第5話 永遠の愛と冷めた現実
目蓋の向こうに仄かな光を感じて、俺は目を開けた。眠気で濁っていた思考が、霧が晴れるように鮮明になっていく。寝覚めのいい朝だ。
寝台には俺一人。エルは隣の部屋で寝ている。
俺たちが床を共にしなくなって三百年ほど経つ。今では寝返りを打つときに隣を気にしなくていいから、一人で寝る方が気楽だと思うようになってしまった。千年も夫婦生活を続けて今更事に及ぶのもどうかと思うため、俺から積極的に求めることは今はない。
寝間着から普段着に着替えて居間に行くと、エルが朝食を食卓に並べているところだった。
「おはよ」
「ああ、おはよう」
必要最低限の挨拶を終えて椅子に座り、食卓を見た。バターの塗られた艶やかな白パン二つと鶏肉と豆のスープ、レタスやトマトなどを盛った野菜サラダが並んでいる。
新婚の頃、王女だったエルは料理などろくにできず、食材を名状ならざる物質に変えてしまうような腕前だったが、千年間の研鑽で宮廷の一流料理人にも負けない技術を身に付けた。どんな下手でも長く訓練に励めば一流になれるのだから、時間の力というのは恐ろしいものである。
最後に切ったリンゴを食卓に乗せて、エルも席に就いた。
二人揃ったところで、料理に手を付け始める。今日の朝食もやはり美味い。
「今日は切れた薬草を取りに森の南へ行ってくるわ。お昼は過ぎると思うから、適当に食べてて」
「わかった」
隠居生活をしている俺たちだが、まったく何もせず一日中だらだら過ごしているわけではない。俺はノッカ村で力仕事や鍛冶などを手伝い、エルは薬草の知識を活かして人々の怪我や病気を治している。
この歳になると物欲など存在しないが、生活に必要なものを調達するのに金は必要だ。いくら俺たちが年老いず、俺に至っては斬られようが毒を盛られようが死なないとはいっても腹は減る。食べ物を買う資金は欠かせないのだ。
何より労働はいい退屈凌ぎになるため、俺もエルも率先して仕事を請け負うようにしていた。
「今夜は家にいるの?」
「そのつもりだ」
「用事はなくてもお酒飲みに行ってるじゃない」
「今日は行かない。これでも反省してるからな」
「あらそう。……じゃあ、今夜は二人で食べましょ」
「? ああ」
エルの頬が少し赤くなっているのが気にかかったが、俺は何も尋ねず黙々と朝食を口に運んだ。
食事を終えて食器を片付けると、エルはすぐ外出の準備にかかった。エルの故国ヴァラノリア製の濃緑のローブを身に纏い、背中まで伸びる金髪をシニヨンにして後ろでまとめる。腕に提げている草を編んだ籠は彼女の手作りだ。
「行ってくるわ」
「ああ」
一応玄関まで見送りに出たが、エルは一度も俺を振り返らなかった。
気にはしてないが。
戸が閉じると、家の中を沈黙が占める。俺にはエルにとっての編み物のような暇潰しがないため、家にいるとやることがまるでない。一瞬村に行こうとも考えたが、先程の自分の発言を思い返して自重した。
食卓の椅子に腰かけてどうしようか考えていると、玄関の戸をノックする音が聞こえた。
朝から来客とは珍しい。
「待ってくれ。今開ける」
戸をゆっくり開け、視線を少し下げる。
すると、ヤスヴァルの胸の辺りまでしか身長のない女と目が合った。女は腕に大きな籠を提げている。
先日、ユキオオカミの斥候に遭遇したとき顔を合わせた女だ。確かアーシャと言ったか。
「お、おはようございます。ヤスヴァル様」
アーシャは少し緊張した面持ちで言った。
「様はいいと言っただろう。何の用だ?」
「これ、村の皆から預かってきました。魔物を退治してくれたお礼だと」
そう言ってアーシャは籠を差し出す。
中には肉やパン、果物などが詰めこまれ、今にあふれそうになっていた。
「報奨はいらないと、ワムダに伝えておいたはずだが」
「報奨じゃなくて、私たちの感謝の気持ちです。守られてばかりでは居たたまれないと皆言っていました。私も同じ気持ちです。このたびは村を、私たちを助けていただいて、本当にありがとうございました」
アーシャの深くゆっくりとした礼には、深い感謝の念が感じられた。
ここまでされたら、逆に受け取らない方が失礼というものだろう。
