不老不死の俺とエルフ姫の結婚生活が倦怠期に入りました

まちだまさや

第0話  伝説の恋物語

 天に広がる空が血の色に染まっている。

 漂う黒雲は稲妻を孕み、雷鳴は世界を震わせていた。

 この世ならぬ光景に動物たちは怯え、身を縮め、祈っている。

 彼らの戦いに、一刻も早く終わりが訪れるのを。


「行くぞ──」


 その男は広大な平原のただ中で小さく呟き、大剣を構えて駆け出した。

 眼前に待ち受けるのは、彼の数十倍はあろうという巨大な竜である。

 全身を覆う鱗は血が固まったような濃い紅色。

 湾曲した長い爪と鋭い牙を持ち、尾は体と同じくらい長い。


 それらだけでも人に恐怖を植え付けるには充分だったが、何よりも恐るべきは黄金色に光る双眸である。

 一度見据えられたが最後、人はおこりの如く震え出し、握っていた武器を捨てて、その場に膝を付く。この途方もなく巨大な怪物を斃す術などないと絶望し、炎に焼かれるか、牙で八つ裂きにされるのを待つ木偶と化すのだ。


 だが、男の足が恐れで重くなることはなかった。むしろ竜に迫るに連れて加速していく。

 この世界に数多存在する魔物の中でも最強と目される竜を前にしても、男は冷静だった。走りながら竜を観察し、圧倒的な力の差を埋めて絶命せしめる箇所を探る。


 鋼の如き竜の鱗は、数え切れないほどの魔物を屠ってきた大剣でも傷ひとつ付けられない。鱗は肌を埋め尽くしており、刃を差し入れる隙間は皆無である。


 狙うのは唯一、目のみ。

 全身を如何に硬い鱗で覆っても、目だけは隠せない。


 しかし竜の目は細長い首のさらに先。前脚を上げて城壁の如くそそり立つ竜の頭は、男の跳躍力を以てしても届かないほどの高みにある。


 如何にしてよじ登るか。竜の体の隅々を舐めるように観察し、道筋を探る。

 そのとき、竜の口の中に太陽のような光が宿るのが見えた。


「ヤスヴァル!」


 女の甲高い悲鳴が耳に届いた気がした。その声に背を押されるように、名を呼ばれた男──ヤスヴァルは加速する。

 ヤスヴァルの頭上でゴゥッという音が聞こえた瞬間、紅蓮の炎がヤスヴァルを飲み込もうと降りかかってきた。大地を焼き尽くし、鋼鉄をも解かす火炎だ。


 炎に対してヤスヴァルは左右に躱すことも、まして退くこともしなかった。全速力で竜の股下を潜り抜け、瞬く間に尾の方へ回って見せた。


 そこから一気に向きを転じ、尾から背びれに手を掛け、足を掛けて、竜の体を駆け上がる。その様はまるで巨大な獣の体を走って逃げ回る野ネズミのようであった。


 ヤスヴァルが頭を目指していることを察した竜は巨大な翼を大きく広げ、その場から飛び立った。

 途端にヤスヴァルの周囲で暴風が吹き荒れる。

 ヤスヴァルの体は巨人の手で摘まみ上げられたように、竜の背から離れた。

 既に竜は遥か上空。このまま落下すれば命はない。


 だが、それでもヤスヴァルは慌てなかった。

 大剣の柄を口に咥え、背中の弓と綱の付いた矢を素早く取り、竜の翼に向けて放つ。

 鏃が鉤状になった矢は翼の皮膜を貫き、ヤスヴァルを落下から救った。


 空中で振り回されながらも綱を手繰り、ヤスヴァルは竜の爪が綱を切るより先に翼に取り付いた。口から再び剣を手に取り、大きく振り上げる。


「おおおおあっ!」


 雄叫びと共に、翼の皮膜に振り下ろす。大剣は皮膜を大きく切り裂き、竜から飛翔する力を奪った。皮膜から迸る血にまみれ、落下による風圧に揉まれながらも、ヤスヴァルはひたすらに竜の目を目指す。


 首から角に飛びつき、一気に目に肉薄する。

 竜は最後の抵抗とばかりに四方に炎を吐き散らす。

 直接炎を浴びはしなかったが、猛烈な熱がヤスヴァルの肌を焼いた。


 しかし形勢を逆転させるには至らず、翼を割かれたことで態勢を崩し、落下していく竜の角からヤスヴァルは目に迫る。

 竜が態勢の制御ができていない今こそ、決着をつける最大の好機だ。


 竜は落下しながら空中で激しく回転する。ヤスヴァルは天地がどちらなのかわからなくなりながらも、鱗の凹凸に指をかけ、黄金の双眸へ少しずつ近づいていく。


 そしてついに、剣の切っ先が眼球に届くところまで来た。

 最後まで油断することなく、鱗をしっかりと掴んで態勢を保ちながら、大剣を振り上げる。

 そして──


 ズーンという長く轟く音。

 巨竜は墜ち、その姿は割れた大地から立ち上る土埃によって覆い尽くされた。


 落下の轟音の余韻が平原から消えると、程なく血のような赤を湛えていた空は澄んだ青に戻り、黒雲も消えた。竜の体からあふれる魔力の奔流によって悲鳴を上げていた世界が、平静を取り戻したのである。


