第十八章 犯人の正体 10月12日
法子は、「犯行の手口と犯人がわかった」と言った。ということは、彼女はあのいくつかの謎を全てクリアして、その上で犯人を特定し、なおかつ犯人がどうやって翁を殺したのか見抜いた、ということになる。
私達は取り敢えず朝比奈家の居間に行った。喜多島さんが浩一や礼子、それに裕子先輩と松子、山本さん、三池さんを呼び集めた。
「何が始まるんだ?」
浩一はソファに座りながら毒づいた。礼子はムスッとした顔で私達を睨み、浩一とは反対側のソファに座った。先輩と松子はソファのそばに立ち、山本さんと三池さんは、部屋の隅のドアの近くに立っている。
「この事件の犯人がわかりました」
法子が一同を見渡す位置に立って言った。浩一はピクンと眉を釣り上げ、
「犯人がわかったァ?」
いかにも疑っているという目で法子を見た。裕子先輩は悲しげに私達を見ており、松子は相変わらずおどおどしている。
「一体誰なのよ、犯人は?」
礼子は先輩をチラッと見て言った。先輩はそんな礼子を無視していた。礼子もそれに気づいてムッとし、
「もったいぶらないで早く言いなさいよ!」
法子に目を向けた。法子はそんな礼子の言葉など聞こえなかったかのように、
「朝比奈さんは、一昨日、すなわち、10月10日の午後2時30分から3時30分くらいにかけて殺害されました。犯行の手口は、睡眠薬を飲ませ、眠らせて背中に短剣を突き立てる、というものです。そして、その犯行を唯一なし得た人物が現場にいました」
「だから誰なのよ!?」
礼子は苛立って言った。法子は礼子をチラッと見てから、
「それは高林先生です」
「でも、高林は死んでいたんだろう? 親父より早くさ」
浩一が口をはさんだ。法子は浩一の方を見て、
「そうです。高林先生は、さきほど死体で発見されました。死体の状態と気温、水温から考えて、死後3日から4日は経っているようです」
「ということは、今君が言った、高林が犯行をなし得た唯一の人物だというのは、誤りだな」
浩一は嘲笑して言い放った。しかし法子はニコッとして、
「そうですね。先に死んでいた高林先生に朝比奈さんを殺すことはできません。ということは、私達が見かけた高林先生は、高林先生ではなかった、ということになります」
途端に居間全体に緊迫した空気が立ち篭めた。てことは、あれが真犯人? でも変よ。
「だが、裕子は高林だと思ったのだろう? 気がつかなかったのか? 」
浩一が先輩に尋ねた。裕子先輩は浩一に目を向けて、
「私、あの時コンタクトレンズをしていなかったから、高林先生の顔ははっきりわからなかったのよ」
浩一はギョッとして法子を見た。法子は軽く頷いて、
「そうです。裕子先輩は、朝比奈さんに『高林先生を出迎えるように』と言われたので、白髪に白いヒゲをあしらった人物を、高林先生と思い込んでしまったのです」
「えっ? 法子さん、それどういうこと? それじゃ、父が……」
先輩が言いかけると、法子はそれをさえぎるように、
「そうです。朝比奈さんが高林先生になりすました人物と共謀して、高林先生が10月10日まで生きていたように見せかけたのです。あの日、警備員が門のところにいなかったのは、そのためです。警察に事情聴取された時に、勤務していなかったのでわからない、と証言させるために」
裕子先輩は、驚きのあまり声が出ない。浩一と礼子は思わず顔を見合わせていた。松子は倒れ込むようにソファに座ってしまった。
「わけがわからないな。どういうことだ? 」
浩一がやっと口を開いた。法子は浩一に目を向けて、
「つまり朝比奈さんが、先輩の作った予告状を私に送り、この事件のきっかけを作ったのです。しかし、朝比奈さんの計画は失敗に終わりました」
と答えた。礼子が次に口を開いた。
「犯人は誰なのよ!? 」
彼女はさっきからこればかりだ。こういう性格は、推理小説を買って来て読み始めても、途中で解決編を読んでしまうタイプだ。法子は礼子に目を転じて、
「その前にいくつか解決しておかなければならないことがあります」
さらに、
「まず、犯人が誰なのか考える前に、この事件に関するいくつかの疑問について解決しておきます」
一同を見渡した。
「朝比奈さんが殺された現場には、飲みかけのコーヒーと全く口をつけていない紅茶があり、キャビンマイルドとハイライトの吸い殻がありました。しかも、この吸い殻はかなり乾燥していて、灰も細かくなっており、とても何時間か前に吸われたモノには見えませんでした。でも、吸い殻からは、それぞれ朝比奈さんと高林先生の血液型と同じ血液型が採取されました」