「わかった。受け取っておく。用はそれだけか?」
「それと、その……先日お願いしていたことなんですが」
「ん? 何か頼まれてたか?」
「ヤスヴァル様、いえ、ヤスヴァルさんのお話を聞かせてほしいんです。エルノーラ様のこととか、それ以外のことも」
「ああ、その話か……」
俺は少し悩んだ。正直に言うと俺個人のことで彼女が興味を持ちそうな話はない。他人が聞いたら引いてしまうか、心が滅入るような話ばかりだ。恥の多い自分の生涯をペラペラと話す気にはなれなかった。
「悪いが、君が面白いと思えそうな話はできない。前も言った通り、俺は偉大と言われるような男じゃない。君が聞き及んでいる伝説には脚色も入ってる。真相がわかったら幻滅してしまうようなこともある」
「それでも構いません。ヤスヴァルさんが経験してきた本当のことを知りたいんです」
彼女の強情さに、俺は少々面食らった。どうやらワムダと違って、頭を下げるばかりの女ではないようだ。今の彼女はおどおどした弱々しい女ではなく、未知への憧れに目を輝かせる好奇心の強い子どものようだった。
しばらく視線を交錯させたまま突っ立っていたが──
「わかった。大したもてなしはできないが、上がってくれ」
と、根負けする形で俺は彼女を家に招き入れた。アーシャは俺の勧めた食卓の椅子に座ると、そわそわした様子で家の中を見回した。
そんな彼女をしばし待たせて湯を沸かし、お茶を淹れた。自分で淹れることはほぼないため、どれくらい抽出すればちょうどいい濃さになるかはよくわからない。
「茶菓子がなくて悪いが」
「いえ。ありがとうございます」
アーシャは礼を言うと、ソーサーを左手に持ち、右手でカップを手に取った。
亡くなったという親の教育が行き届いていたようで、作法がとても丁寧だ。
「……とても美味しいです」
「少し間があったな」
「あっ! いえ、その、でも本当に美味しくて!」
「気にしないでいい。あまり上手く淹れられていないのは自覚している。いつも茶は妻が淹れてくれるんでな」
「そういえば奥様は?」
「少し出かけてる。昼過ぎには戻ってくると思うが」
「そう、なんですか」
アーシャは食卓にソーサーとカップを置くと、少し視線を彷徨わせた。
俺の話を期待して、そわそわしているのだろうか。
「さて。どんな話を聞きたいんだ?」
「エルノーラ様のことをお聞きしたいです。お二人の……ええと、馴れ初めとか」
どこかで聞かれるとは思っていたが、最初に来たか。
そのことについては過去の膨大な記憶を整理するまでもない。
彼女と出会ったときのことは、いつでも昨日のことのように思い出せる。
「どこから話したものかな……じゃあ、あいつと出会う少し前のことから話すか」
そう言って、俺は語り始めた。
今では伝説になってしまった自分の身の上話を。
「俺は当時、魔物狩りを生業にしていた流しの狩人だった。魔物狩りの仕事はいろいろ村や町を回って、人間に危害を加える魔物や開拓の障害となる魔物を狩ることだ。仲間がいたときもあったし、ギルドに属してたこともあったが、誰とも長続きはしなかったな」
「どうしてですか?」
「周囲の人間には、俺はかなり恐ろしい男に見えていたらしい。魔物の噂を聞きつければ地の果てまで行って確実に殺す。魔物狩りをやっている連中の大半は金儲けのために魔物を狩っているが、俺のように報酬を度外視して、魔物を狩れるならどこへでも行くという奴は扱いづらかったんだろうな」
「なんで、そんなに魔物を狩ることにこだわっていたんですか?」
その問いにどう答えたものか、少し悩んでから俺は言った。
「子どもの頃、魔物の群れに親を殺され、住んでいた村を滅ぼされた」
アーシャが体を強張らせるのがわかった。彼女は申し訳なさそうに食卓に視線を落とし、何か言おうと口を開きながら言葉を探している。
「ご、ごめんなさい。私──」
「構わない。人間、歳を食うと昔のことで思い悩む機会は減る。それが千年前のことなら尚更だ。今では記憶も曖昧で、自分の身に起きたことなのかどうかすらよくわからなくなってる。
