさん」


 声をかけてきたのはアーシャだった。

 手に何やら封筒を持っている。


「おはよう」

「おはようございます。先日は、その、申し訳ありませんでした」

「どうして謝る?」

「あの、ええと、エルノーラ様のご機嫌を損ねてしまったかな、と」

「気づいてたか」

「はい……申し訳ありません」

「気にしないでいい。ところで、何か用か?」

「あ、これ。うちに届いていた手紙です。ヤスヴァルさん宛ての」


 俺のもとには、今も俺が存命であることを知っている人物から魔物退治の依頼が手紙などで届くことがある。依頼の手紙をわざわざ森の中まで届けてもらう手間を省くため、一度ワムダの家に手紙が集められるようになっているのだ。


 アーシャから手紙を受け取り、封筒を見た俺は眉を顰めた。

 見覚えのある紋章が捺された封蝋。

 十中八九、俺のよく知る人物から届いたものだ。


「魔物退治の依頼ですか?」

「……いや、おそらく違うな」


 俺はアーシャに礼を言って家に戻った。

 戻る道中で封を開け、手紙の文面に目を通す。

 書かれていたのは予想していた通りの内容だった。


「……ちっ」


 独り舌打ちをする。エルと会話せざるを得ない状況が向こうから転がり込んでくるとは。

 冷戦状態が終わるという安堵はあるが、素直に喜ぶことはできなかった。


 家に帰ってきた俺はエルを探した。居間にも台所にも自室にもいない。

 残りは薬草を煎じるときなどに利用するエルの仕事部屋だ。俺はそこの戸をノックもなしに開けた。


 エルは部屋の中央にある作業台で薬を煎じているところだった。あからさまに不機嫌そうな目で俺を見たが、俺が持っている手紙に目が留まった瞬間、顔色が変わった。


「アルカヴァリオから、エルバニア王の勅命を伝える手紙が届いた」

 細かく折り畳まれた手紙をバッと広げ、エルの眼前に突き出す。

「ウルクスタンとの国境の防衛戦に参加せよ、だそうだ。三日後にアルカヴァリオ自らここに迎えに来ると」


     ◆


 手紙が届いた三日後。エルは家で手紙の送り主を迎える料理をこしらえていた。

 俺は自室に籠もって剣の手入れを行う。エルが作る料理と同じで、これも送り主を迎える準備のひとつである。


 手紙によると、彼がここにやって来るのは今日の午後。約束を厳守する彼のことだ。そろそろ来る頃だろう。

 彼の訪問は俺たちが会話するきっかけをくれたが、心から歓迎することはできなかった。彼のもたらした報告はあまり喜べたものではないからだ。


「来たわよ、ヤスヴァル」


 エルが自室まで俺を呼びに来た。俺は剣を寝台に立てかけて、部屋を出た。

 玄関に近づいたところで、俺の耳にドドッドドッという複数の馬蹄の響きが届いた。

 数は五騎。森の中でも速度を落とさないところを見るに、馬の扱いに慣れた連中のようである。


 俺は玄関の戸を開け放ち、目の前に現れた騎兵たちを一瞥した。

 傷のない鋼の鎧。艶やかな臙脂のマント。柄に豪奢な装飾が施された剣。

 装備から、高貴な出の騎士という風格が漂っている。

 もっとも、剣の腕が伴っているかは怪しいが。


 五人の先陣を切ってやって来た騎兵が真っ先に馬を下りた。

 白髪の交じる短髪。やや老いが見え始めた顔には、歴戦の戦いを生き抜いた証である古傷がいくつも走っている。年齢は他の騎兵より一回り上だが、浅黒い顔からは歴戦の勇士のみが持ち得る覇気が漂っていた。