浩一は何かを言いたそうにしているが、口を開かないでいるようだ。法子は続けた。
「この吸い殻は、朝比奈さんが、高林先生が10月10日まで生きていて、煙草を吸って行ったと見せかけるために用意したモノでしょう。恐らく、高林先生が10月 8日に吸ったモノだと思います」
すると、喜多島さんが、
「つまり高林先生は、10月 8日に朝比奈家に来て、帰らぬ人となった可能性が大だということだね? 」
初めて口をはさんだ。法子は喜多島さんを見て頷き、
「そうです。いえ、そうだと思います。高林先生の死亡の日時については、確証は得ていませんから」
それから再び一同を見渡して、
「そして、朝比奈さんと一緒にいたはずの高林先生、すなわち本事件の真犯人は姿をくらまし、朝比奈さんは背中に短剣を突き立てられて、殺されてしまいました」
と続けた。浩一は相変わらず何か言いたそうだが、何も言わない。礼子はムスッとしており、松子と裕子先輩は悲しそうに顔を見合わせている。法子は一息ついてから、
「その短剣には刃がついていないため、犯人は何かで短剣の柄を叩き、まるで杭のように打ち込みました。何故そんなことをしたのでしょう? 」
尋ねるように一同を見た。浩一が、
「持ち主に罪を着せるためだろう? 」
法子は軽く頷き、
「それもあります。しかしもう一つあるのです。それは恐らく憎しみ。そして、恨み。犯人の朝比奈さんに対する憎悪の念がこめられている気がします」
裕子先輩の顔が蒼くなっているのがわかった。松子は心配そうに先輩に声をかけている。
「さらに犯人は、短剣を突き立てて絶命させた後、朝比奈さんを鉄の棒のようなモノで殴っているのです」
法子のその発言に、浩一と礼子もギョッとしたようだった。犯人の恐ろしさを感じたのだろうか?
「ここでまた新たな疑問が生じました。短剣を打ち込んだもの、そして朝比奈さんを殴ったものは何で、一体どこにあるのか? そして犯人はいつそのものを現場に持ち込み、どうやって持ち去ったのか? 」
法子の話に、居間の一同は完全に引き込まれていた。あんなに批判的な態度だった浩一も、顔つきが変わっている。礼子も同じだ。法子はそんな目を知ってか知らずか、全く変わらない調子で、
「さて、もう一度高林先生が来てからのことを考えてみましょう。裕子先輩は先入観とコンタクトレンズを着けていないことから、犯人の変装と気づかず、高林先生だと思い込んでいた。そして、私達は廊下を歩いている高林先生らしき人物の後ろ姿を見ているだけですし、浩一さんが朝比奈さんの部屋に行った時も、高林先生の後ろ姿を見ているだけで、顔も声も確認していません」
「つまり、誰も高林弁護士だと確認していないということか」
喜多島さんが独り言のように言った。すると浩一が、
「じゃあ何で親父は殺されたんだ? そいつは共犯者だったんだろう? 高林が生きていると見せかけるための? 」
法子は頷いて、
「そうです。私は最初、高林先生が犯人で、共犯者がいるのでは、と考えました。でもそれだと、何故朝比奈さんが殺されてしまったのか、わからないのです。睡眠薬が入っていたのはコーヒーで、高林先生用に出されたのは紅茶です。高林先生が出された飲み物をすり替えようとしても、それができないのです。ということは、どういうことなのか? 」
言葉を切り、意味ありげに目を伏せた。途端に緊張感が辺りを支配した。もう、法子ったら! と思っていると、彼女は再び目を上げて、
「朝比奈さんが何かを企んでいるようなのは、最初に予告状を見せた時の反応でわかりました。何かあるなと思いました。ところが、やって来た高林先生が姿を消し、朝比奈さんが殺された。予告状を私宛に出したのが朝比奈さんの可能性が高いとすると、どうして事件を仕組んだはずの朝比奈さん本人が殺されてしまうのか? 」
そこで彼女は後れ毛を耳の後ろにかき上げて、
「この二つの疑問を解消する答えはただ一つ。高林先生は本人ではなく誰かの変装で、朝比奈さんを殺す準備をして来た、というものです。変装して来た人物が、朝比奈さんを眠らせるためにモルヒネを持って来ていれば、朝比奈さんのコーヒーに入れることができます。そして、事件を仕組んだ朝比奈さんが殺されるという矛盾も解けるのです」
裕子先輩が潤んだ瞳で法子を見て、
「じゃあ法子さん、高林先生を殺したのは……父だというの? 」
一同の視線が法子に集中した。法子は悲しそうに頷き、
「そうです。そのために朝比奈さんは私に予告状を出し、邸に来させたのです。高林先生を目撃させるために」
