第1話  雨降っても地固まらず

時折、家の外から小鳥のさえずりが聞こえる。窓から流れてくるやや湿り気を帯びた空気には、草木のいい香りが混じっている。どんな荒んだ心の持ち主でも、ここでひとつ深呼吸をすれば、たちまち胸のささくれも癒えるに違いない。


 だが、俺──ヤスヴァル・リヴィエントにとって、この静寂は苦痛以外の何物でもなかった。


「……………………」

「……………………」


 気まずい沈黙の中に俺と妻のエルフ、エルノーラはいた。

 俺は彼女をエルと呼んでいる。


 俺たちが住んでいるのは、名もない森の中にある小さな木の家だ。近隣の村に住んでいた腕利きの大工が二百年ほど前に建ててくれたもので、今は自分たちで古くなった部分を直しながら騙し騙し暮らしている。古い家だが、住み心地は申し分ない。


 そもそも、引っ越す気力など今の俺たちにはない。


「……いい天気だな」

「今日は朝から曇りよ。適当なことを言わないで」

「あ、ああ。すまない」


 食卓に置かれたカップを手に取る。先程エルが淹れた茶だが、とっくに冷めてしまっていた。せっかくの香りもほとんどせず、ひどく不味い。


 再び沈黙。俺は何をするでもなく、椅子に腰掛けたまま冷めた茶を前にぼんやりしていた。早々に茶を飲み終えたエルは俺のことなど見向きもせず、黙々と編み物をしている。


 妻と同じ空間にいると、居心地が悪くて尻の辺りがむずむずしてくる。沈黙が気まずくなるような関係は遥か昔に卒業しており、「何か喋らなければ」という焦りはない。焦りがないからこそ沈黙は長く続き、だんだんと息苦しさを感じるようになる。


 むずむずと息苦しさは次第に大きくなり、俺は堪らず椅子から立ち上がった。


「ちょっと出てくる」

「ええ」


 必要最低限のやり取りをして、俺は家を出た。

 行き先は告げない。言わなくても、妻は俺がどこに行くのか知っているはずだ。


 エルの言った通り、頭上を覆う枝葉の隙間から見える空には厚い雲が掛かっており、今にも雨が降ってきそうだ。紅葉して黄色や赤に染まった葉も、曇り空の下では色を失って見える。

 雨を凌ぐ革の外套を取りに戻ろうかと思ったがやめた。面倒だし、妻のいる居間を通るのは避けたい。


 森を抜けて、ろくに舗装もされていないでこぼこ道をまっすぐ歩く。途中で雨が降り始め、森のすぐ近くにあるノッカ村が見えてきた頃には本降りになっていた。

 やはり外套を取りに戻ればよかったと後悔したところで時既に遅し。瞬く間にずぶ濡れになった俺は、丸太を立てて組んだ粗末な外壁を潜り、村に入った。


 村の中でも、強まる雨に慌てた人々が右往左往している。目に入る人の数は五指で数えられるほど。小さな子どもが村民全員の顔と名前を覚えられるほど、この村は小さい。

 木を組んで作った、粗末ながらも味のある家がぽつりぽつりと立っており、活気こそ乏しいが、居心地のよさを感じる村だ。少なくとも、俺はここを気に入っている。


 俺とエルは生活の糧になるものの多くをこの村で得ていた。外界と隔絶された辺境の森に暮らす俺たちにとって、ノッカ村は俺たち夫婦と世間を繋ぐ数少ない接点と言える。


 俺は迷うことなく村で唯一の酒場に向かい、服に染み込んだ雨水を絞ってから中に入った。

 まだ昼間だというのに、酒場には空いている席がほとんどない。村民の多くが農業を生業としているが、先日ワインに使う葡萄の収穫を終えたばかりで、一仕事終えた後の平穏な時間を楽しんでいるようだった。


「おや旦那。ずぶ濡れじゃねえか」


 声をかけてきたのは店主のダグだ。ダグとは彼の祖父の代からの付き合いで、赤ん坊の頃からよく知っている。何を隠そう、彼を母親の腹から取り上げたのはエルで、名前をつけたのは俺である。ダグも今ではすっかり老けて、髪の毛の減りが著しい。