「ヤスヴァル! ヤスヴァル!」


 名前を叫びながら、死闘の一部始終を遠くから見つめていた女が走ってきた。透き通るような淡い金の長髪に、如何なる天賦の才を持った彫刻家でも再現し得ない完璧な美貌を持つ長身の女である。


 美貌の女は舞い上がる土埃など気にも留めず、墜ちた竜の傍までやって来た。

 土埃が止み、竜の姿が徐々に露わになっていく。

 そして、女の碧眼は地に伏す竜とヤスヴァルの姿を捉えた。


 竜の眼窩を突き抜け、頭蓋まで貫くかと思われた大剣の切っ先は、目に刺さるか否かというところで止まっていた。土埃にまみれたヤスヴァルはスッと立ち上がると剣を鞘に収め、竜の頭から飛び降りた。


「ヤスヴァル、平気なの!?」

「火傷が少しひどいが、大したことはない。この勝負、俺の勝ちだ」


 笑顔を作るのが苦手なヤスヴァルは、口元を歪めるようにして笑った。

 そんなヤスヴァルを前に、女は「よかった」という言葉を安堵のため息交じりに繰り返す。

 体を震わせる女の肩にしばし手を置き、慰めてから、ヤスヴァルは竜を振り返った。


 否。そこにあらゆる生命を震撼させる威容を誇った竜の姿はない。

 大地の割れ目に立っていたのは、頭に茨の冠を戴いた一人の男だった。


 女の髪色を太陽とするなら、男の髪は月を思わせる銀髪。

 切れ長の鋭い目に、薄い灰色の瞳が光る。

 外見はヤスヴァルより一回り年上だが、背筋の伸びた立ち姿は一切老いを感じさせなかった。


「……殺す気でやれと言ったはずだ」


 竜だった男は唸るように言った。

 それに対して、ヤスヴァルは肩をすくめる。


「あなたの言った通り、殺す気で戦った。ただ、実際に殺さなかっただけだ」


 男は顔を顰めたが、怒りを抑えるようにそっと目を閉じて、深くため息をついた。


「人間の男に情けをかけられるとは、我も落ちたものよ」


 ヤスヴァルは女の傍を離れ、男の目の前で跪いた。


「改めてお頼み申し上げる。エルフ王シルヴァ・ド・ユスティリス。あなたの娘、エルノーラ・ド・ユスティリスを私の妻としてもらい受けたい」


 跪くヤスヴァルの傍らで、王女エルノーラも地面に膝をついた。


「お父様。今も私の気持ちは変わってないわ。私はヤスヴァル・リヴィエントの妻として、彼を永遠に愛していきたい。もしお父様がほんの少しでも私の幸福を想ってくれるなら、私たちの結婚を認めて。お願い……!」