「そんな……」
先輩は下を向いてしまった。肩が震えている。泣いているのだ。私ももらい泣きしそう。でも法子は続けた。
「そして、朝比奈さんが考え出した高林先生の死亡日時のトリックの舞台に上がった犯人は、その舞台を乗っ取り、台本を書き換えてしまったのです」
先輩はもう一度顔を上げ、法子を見た。喜多島さんも、ジッと法子の話に聞き入っている。
「朝比奈さんは全く予期せぬ台本変更で、眠らされた上、殺されました。そして犯人は朝比奈さんの部屋から消え、凶器を打ち込んだものも、未だに特定できないでいます」
法子は窓に近づいてから振り返った。太陽の光が、彼女の髪、特にポニーテールの部分をキラキラと輝かせている。
「事件を検証してみましょう。今までの話で、犯人は高林先生に変装した誰か、ということに異論はないと思います」
法子は私達を見回して言った。誰ともなく、頷く。法子も軽く頷き、
「では、誰が犯人たり得るのでしょうか? まず、先輩を除外します。先輩は高林先生に変装した人物に会っており、私達もその直後に高林先生らしき人物の姿を目撃し、なおかつ先輩にも会っています」
裕子先輩は、ホッとした表情になった。法子はさらに続ける。
「それから、浩一さんも除外します。裕子先輩が朝比奈さんの部屋を出た直後に、浩一さんと会っているからです」
浩一はニヤッとした。礼子は不服そうだ。法子は再び部屋の中央に歩いて来て、
「次に三池さんを除外します。三池さんは犯行時刻、キッチンにいました。裕子先輩の悲鳴が聞こえて、私達が廊下に出たところに姿を現しています。考えようによっては、犯行は可能かも知れませんが、高林先生が現れる直前までキッチンにいたのですから、変装して朝比奈さんに会い、殺害し、再びキッチンに戻って仕事を始めるのは、まず時間的に不可能でしょう」
三池さんは、自分が容疑者の一人として法子に扱われていたことに、ちょっとびっくりしているようだ。礼子の顔が険しくなった。
「な、何よ! 私はどうなのよ!? 私が犯人だとでも言うの!? 」
彼女は立ち上がって法子に怒鳴った。法子は礼子を見て、
「いいえ。貴女は犯人ではあり得ません」
礼子は引きつった顔で笑い、
「そ、そう。それならいいのよ」
ソファに戻った。しかし法子の次の一言は強烈だった。
「高林先生になりすました人物は、きっと朝比奈さんに信用されていた人物でしょうから」
礼子はまたムッとしたようだったが、何も言わなかった。
「つまり、朝比奈さんは共犯者を信用し切っていたのです。だからこそ、モルヒネ入りのコーヒーもあっさり飲んでしまったのです。事件の被害者は高林先生だとばかり思っていたでしょうから」
法子が一息つくと、喜多島さんが、
「法ちゃん、今の話の進み具合で行くと、あとは松子さんと、山本さんだけだが? 」
法子は喜多島さんを見てから、
「そうですね。では、お二人についても、検証してみましょう」
山本さんを見た。
「山本さん、庭園で奥さんと話した時、浩一さんがベランダに出ているのにすぐに気づきましたか? 」
法子が尋ねると、山本さんは不思議そうな顔をして、
「いいえ、私は邸に背を向けて、庭園の雑草を刈っていたので、奥様がお声をかけるまで、浩一様がベランダにおられることは気づきませんでした」
何故そんなことを聞かれたのか理由がわからない、という顔だ。次に法子は松子に目を転じて、
「奥さんにお尋ねします。その後、貴女は居間の前の廊下で私達と会いましたよね? 」
「はい、そうです。それが何か? 」
「貴女は、外から戻って来られたのですよね? 」
法子はまたしても不可思議な質問をした。松子は当惑したような顔で、
「はい。確かにそのとおりですけど」
法子はさらに、
「それから、律子が、『浩一さんはどうしたのかしら? 』と言った時、貴女は、『浩一さんはご自分の部屋に戻られた』とお答えになりましたよね? 」
「ええ、そうですわ」
松子はますます不思議そうな顔になる。法子はそこで突然浩一を見て、
「浩一さん、貴方はよくベランダに出られますか? 」
浩一は法子に目を向け、
「そんなに出たりはしないよ。ごく稀に出るだけだ」
法子は満足そうに頷くと、
「わかりました」
再び山本さんを見た。
「浩一さんがベランダに出ているのに先に気づいたのは貴方ですか、それとも奥さんですか? 」
山本さんは突然の質問に一瞬呆然としてしまったが、
「ええ、確か奥様だったとと思います」
法子、一体何を導き出したいのよ?