「元気そうで安心したぞ」


 と、俺はその男に声をかけた。

 男は俺とエルの前で拳を固めると、胸甲をドンと叩いた。


「ご無沙汰しております。ヤスヴァル殿。エルノーラ殿。お二人とも息災で何より」


 男の名はアルカヴァリオ・エル・ディートリッヒ。俺たちに手紙を寄越した人物だ。

 俺の三女の娘の息子のそのまた娘の……詳しくは覚えていないが、とにかく俺とエルの子孫だ。


 アルカヴァリオは俺たちが暮らすこの国、エルバニア帝国の軍団長を長年務め、帝都では〈軍神〉と呼ばれる優秀な人物である。俺がエルと帝都を訪ねたとき、まだ幼かった彼に剣を教えて以来、交流が続いている。


「ごめんなさい。全員分の食事は用意していないのだけど……」


 申し訳なさそうにエルが言うと、アルカヴァリオは恐縮した様子で首を横に振った。


「この者たちのことはお気になさらず。軽食は持たせておりますし、家に上げていただく必要もありません」

「まあ立ち話も何だ。入ってくれ」

「はっ。失礼いたします」


 本来、身分の差を考えるなら俺たちから頭を下げ、丁寧な言葉づかいをするべき相手なのだが、自分の子孫にへりくだるのも気が引け、アルカヴァリオもそれを望んでない様子なので、このように友人にするような話し方をしている。

 その様子が奇妙に映ったのか、アルカヴァリオの供の騎士たちは複雑そうな表情で自分の上官を見ていた。


 食卓に並ぶ遅めの昼食はパンに羊肉のシチュー、ニシンの塩漬けという我が家ではごく平凡な献立である。

 アルカヴァリオは「これは美味しそうだ」と言って、ようやく硬い表情を緩めてくれた。普段もっといいものを食べているはずだが、そういうことを自然と言える気づかいも、彼が軍の頂点を極めた要因だと俺は思っている。


「鎧は脱いだらどうだ?」

「いえ、どうかお構いなく」

「今日は泊まっていくか?」

「先程ノッカ村に宿を取りました。今夜はそちらで休みます。それにしても、ここは相変わらずのどかで美しいところですな。帝都の喧噪にはない静けさが心地良い」

「ずっと住んでるとそうは思えなくなるがな。ここに移り住んでもう二百年だ」

「以前はどちらにお住まいだったか、伺ったことがありましたかな?」

「いや、話してないな。ウルクスタンの山岳地帯だ」

「ウルクスタン……」


 エルバニアの南部に接するウルクスタン王国。

 その国の名前が出た瞬間、アルカヴァリオの顔から笑みが消えた。

 話を本題に移すにはちょうどいい。


「手紙は読んだ。国境線の戦況はどうだ?」

「奴らは辺境に強固な砦を築き、我らの進軍を妨害しております。砦の壁は高く、外門は硬い。そしてどうやら奴らは名うての魔術師を雇っているらしく、骸骨の兵士を無限に繰り出して、我らの兵を疲弊させているのです」

「ちょっと信じられないわね。死者の魂を操るほどの魔術師がこの時代にもいるなんて……」


 と、エルが口を挟む。俺もまったく同じことを思った。


 俺たちが結婚した頃なら、魔術で天変地異を起こせるような人間やエルフが何人もいた。だが長い年月を経て魔術はだんだん衰退し、今ではちょっとした占いや薬草術、子どもを喜ばせる児戯みたいな魔術が名残として残っているだけである。

 だからこそ、死者の魂を操れるほどの大魔術を使える魔術師は、おそらく世界に十人といない。


「その辺りのことはいい。今回も俺に選択肢はないんだろう?」

「……はい。誠に申し訳ないのですが、陛下の勅命です。ヤスヴァル殿には辺境領までお越しいただき、砦の占拠にご協力いただきたい。これが陛下の勅命書です」


 アルカヴァリオは、細く丸められた羊皮紙を広げて見せた。アルカヴァリオが今言った『砦の占拠に協力せよ』という内容の文章が、良く言えば詩的に、悪く言えば長ったらしく書かれている。


