第4話  エルノーラの憂鬱

「よし……こんなもんかな」


 完成した品を見て、私は頷いた。

 まじないをかけた薬草とハーブを浸して作ったオリーブ油。大人から子どもまで飲みやすく、何より体にいい自慢の一品だ。

 小瓶の蓋に栓をしてから私は仕事部屋を出て、居間で待たせているノッカ村のリーリエに小瓶を見せた。


「お待たせ。できたわよ」

「ありがとう。お代は?」

「前に野菜たくさんお裾分けしてもらったし、今日はタダにしとくわ」

「本当? ありがとう、助かるわ」

「いいのいいの」

「エルの薬草入りオリーブはうちのお祖母ちゃんの好物でね。切らすと、『アタシはあれ無しじゃパンは食えん』なんて言うのよ」

「気に入ってもらえて嬉しいわ。お茶、もう一杯飲む?」

「あら、じゃあいただいていいかしら?」

「もちろん。うちは飲むのが二人しかいないから、一度買うとなかなか減らないのよ」


 ガラス製のポットから、カップにそっとお茶を注ぐ。

 こうして薬草などを求めに来るお客とお茶と菓子を楽しむひと時は、私の数少ない楽しみのひとつだ。


「そういえばヤスヴァルさん、この間大活躍だったみたいじゃない。私は見てないけど、男衆の見立てじゃ三百頭くらいの魔物を一人でやっつけたって話よ?」

「まあ、あの人ならそれくらい普通かな」

「すごいわねえ。本当にヤスヴァルさんとエルには助けてもらいっぱなしだわ。感謝してもし切れないくらい」

「大袈裟よ。私たちはできることをしてるだけだもの。それにノッカ村の皆から私たちもいろいろもらってるし、持ちつ持たれつよ」

「そう言ってもらえると嬉しいわ……ところで、ヤスヴァルさんとは上手く行ってるの?」


 茶菓子のクッキーに伸ばしかけた手が止まった。世間話をする機会が多いリーリエには、ヤスヴァルとのことをいろいろ話して聞かせているのだ。

 ここ数日を振り返ってみて、思う。


「上手く行ってるとは……言えないわね。今朝もほとんど会話しなかったし」


 ヤスヴァルはいつものように朝食を食べると、ノッカ村に出かけてしまった。ユキオオカミを退治した夜、少し離れていた距離が縮まったように思ったけど、それだけのことで関係を戻せるほど、私と彼の間にある溝は浅くないみたいだ。


「うーん……話を聞く限り、エルから積極的に話しかけてあげた方がいいと思うの。ヤスヴァルさんってあまり自分から話さないでしょ?」

「それはまあ、確かに。けど、あの人そういうのどう思うんだろ……」

「千年も夫婦やるって感覚は私にはわからないけど、お互いのことよくわかってるからって会話しないのはよくないわよ。疎遠になってるって思うんだったら話さなきゃ。夜はどうなの?」


 私が俯いたまま首を振ると、リーリエは呆れたようにため息をついた。


「うちなんて今でも毎晩するよ? 何百年もしないで夫婦やっていられることが不思議だわ」

「だ、だって今更誘っていやらしい女とか思われたら嫌だし……」

「男から来てほしいって気持ちはわかるけどさあ、旦那にその気がないならこっちから行くしかないでしょ。そういう見栄とか遠慮があるから倦怠期に突入してるのよ。どこかで手を打たないと、ずっとこのままズルズル行くよ?」

「それは嫌!」

「だったら行動してみること。まったく、エルフっていったら森の賢者なのに、何で人間の私に夫婦関係の相談なんてしてくるかねえ」

「ごめん……」

「謝ることないけどさ。ま、何だかんだ二人は良い夫婦だと思うよ。ヤスヴァルさんはちょっと不器用な感じするけど優しそうだし、浮気する人には見えないし。いろいろ話してみたら、ちゃんと受け止めてくれるんじゃないかな。まずは今夜、それとなく誘ってみな?」