とにかくそういう理由で、俺は一人で魔物狩りをやっていた。それで、あるとき森のエルフの王国ヴァラノリアで魔物の群れが各地に巣を作ったという噂を耳にして、討伐隊に加わったんだ」
「そこでエルノーラ様に会われたんですね?」
「ああ。エルフ王の金銀財宝が報酬だと聞いて、各国から魔物狩りが大勢押しかけた。中には小国の軍隊みたいな規模のギルドもいたな。その中で俺は数少ない単独の狩人だったから、周りから仲間外れにされてるように妻には見えたんだと思う」
「お優しい方だったんですね」
アーシャの言葉に、俺は思わず苦笑いする。
「よく言えばそうだったんだろう。悪く言えば世間知らずだったんだ。ゴロツキのような狩人たちの間に平然と入って労いの言葉をかけるなんて、世間知らずでなければできない。好奇心の強い彼女にとって、余所の人間は珍しかったんだろう」
「そ、それで、どのように親しくなったんですか?」
「……その話をするのは恥ずかしいんだがな」
エルフの森にあった美しい泉のほとり。
魔術によって洗われた清澄な空気の中を、燐光を放つ虫が舞っている。
光る虫を夜闇に浮かぶ星とするなら、そこに現れたエルはさながら眩い光を放つ月のようだった。
「こんなことを言うと思い上がりに聞こえるかもしれないが、先にエルが──いや、妻が俺を好きになってくれた。あいつは、俺のことを放っておけなかったと言っていた。当時は魔物を殺すことしか考えていなかった俺だ。自分では気づかない危うさみたいなものが、あいつには見えてたんだと思う。
誰かに気をつかってもらった経験が少なかったから、俺も少しずつあいつを意識するようになってな。顔だけじゃない。王室育ちで我儘で、子どもっぽいところもあるが、あいつは心も美しかった。だから、彼女の告白を受け入れるのに抵抗はなかったよ」
ぼーっと夢でも見るように俺を見つめるアーシャに気づいて、俺は我に返った。
知り合ったばかりの女に妻の惚気話をするなんて恥ずかしい。
「そ、そこからはほぼ伝説と同じだ。結婚を誓って、父親であるシルヴァ王に許しを得ようとした。知っての通り大反対されたがな」
出会ったときは物静かだった王が、結婚の話を切り出すと声を荒げて俺を追い出そうとしたことは今も記憶に新しい。シルヴァの怒りは常軌を逸していて、その場で呪い殺されるのではという恐怖を覚えるほどの剣幕だった。
「その後、俺は王が与えた試練に耐え、不老不死を得て彼女を娶った。それからもうかれこれ千年。我ながら、長く生きたものだと思う」
──今では会話も覚束ない熟年夫婦に成り下がったが。
という言葉を、俺は茶と一緒に飲み込んだ。
「どうして、シルヴァ王はお二人の結婚に反対されたんでしょう?」
「人間との結婚など上手くいかないと王は思ったんだろう。エルフと人間では、ほぼ確実に人間が先に死んでエルフは残される。ただ、それ以前に人間というのは気持ちがコロコロ変わる生き物だと、王は人間を軽蔑していた」
「でも、ヤスヴァルさんは今もエルノーラ様の傍にいらっしゃるじゃないですか。ヤスヴァルさんは……とても素敵な方です。千年も同じ方を愛し続けられるんですから」
アーシャの言葉にだんだんと力が籠もっていく。
興奮しているのか顔も紅潮して、俺の目をまっすぐ見るようになった。
何というか、そこまで言われると少し面映ゆい。
「確かに人間の心は変わります。シルヴァ王が人間のことを信じられないのもわかります。けど、ヤスヴァルさんとエルノーラ様の関係が、永遠の愛がこの世に間違いなくあるってことを証明してると思うんです」
どうやらアーシャの中で、俺とエルは今も仲睦まじい夫婦ということになってるようだ。実際は丸一日口を利かない日もある倦怠期の夫婦だ……などと言えるはずもなく。
「永遠の愛か……」
好きか嫌いかと言われれば、今もあいつのことは好きだと言える。
それくらいの絆は今もあると信じてる。
けど、心の有り様は昔と間違いなく変わった。それは行動にも影響し、今では抱き合うことはおろか、手を繋ぐのさえ憚(はばか)られる。「愛してる」と囁くなど以ての外だ。昨日は彼女が求めてきたから流れで抱いたものの、内心、顔から火が出そうになるほど恥ずかしかった。