「いつものを。代金は後で払う」

「あいよ。何だ、まーた嫁さんと喧嘩でもしたのかい?」


 笑いながら、ダグは乾いた布を投げて寄越してくれた。

 礼を言ってから髪の毛を拭く。


「どうしてそう思う?」

「辛気臭い顔して昼間っから飲みに来るとなりゃ、それくらいしか理由は思いつかんよ」

「わかりやすくて悪いな」

「なーに、こっちは酒が売れるんで願ったり叶ったりさ」


 ハハッと笑ってみたが、俺の笑いはすぐため息に変わった。


「面と向かって喧嘩できれば、まだ良いのかもしれないけどな。怒るような理由もなく、ただ居心地が悪いから困っている」

「おやおや、倦怠期って奴かい?」

「これを倦怠期というのかはわからないが……おそらく、そうなんだろうな。それで、誰かと話しながら酒を飲んで、気を紛らわそうとしているわけだ」

「一体エルさんの何が不満なんだい? あんなべっぴんで器量良しの嫁さん、国中どこ探したっていやしねえよ。うちのかみさんと交換してもらいたいくれえだ」

「あんた、聞こえてるよ」


 近くでグラスを拭いていたダグの妻が鋭い目で彼を睨んだ。「おお、おっかねえ」と戯けて笑うダグ夫婦の仲の良さは周知である。


「不満か……」


 俺はダグが出してくれた麦酒をぐいっと呷って、不満の理由を考えてみた。

 本当に、一体いつからこうなってしまったのだろう。


 エルの美貌は出会ったときから少しも変わっていない。絶世の美女と謳われ、人間からもエルフからも羨望の眼差しで見られていた頃のままだ。

 俺の外見も、不老不死の霊薬を飲んだあのときから変わらず同じままで、シルヴァの言っていた通り、本当に時間が止まってしまっていた。


 しかし俺たちの結婚生活は千年の間に大きく変わった。結婚してから百年は見るものすべてが薔薇色に見え、中でもエルの姿は一際輝いて見えたものだった。


 今やその輝きは薄れ、仏頂面で編み物に勤しむエルの顔もくすんで見える。かつては情欲に任せて一晩に何度も行為に及んだことものだが、最後に枕を共にしたのはだいたい三百年前という有り様である。


 関係が疎遠になるきっかけに心当たりはない。しかし、どこかで歯車が噛み合わなくなり、時計の指し示す時間がずれていくように、気持ちも離れてしまったように思う。いつからか話をするのが面倒になり、今では視界に入るのが鬱陶しいと感じる瞬間すらある。不満らしい不満はないのだが。


 千年も連れ添っているため、今更別れる気にもならない。

 このままではいかんという思いはあるのだが、如何せん腰が重い。


「どうしたものかな……」


 と、呟いたそのとき、俺はグラスを卓に置いた。

 何か、嫌な気配がしたのだ。


「おや、一杯だけでいいのかい?」

「ああ」


 俺は席を立ち、店を出た。まだ雨が強く降っているが構わず歩き出す。

 雨の勢いはしばらく収まりそうにない。こうした陰鬱とした空気を、奴らは好んで現れる。


 魔物だ──。

 人を食らい、物を奪い、尊厳を剥ぎ取る呪われた存在。

 この世で最も忌むべき者たち。


「外か……」


 魔物は村の外からこちらに近づいてきているらしい。正確な数や強さは不明だが、気配から察するに、そこまで恐れるような相手ではない。

 しかし放置すれば村人に被害が出る。武器は手元にないが、この場で処分すべきと判断した。


 雨に濡れるのを厭わず、俺は足早に外壁の門に向かった。魔物の持つ独特の気配と殺気が徐々に強まっていく。

 元来た道を戻るようにして村を出て、外壁の傍で周囲を警戒する。感覚を研ぎ澄ませながら周りを注視したが、遮蔽物のない平野にもかかわらず、魔物の姿は目に入ってこない。人間の魂が変異した亡霊の類いなら、目に映っていないだけという可能性もある。