「う、うん。やってみる」


 その後も少し雑談をしてから、リーリエはオリーブ油を持って帰って行った。

 急に静かになった部屋で食卓に残った茶菓子をかじり、物思いに耽る。


「はぁ…………」


 一体いつからこうなってしまったんだろう。


 結婚して数百年の間は世界のすべてが輝いて見えた。エルフの王国ヴァラノリアという狭い世界でしか生きて来なかった私に、世界の広さと美しさを教えてくれたヤスヴァルには今も感謝している。そんな彼と愛し合った時間に、後悔は微塵もない。


 けどいつからか、ヤスヴァルの寡黙な態度が私を遠ざけているように思えるようになった。彼がお喋りを好む人間じゃないなんてことは、とうの昔にわかっていたはずなのに。「ああ」「うん」という、短くて気のない返事が酷く冷たく聞こえてしまう。


 人間はエルフと違って、すぐに心変わりをする生き物だ。ヴァラノリアを出て多くの人間と言葉を交わす中で、人間は同じ気持ちを保ち続けるのが苦手なのだと知った。いくら不老不死になったといってもヤスヴァルは人間だし、普通の人と心の在り方は変わらない。


 エルフにとっては束の間でも、人間にとっては長い長い千年という時間。

 その間に、ヤスヴァルの心は私から離れていってしまったんじゃないか。

 そんな不安に囚われて、夜も眠れないときがある。


 私から「愛してる」と言ったり、抱き締めたりすれば変わるのかもしれないけど、「こういうのは男から来るのを待つべき」なんて見栄を張って、素っ気ない態度を取ってしまう。