「二人とも、顔を上げよ」


 エルノーラの言葉を遮るように、シルヴァの重々しい声が響く。


「力は落ちたとて、我も王の誇りは失っておらぬ。故に約束を違えることもせぬ。ヤスヴァルよ。お前は我の与えた試練を乗り越えた。その報奨として、娘をお前に譲り渡そう」


 ヤスヴァルはシルヴァの顔を見て、すぐに隣のエルノーラを見た。

 エルノーラは驚きと喜びでその美貌を歪め、目元に涙を浮かべている。


「ありがとうございます、王よ」

 と、ヤスヴァルは再び頭を垂れた。

「彼女は、俺が生涯を懸けて守り通します」


 ヤスヴァルの言葉に、シルヴァは不満そうに眉を顰めた。


「生涯……か。その生涯とやらは、ものの数十年で終わりを迎える。老いに抗えぬ人間が老いを知らぬエルフを守るとは、片腹痛いな」

「お父様、それは……」

「お前は黙っていろ、エルノーラ」


 シルヴァの言うことは的を射ていた。精霊の血脈を持つエルフは人間と似た外見ながら、老いや病に侵されることのない不老の肉体と魂を持っている。

 対して、一介の人間に過ぎないヤスヴァルは次第に老い、力も衰え、愛する人を守るための力を徐々に失っていく。本来なら人間にエルフを愛し、守り続ける資格などないのだ。


 それでも愛に殉じる心に変わりはない。ヤスヴァルはシルヴァから如何なる怒りと嘲りを受けても口を閉ざし、屈辱に耐えると決めていた。


「そこでだ、ヤスヴァル」


 人間を下等と見下すエルフ王から浴びせられるであろう嘲笑に備え、ヤスヴァルは俯き、硬く口を閉じた。


「お前には、永遠に娘を守るための力を授けようと思う。立つがよい」


 ヤスヴァルは戸惑いながら顔を上げた。

 シルヴァは何かヤスヴァルに差し出そうとするように手を開く。すると、シルヴァの手の上で宝石を細かく砕いたような輝く粒子が生じ、収束していく。

 集まった粒子はパッと眩い光を放つと、水晶でできた小瓶に変わった。中で、小鳥の涙ほどの透明な液体が揺れている。


「これはヴァラノリアの王家に伝わる秘伝の霊薬だ。これを飲めば、お前の肉体の時は完全に止まり、正真正銘の不老不死となる。我々エルフは剣で貫かれれば死ぬが、お前の肉体は如何なる武器を以てしても傷つけることができなくなるだろう。もし、永遠に娘を愛すると誓えるなら、我はこの霊薬をお前に授けようと思う」


 ヤスヴァルは驚きを持ってシルヴァが握る小瓶を見つめた。

 多くの人間がそれを求め、魔術の研究に勤しみながらも、未だに誰も手にできてない究極の理想。それを、目の前にあるほんのわずかな液体を飲み干すだけで得られるという。


 老いを知らないエルノーラを守り続けるためには、不老不死がどうしても必要だ。

 彼女を、エルノーラを永遠に愛し、守っていきたい。

 その気持ちは霊薬を目の当たりにしていよいよ強まった。


「ヤスヴァル・リヴィエント。お前は我が娘を妻とし、この世の理から外れても永遠に娘を守り続けると誓うか?」

「誓います」


 即答し、ヤスヴァルは小瓶をシルヴァから受け取った。

 傍らでは、エルノーラが心配そうにヤスヴァルを見つめている。彼女が何を案じているのかヤスヴァルにはわからなかったが、彼女を安心させるため、静かに微笑んで見せた。


「心配はいらない。これは俺自身が決めたことだ」


 そう言って小瓶の栓を抜き、躊躇わず呷る。

 氷水のような冷たい液体が喉を流れ、全身に行き渡る感覚があった。

 心臓がこれまでよりもゆっくりと動き、一回一回の鼓動がより大きくなったように感じられる。

 心臓の脈動が変わったことで、ヤスヴァルは自分がこの世の時間から外れた存在になったことを自覚した。


 小瓶が空になると、瓶は突然光を放ち、数羽の瑠璃色の蝶となってヤスヴァルの手元から空へ飛び立った。

 蝶が飛んでいく先を見送りながら、シルヴァがぽつりと呟く。


「お前の覚悟は見届けた。あとはただ、お前たち二人の幸福を祈ることとしよう」


 その言葉を最後に、シルヴァはその場から忽然と姿を消した。平原に残されたヤスヴァルとエルノーラはしばし呆然として立ち尽くし、美しい平原を行く風に吹かれていた。


「本当に……よかったの?」


 最初に口を開いたのはエルノーラだった。


「何がだ?」

「あなたはもう何があっても死ねないのよ。お父様の言った通り、この世の理を外れた存在になったの。それは、人の身ではとてもつらいことだわ」

「さっきも言った通り、これは俺が自分の意思で決めたことだ。お前が気に病む必要はない」

「……馬鹿」


 エルノーラはおずおずと手を伸ばし、ヤスヴァルの手に指を絡ませた。

 俯く彼女の顔はほんのりと桃色に染まっている。


「嬉しい……」


 ヤスヴァルは衝動的に彼女の体を引き寄せ、ひしと抱き締めた。


「これからは、ずっと一緒だ」

「……うん!」


 エルノーラの頬を流れる涙を指で拭ってから、ヤスヴァルは彼女に口付けをした。

 人間とエルフ――二つの種族を隔てていた壁はついに燃え盛る愛によって崩れ去ったのである。彼らの抱擁と熱い接吻はしばらくの間、終わることがなかった。


〈魔物狩りの英雄〉と称えられる伝説の戦士、ヤスヴァル・リヴィエントとエルフの魔導王シルヴァ・ド・ユスティリスの、王女エルノーラを賭けた決闘はこうして幕を閉じた。


 それから幾多の文明が生まれては滅び、人間の世もエルフの世も大きく形を変えた。二人の決闘は物語となって、今なお人々の間で語り継がれている。自分よりも遥かに強大な魔術師であるエルフ王に単身で挑んだ男の英雄譚として。また一方では、身分と種族の違いを乗り越え、結ばれた男女の恋物語として。


 だが、永遠の命を持つヤスヴァルとエルノーラの物語はまだ続いている。彼らは自分たちの経験が神話となって語られる世になった今も生きているのだ。これから始まるのは、美談とは申し難い少々風変わりな恋物語である。


 物語は世紀の決闘からおよそ千年後。名もなき小さな森の中から始まる──。

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