 そうなると魔術の心得がなく、祝福を施された武器が手元にない俺には少々厄介な相手だ。かと言って撤退を決断するには情報が少ない。

 もう少し警戒しつつ、様子を見ることにした。外壁に背中を預け、間合いに入った魔物をいつでも撃退できるよう身構える。


 運の悪いことに、雨はさらに強さを増した。ザアザアという音で気配を感じられる範囲が狭まる。強まる雨に負けじと、俺も感覚をさらに研ぎ澄ませた。


 鋭敏さを増した感覚が、視界が霞むほどの雨の向こうからこちらに近づいてくる者の気配を感じ取った。

 魔物ではない。人間で、しかも戦いの術を知らない一般人だ。


 雨の中、その人物の姿が徐々に鮮明になっていく。

 最初に肉眼で確認したのは腕から提げた粗末な籠。続いて雨除けの革の外套。

 フードを深く被っているため顔は見えないが、背格好と体つきからして女性か、小柄な少年だ。


 その人物は俺に気づくと顔を上げ、フードを少し上げて俺の前に立った。


「あの……こんなところで何をしてるんですか?」


 近づいてきたのは女だった。顔からして歳は十代後半といったところか。

 やや茶色がかった大きな瞳が印象的な娘で、鼻の辺りに見えるそばかすが彼女の素朴な可愛らしさを引き出している。背は俺の胸くらいしかない小柄な女だ。

 この村に住んでいる人間の顔は全員知っているつもりだったが、女の顔に見覚えはなかった。


「あー……、人を待っているところだ」


 魔物が近づいていることを告げて怯えさせたくはない。俺は咄嗟に嘘をついたが、女はなおも心配そうに俺を見上げている。このままここにいると、彼女を危険に晒しかねない。


「これ以上濡れる前に行け。俺はもうしばらくここにいる」


 少しイライラした口調で言ってみる。

 が、それでも女は引き下がらない。


「でも、寒いですし、一度どこかで雨宿りした方がいいですよ。外から来た方ですか? もしよければ、私の家で温かい飲み物でもお出ししますが」

「気づかい無用だ。早く──」


「行け」と言いかけて、俺は女の華奢な体を抱きかかえて跳んだ。

 直後、殺気を伴った咆吼が雨音を割いて聞こえた。

 外壁から少し離れたところに着地し、女を抱えたまま今まで立っていたところを見る。


 そこにいたのは、石灰のような白い体毛を持つ狼だった。鋭い牙を剥き出しにして、涎を垂らしながら低く唸っている。殺気を漲らせた紅玉のような瞳は、俺と女をまっすぐ見ていた。


「え、あ、な、なに?」


 断りもなく抱きかかえられたことに混乱した様子の女は、狼の存在に気づくのに少し時間をかけた。狼を視界に捉えた女の肌から見る見る血の気が引いていく。


「ま、魔物……!」


 ただの狼でないのは女にもわかったらしい。

 白い毛並みに赤い瞳の狼。〈ユキオオカミ〉に間違いない。


 体長は俺の身長とあまり変わらず、魔物としては小型だが、奴らの本領は集団で発揮される。多くて百頭ほどの群れを作り、集団で人間の集落を襲うのだ。防衛手段のない小村が襲われると、ものの数時間で人も家畜も皆奴らの腹に収まってしまう。


 一頭だけなのは群れからはぐれたのか、あるいは村の様子を探る斥候として送られてきたからか……。

 どちらでもいい。実体のある魔物なら処理は容易だ。

 俺は女を地面に下ろし、彼女の前に立った。


「下がっていろ」

「で、でも、あれ魔物ですよ。逃げなきゃ」

「ああ、それと目も瞑っていろ」


 俺は女の傍を離れ、ユキオオカミの方にのろのろと歩み寄る。あまりに無警戒な動きに向こうも俺の意図を図りかねたか、すぐに襲いかかってこない。

 だが、奴は所詮肉を貪ることしか能のない魔物である。魔物の血を吸い続けてきた俺の肉が美味いとは到底思えないが、いつか奴の食欲が警戒心を上回る。


 ユキオオカミと俺の距離は歩数にして十歩ほど。

 その距離を、奴は一跳びで詰めた。猛毒を持つ牙が迫る。

 予備動作なしで飛びかかる攻め。獣にしては見事だ。


 だが遅い。


 俺は余裕を持って避け、すれ違いざまに拳を奴の背中にめり込ませた。

 背骨が砕ける感覚が拳に伝わる。俺の拳によって地面に釘付けにされたユキオオカミは、長い舌を牙の間からだらんと伸ばしたまま絶命した。


 拳に付いた血を雨に晒して流しながら、今後のことを考える。

 もしこいつが斥候なら、間もなくここにユキオオカミの群れがやって来る。これまでも単体の魔物が現れたことは何度かあったが、群れで押し寄せてくるのは百年前に一度あったかどうかという程度だ。


 場合によっては、久しぶりに仕事をしなければならないかもしれない。


「あ」


 そういえば女のことを忘れていた。


 元いたところに見ると、女は濡れた地面にぺたんと座り込んで、魂が抜けたみたいに呆けていた。目を閉じていろという助言には従ってくれなかったらしい。できれば、むごい場面を見せたくはなかったのだが。


「大丈夫か?」


 歩み寄ろうとすると、女は天敵を見つけたウサギのようにビクッとして立ち上がった。そして俺の脇を何も言わずに通り過ぎ、村の中へと走り去ってしまった。


「…………」


 傷つきはしない。慣れている。

 魔物を何百、何千と殺し、どれだけの人や町を救っても、血の穢れを嫌って魔物狩りを疎んじる人は大勢いる。魔物の血や脂は人に悪影響を与えるとされているからだ。それは迷信なのだが、穢れを受けたくないという人々の気持ちは理解できた。


 ──私たちみたいに戦えない人を守ってくれてるんだもの。誇っていいわ。


 ふと、かつてエルがかけてくれた言葉が蘇る。

 あいつは俺を恐れなかった。だから一緒にいることができた。

 昔のことを急に思い出すなんて、俺も歳を取ったなと思う。


 自嘲気味に笑いながら、雨が少し小降りになった空の下、俺は愛剣を取りに我が家に戻った。

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