 世捨て人のように、あまり社会と関わりを持たない暮らしをしている俺たちだが、エルバニアの領内に住んでいることには変わりない。武器の扱いに長けた不老不死の男が自国内にいるとわかれば、当然の如く国の権力者たちが自軍に招き入れようとしてくる。


 前に住んでいたウルクスタンからエルバニアに移り住んだのも、ウルクスタンの王族から招集命令を受けたのがきっかけだった。

 当時の王族の命令は反乱分子鎮圧。実際はウルクスタンへの同化を拒んだ少数民族の粛正だった。馬鹿馬鹿しい命令を拒んだ俺たちはウルクスタンの家を捨て、現在に至る。


 しかし残念なことに、こちらでも四代前のエルバニア皇帝の勅命が下った。余程権力者たちは俺を兵器として使いたいらしい。

 幸いそのときの皇帝は、他国からの不当な侵略を受けた場合のみ勅命を下すという確約をしてくれた。俺もエルバニアに住んでいる身として、他国の侵略を受けたら迎撃するのは吝かではない。


 だが、勅命に関する決め事はその皇帝の死と共に少しずつ風化し、最近ではこちらから隣国を攻める侵略戦争としか思えない戦にも駆り出されるようになってきた。アルカヴァリオの訪問を素直に歓迎できないのはそういう理由からだ。


「ここは田舎だが、ウルクスタンとの小競り合いが酷くなってきているという話は聞き及んでいる。だが噂では、皇帝がウルクスタンの鉄資源を目当てに山岳地帯の領有権を奪おうとしてるって話だ。どうして皇家の奴らは自国の富だけで満足しようとしない?」

「エルバニアは今やアルカス大陸随一の富国です。民の数は日に日に増えている。増え続ける民を養うためには、より大きな富を得る必要があるのです」

「そんな持って回ったような理屈は聞き飽きた」

「申し訳ございません。無骨者故、ヤスヴァル殿に納得していただける話ができませぬ」

「よくそれでお前を交渉に寄越したもんだな」


 俺は深いため息をついた。領土拡大のことしか頭にないようなクズの言うことを聞くのも馬鹿馬鹿しかったが、エルと二人、新しい住処を探して旅をするのも面倒だ。

 それにおそらく、俺を戦に参加させることができなければアルカヴァリオに迷惑がかかる。あえて交渉に不向きなこの堅物を送り込んでくるのは、そういう主旨の脅しなのだ。


「……お前、軍団長を辞める気はないのか」

「部下を率いる責任を簡単に投げ出すわけにはいきませぬ。守るべき家族もおります故」

「成程な」


 俺は身を乗り出して、アルカヴァリオの手から勅命書を受け取った。

 はじめからこうなることはわかっていたが、やはり断ることはできなさそうだ。


「出発はいつだ?」

「明日にも。できれば早朝に」

「わかった。準備は整えておく。明日の朝、もう一度ここに来い」

「かしこまりました。ありがとうございます」

「構わない。ほら、早く食べよう。せっかくの料理が冷める」


 俺たちはようやく昼食に手を付けた。少し冷めてしまっていたが、エルの作る料理はやはり美味い。アルカヴァリオも食指が止まらない様子だった。

 だが、重苦しい空気は拭えない。食事の間、終始浮かない顔をしているエルが空気を重くしている原因だった。


     ◆


「考え直せないの?」


 部屋で戦支度を始めた俺に、エルは真剣な面持ちで言った。

 俺は少し驚いて、作業の手を止めた。


「報酬の額は見ただろう。百年は何の仕事もしないで暮らせる額だ。悪い話じゃない」

「報酬なんてどうでもいい癖に」

「まあな。だが、お前もわかってる通り、アルカヴァリオが家族を人質に取られてるのは明らかだ。俺たちのために、子孫であるあいつの人生を狂わせるわけにはいかないだろう?」