かつては、今後死ねなくなったとしても彼女と永遠に愛していきたいと心から思った。その気持ちに偽りはなかった。最もエルを愛していたときは、視界から彼女の姿が外れることすら恐れたくらいだ。
それから千年が経ち、決定的に仲が悪くなるような出来事があったわけでもないのに、会話するのが億劫になり、彼女のために何かしようと頭を巡らせるのが面倒になっていった。伝説が語るロマンスに胸をときめかせている乙女たちが聞いたら、卒倒するような本当の話である。
何を以て永遠の愛と呼ぶかは人それぞれだろうが、もし日がな一日抱き合ったり、愛の言葉を囁き合ったりすることを愛と呼ぶなら、永遠に続くことはないと断言できる。
だが、アーシャが信じる『永遠の愛』を、冷めた真実で打ち壊すのは罪だ。
たとえ彼女が脚色のない真実を知りたがっていたとしても。
「永遠の愛……なんて大袈裟なもんじゃないが、我ながらよく続いてるとは思う」
はは、と苦笑して歯切れの悪さをごまかす。
その後も俺はアーシャに求められるまま、いろいろな話をした。
エルフの国のこと、旅先で出会った様々な種族のこと。
今まで倒してきた魔物のこと。
記憶はだいぶ風化して、曖昧になっているところも多かったが、アーシャは楽しんでくれたようだった。俺もだんだん気分が乗ってきて、時間を忘れて話し続け、朧気な日々の思い出にしばし酔う。
時刻が昼時を回っていることも忘れて──。
家に近づいてくる気配を察して我に返る。
突然口を閉ざした俺にアーシャは怪訝な目を向けたが、俺はそれを無視して玄関の方へ振り向いた。
何故悪いことしたような気分になっているんだ俺は。
近所の知り合いを招いて昔話を聞かせていただけだ。
何も後ろ指を指されるようなことはしていない。
と、心の中で言い訳を練る間に気配はさらに近づき、玄関の戸が開いた。
現れたのは案の定、腕から提げた籠を薬草で一杯にしたエルだった。
「お、おかえり」
「…………誰? その娘(こ)」
エルの目がスッと細くなり、碧眼に氷のような光が宿る。
「ワムダのところに養子に入った娘で、数日前にノッカ村に移り住んで来たんだ。俺の話を聞きたいというから、少し話をしていた」
「ア、アーシャといいます。エルノーラ様。お会いできて光栄です」
アーシャは慌てて椅子から立ち上がると、スカートを摘まんで一礼した。
「ヤスヴァルさんに魔物を退治していただいたおかげで、村は助かりました。そのお礼に伺ったついでに私が我儘を言って、お話を聞かせていただいていたんです」
同じ女の勘か、アーシャもエルが機嫌を損ねたことを察したらしい。
アーシャの顔は緊張と恐怖で引きつっている。
「そうだったの。この人、話が下手だからあまり面白くなかったでしょ?」
「い、いえ。そんなことは。とても楽しいお話を聞かせていただきました」
「ならよかった。それと、様は付けなくていいわよ。私のことも近所のお友達と思って、仲良くしてちょうだい」
「あ、ありがとうございます!」
エルの見せた笑顔と柔和な言葉に緊張が解れたようで、アーシャの顔にも笑みが戻った。
だが、笑顔の裏にある感情が何なのか、アーシャはしっかりと察しているようだった。
それから俺とエルは、アーシャが帰るのを玄関まで見送った。アーシャは凸凹した森の道を足取りも軽やかに駆けていく。俺の視界から消えるまで、何度も何度も俺たちを振り返る姿は微笑ましかった。
心が温まったのも束の間、俺にのしかかってきたのは重い沈黙。
エルは何も言わない。アーシャの持ってきてくれた食糧を黙ったまま台所に持って行く。
あちらが口を閉ざすなら、俺も下手な言い訳をすべきではないだろう。沈黙は金である。
エルが怒ったときの対応は二種類。昨日のように激昂して喚き散らすか、一切口を利かなくなるかのどちらかだ。口を利かなくなると、数週間はその状態が続く。
家にいる限り、息が詰まるような沈黙が襲いかかってくる生温い地獄のような日々の始まりだった。
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