「駄目だよね……このままじゃ」


 とりあえず今夜、誘ってみよう。


 まずはそれとなく体に触って雰囲気づくりして、キスしてから「したい……」と囁けば行けるはず。

 最後にしたのは三百年くらい前だし、やり方はだいぶ忘れてるけど、流れで何とかなる、はず。

 昔は一日に三回とか四回とかしてたんだもの。ベッドにいけばやり方を思い出す……はず。


 まだ昼間なのに、今夜するかと思うと気持ちが急く。

 逸る気持ちを抑えるため、近くの泉へ沐浴に行き、体を清めてから香水をかける。香水に媚薬を混ぜることも考えたけど、それはさすがにやり過ぎだと思ってやめておいた。


 服は生地が薄く、目を凝らすと肌が見えるものに着替える。これならヤスヴァルも少しはその気になってくれるかもしれない。

 夕食も今のうち作っておく。ちなみに精がつくように肉を増やしてみた。


 日が沈み、いつもより少し豪華な食卓を前にして、そわそわしながらヤスヴァルの帰りを待つ。


 帰ってきたらまずどうしよう。

 いつも通り「おかえりなさい」と言ってから、抱き締めてみようか。

 いや、でも恥ずかしいし……。

 いやいや、そういう余計な見栄を捨てようって決心したばかりなのに、何言ってるの私は。


『ただいま』

『おかえりなさーい』ぎゅっ

『おいおい、いきなり何だ』

『今日はこうしたい気分だったの』

『変な奴だな。ははは』


 こういう流れで行けば大丈夫。たぶん。

 期待と不安を胸に、部屋の中をうろうろ歩き回ったり、椅子に座ってもじもじしたりして、ヤスヴァルの帰りを待つ。そして──


 その日、ヤスヴァルは家に帰ってこなかった。


     ◆


「……………………」


 外から小鳥のさえずりが聞こえる。

 枝葉を抜けて、曙光が窓から優しく注ぐ。

 いつもと変わらない麗らかな朝だ。


 でも、私の気分は最悪だ。食卓に突っ伏して寝たせいで体が痛い。

 香水の香りはとっくに消え、作った料理はすべて冷めてしまっている。

 料理と同じく、私の気持ちも冷めていた。


 小鳥が朝を告げる歌を囀り始めてからしばらくして、ヤスヴァルが帰ってきた。

 玄関の戸を開けるなり、何食わぬ顔で「ただいま」と言ってから、食卓に座る私を見て彼はギョッとした。


「お前、何て顔して──」


 言いかけたヤスヴァルは食卓を一目見て、すべて了解したように「あ……」と間抜けな声を上げた。


「……すまん。ダグと飲んでたらそのまま話し込んで、帰る機会を逃してな。帰ってくるつもりではいたんだが。朝食はまだ作ってないな? じゃあ、それをいただくよ」

「別に無理して食べなくていいわよ。冷めてるし」

「いや、だが、せっかく作ってくれたわけだしな」

「食事作って待ってるかもしれないと思っても、お友達とお酒飲むのを優先させたんでしょ。家で私と食事するより外でお酒飲んでた方が気楽でいいもんね」


 あー、何言ってるの私。

 やめときなって。声震えてるわよ。


「そんなこと言ってないだろう」

「言ってなくても態度に出てるのよ」

「出してるつもりはない」

「そう? 前にもあったわよね。何も言わずに酒場で過ごして帰ってこなかったときが。そのときも『悪い』とか『すまない』とか言ってたじゃない。なのにまた繰り返すの? というか、本当に酒場で飲んでただけ? 誰かの家に厄介になってたんじゃないの? 女の人の家とかさぁ!」


 私の中にある不満が別の人格を持って、私の口を借りて喋ってるみたいだ。

 こんなこと言ったらヤスヴァルでも怒るに決まってる。

 わかってるのに決心が空回りしたことに苛立って、全部イライラが言葉になって出てしまった。


 さすがに言い過ぎた……。

 慌てて謝ろうとする私の唇は馬鹿みたいに震えている。素直になれない自分への憤りと、目の前で表情を失ったヤスヴァルへの申し訳なさで混乱した私の頭は、「ごめんなさい」という一言すら簡単に紡ぎ出せない。


 私がまごついている間に、ヤスヴァルはくるりと踵を返した。


「ヤ、ヤスヴァル。ごめ──」


 ようやく口から出た謝罪を言い終える前に、玄関の戸がバタンッと大きな音を立てて私と彼を隔てた。


 訪れた沈黙が私の馬鹿さ加減を責めるみたいにのしかかってくる。

 堪え切れなくなった私は自室に駆け込み、枕に顔を押し付けて叫んだ。


「何であんなこと言っちゃうのよ私は! ヤスヴァルは謝ってたじゃない! もおおおおおおおおおおっ!!」


 何千年も生きてるのに。あの人の妻になってから千年以上経つのに、私は未だに王城で暮らしてた頃の幼い女のままだ。初めてヤスヴァルに出会ってから何度も彼を訪ねて、彼の気持ちが自分に傾いてくれることを仄かに期待していた頃と何も変わってない。


「はぁ────…………」


 ため息を枕に吸わせ、ベッドに体を預けているうちに、昨夜の眠りが浅かった影響か、睡魔がじわじわ迫ってくるのを感じた。


 もういいや……疲れたし、眠いし。

 私はそのまま睡魔に身を任せて、夢の中へと溶けていった。


     ◆


 ふと目が覚めると、私は布団を被ってベッドに横になっていた。確か枕に顔を埋めたまま、布団もかけずに眠ってしまったはず。

 けど今は、ちゃんと仰向けになっている。体が冷えを感じて、寝ぼけ眼のまま布団の中に潜り込んだんだろうか。


 窓の外の日差しを見てだいたいの時刻を確認すると、昼を少し回った頃だった。思ったより長い時間眠ってしまっていたらしい。おかげで睡魔も体の痛みも消え、気分はすっきりしていた。もちろん、ヤスヴァルのことはまだ頭をもたげていたけど。