「人を殺すことになってもいいの? 魔物を相手にするのとは違うのよ?」

「極力殺さないようにやってみる。拠点を制圧するだけでいいなら、やりようはある」

「あなたは死なないといっても、捕まったら戻ってこられないのよ?」

「……お前は俺にどうしてほしいんだ? この依頼を断れっていうのか」

「もっと自分のことを心配しろって言ってるの!」


 青い瞳が揺れている。こんなに不安そうなエルを見るのは久しぶりだった。

 それこそ、だいぶ前に戦場に出たとき以来か。

 そのとき、俺は弓弦の張りを確認しながら、湧き上がってきたある感情を抑えきれず、フフッと笑ってしまった。


「何笑ってんのよ」

「いや、お前がこんなに心配してくれるとは思わなかったから」


 エルの顔が瞬く間に赤くなる。冷淡な俺の妻にも、まだ可愛いところがあるようだ。

 普段見られない一面を見せてくれたアルカヴァリオに、今回は感謝すべきかもしれない。


「あ、あなたのことを心配してるなんて言ってないでしょ。自分のことを心配しろって言っただけなのに、勘違いしないでよ」

「悪かった。まあ、取るとすれば大将首だけだ。手を汚すといっても最小限に抑える、だから何も心配しなくていい」

「だから私は……」


 まだ素直になってくれないエルの手を、俺はスリでもするように掠め取った。

 抱き締めたり、「愛している」と言ったりするのは恥ずかしい。

 だから、これが今の俺にできる精一杯。


 俺はその場に跪き、エルの手の甲にそっとキスをした。

 エルの体が震えるのが手を通じて伝わってくる。

 そのまま少しの間、エルの体温を唇で感じる。

 そしてゆっくりと唇を離し、妻の顔を見上げた。

 顔がさっきよりも赤く、赤い範囲も広がっている。今は尖った耳の先まで真っ赤だ。


「俺は騎士じゃないが……儀礼の真似事くらいは許されるだろう。今のキスに懸けて、俺はまたここに戻ってくる。だから、待っていてくれ」


 エルは顔を真っ赤にしたまま、口を必死に動かしている。

 だが、結局一言も発しないまま部屋を出て行ったしまった。

 心配されていることがわかっただけでも、覚悟を決める材料としては充分だ。思い残すことはなく、安心して戦場に赴ける。


 戦支度を整えて眠りに就いた翌朝、俺は家の中に差し込む赤い木漏れ日で目を覚ました。

 エルフの世界で赤い朝焼けは凶兆。悪いことの起こる前触れだとされている。

 それでも迷いなく剣を腰に差し、エルフの外套を纏った俺は、玄関でエルの見送りを受けた。エルに見送られて出かけるのは何年ぶりだろう。


「これを」


 エルは大きな深緑の葉に包んだラバスを俺の胸に押しつけた。

 ラバスはエルフの焼き菓子で、保存が利き、腹持ちがいいため行糧としても重宝されている。


「ありがとう。行ってくる」

「気をつけて」


 交わす言葉はそれだけ。キスも抱擁もない。

 だが、そんなものは必要ない。

 いくら気持ちが離れているといっても、一番深いところで俺たちは繋がっている。そう思えるからだ。


 俺が家を出る時間を予測していたように、馬蹄の音が遠くから聞こえてきた。木々の間に見えるアルカヴァリオの後ろには、武装した騎士四名が控えている。それに交じって誰も乗っていない馬が一頭いた。俺が乗る馬をわざわざ用意してくれたようだ。


「では、参りましょう」


 俺に似て口数の少ないアルカヴァリオはそれだけ言い、俺に馬をあてがった。俺は素早く馬の背に跨り、鞍の安定を確認してから手綱を振るった。


 なかなか鍛えられていると見える馬は見る見る加速して、俺の家をあっという間に後ろへ追いやっていく。

 俺は体をひねり、玄関に立ち尽くすエルの姿を見た。離れ行く彼女の静かな表情から、感情を読み取ることは難しい。


 しかし、俺が帰ってくれば彼女はきっと「おかえり。遅かったわね」なんて、ふてぶてしく言いながら俺を迎えてくれるに違いない。

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