 冷静さを取り戻した頭で謝罪の言葉を考えながら居間に向かう。

 食卓を見た私は、昨夜作った夕食が皿ごとなくなっているのに気づいた。

 代わりに、昨日はなかった花瓶に一輪の綺麗な花が挿してある。


 エルノーラの花──月の光を思わせる銀色の花弁と、太陽のような黄色のおしべとめしべから、〈太陽月〉とも呼ばれる花で、私の名前の由来だ。エルフの里ではよく見られる花だけど、人里にはあまり自生していない。


 たった一輪でもエルノーラの花の甘い香りは強く、部屋中に広がっている。

 これを摘んできてくれたのはヤスヴァルに違いない。


 彼はどこだろうと思ったそのとき、台所から物音が聞こえてきた。

 顔を出すと、そこには少ししょんぼりした様子で食器を洗っているヤスヴァルの背中が見えた。


「起きたか」


 人の気配に敏感なヤスヴァルはすぐに私の存在に気づいて振り向いた。


「何、してるの?」

「見ての通り、皿を洗ってる」

「夕食は?」

「さっき全部食べた。冷めてたが、食べれなくはなかったぞ」

「あの花は?」

「花? ああ……さっきまで森をぶらついてたんだが、途中で咲いてるのを見つけてな。摘んできた」


 あの花を摘んできたことに、本当はどういう意図があるのか、ヤスヴァルは言わなかった。口下手な彼らしい。

 食器を洗う手を止めたヤスヴァルは、私と正面から向き合った。


「今朝は……すまなかった」

「あー……うん。私もごめん。ひどいこと言っちゃって。本当に子どもだよね、私」

「いや、あれは俺の落ち度だ」

「ううん、私が大人げなかったの。一人で空回りして怒るなんて」

「? 何かやりたいことでもあったのか?」

「べっ、別に何でもないから! たまにはゆっくり二人で食事するのも悪くないかなーと思っただけで!」

「食事ならいつも二人でしてるだろう」

「そうじゃなくて……もう!」


 恥ずかしさで自棄になった私は、両腕をバッと広げた。

 間抜けな格好の私を見て、ヤスヴァルはきょとんとしている。

 ますます恥ずかしい。


「何だ?」

「ぎゅってしてくれたら許してあげる」

「お互いに謝ったんだから、この話はもう終わりじゃないのか?」

「駄目。ぎゅってしてくれるまで許さない」

「……何かよくわからんが、わかった」


 もうちょっとドキドキしてくれてもいいのに……。

 と内心思いつつ、私はヤスヴァルの太い腕に抱かれた。


 ヤスヴァルの体温が直に伝わってきて、私の体はすぐにポカポカと温かくなった。それに連れて心臓が跳ねる。まるで、初めて彼に恋をしたときみたいに。


 こうして抱き合うのも何年ぶりだろう。魔物狩りの一線から退いた彼だけど、その体は今もがっしりしていて、昔の戦いの傷をいくつも残してる。彼の時間は、私たちが永遠の愛を誓ったときから止まったままだ。


 でも、彼が持つ人間の心は時間と共に少しずつ変わっていく。私がどれだけ美しく着飾ったって、今の彼には少しおめかししただけの妻くらいの認識なんだろう。

 そんな関係を、昔に戻したい。


「……しよ」


 昂ぶった心から、想いが言葉になって零れる。

 言ってから心臓が爆発しそうなくらい高鳴って、息が苦しくなった。

 恐る恐るヤスヴァルの顔を見る。

 けど、小さ過ぎる囁きはヤスヴァルの耳には届かなかったらしい。


「何か言ったか?」

「えっ! いや、その、あの、ええと…………し、し」

「し?」

「し、しょうがないわね! これで許してあげる!」

「あ、ああ。ありがとう」


 この後、私は再び自室に駆け込んで枕に顔を埋め、うーうー呻きながら自分の思い切りのなさを悔いた。

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