「何が言いたいんだね、法ちゃん? 」
喜多島さんがたまりかねたように言った。しかし、法子はそれをまるで無視して、
「浩一さん、貴方は事件当日、部屋に戻ってベランダに出る前に、どこにいましたか? 」
質問を続けた。浩一は少々ビクつきながら、
「親父の部屋だよ。だけどな……」
何か弁解しようとしたが、法子がそれを遮った。
「朝比奈さんの部屋から、そのままご自分の部屋に戻ったのですね? 」
「そうだよ」
「その間、どれくらいの時間がかかりましたか? 」
法子の質問は、まさしく用意されていたかのごとく、流れるように続いた。
「イライラしながら戻ったから、どれくらいかかったのか正確にはわからないが、10分とかからなかったと思うよ」
「では、部屋に戻ってから、ベランダに出るまでにかかった時間はどれくらいですか? 」
法子のその質問に浩一の顔色が変わった。彼は、絞り出すような声で、
「そ、その話はやめてくれ……」
法子から視線を外して言った。しかし法子はニッコリして、
「大丈夫です。今問題にしたいのは、そのことではありませんから。かかった時間を教えて下さい」
浩一は再び法子を見て、
「15分くらいかな……」
喜多島さんが何か言いかけようとしたのを法子が気づいて、
「おじ様、もう少し待って下さい。あといくつか質問をすれば、私が何故こんなことを尋ねているのか、おわかり頂けるでしょうから」
喜多島さんは不承不承頷いて、引き下がった。法子も頷いてから浩一を見て、
「では、ベランダに出ていた時間はどれくらいですか? 」
「15分くらい……。いや、10分くらいかな……」
素直に質問に答える浩一を、礼子は非常に意外そうに見ていた。彼が何故法子の質問に従順なのか知らないから、とても信じられないのだろう。
「奥さん、もう一度お尋ねします」
法子は松子を見た。松子も法子を見て、
「はい。何でしょうか? 」
法子は真顔になって、
「律子の言葉に、貴女は、『ご自分の部屋に戻られた』と浩一さんのことをお答えになりましたよね? 」
「はい」
「どこから戻ったとおっしゃりたかったのですか? 」
「……」
松子の顔色が変わった。えっ? そんな、まさか、法子が犯人て思っているのは……。
「質問を変えます。何故外から戻った貴女が、浩一さんが自分の部屋に 『戻った』 とおわかりになったのでしょうか? 」
法子が言うと、松子は、
「それは庭園から浩一さんがベランダにいるのを見かけたからです」
「それなら、『浩一さんはご自分の部屋におられる』でいいのではないですか? 」
法子の執拗なまでの問いかけに、松子はキッとなった。
「そんな、言葉尻を捕らえて人を困らせて、楽しいのですか? 」
彼女らしからぬ、強い口調だった。法子は微笑んで、
「そうではありません。人は無意識に自分の知っていることを織り交ぜて、話をしてしまうものなのです。貴女もそうなのですよ、奥さん」
松子の顔色がさっき以上に変わった。法子は続けた。
「貴女は、浩一さんが朝比奈さんの部屋に行き、そこで朝比奈さんに怒鳴りつけられ、憤慨して自分の部屋に戻ったのを知っていたから『戻られた』という言葉が出てしまったのです」
「……」
松子は黙ったまま法子を正面から見つめている。法子も松子をジッと見つめ返して、
「何故知っていたのか? それは、貴女が高林先生に変装して、朝比奈さんの部屋にいたからです」
強い調子で言った。私を始め、その場にいた者はことごとく仰天していた。ただ一人、犯人と名指しされた松子を除いて。
「だからこそ、貴女は、浩一さんがベランダにいるのにも気づくことができたのです。そして、後で話の辻褄が合わなくなるのを防ぐために、貴女はわざと山本さんに話しかけ、浩一さんに気づいてみせたのです」
法子の推理は続いていたが、松子は全く動揺していなかった。むしろ、冷めていたと言っていいかも知れない。
「貴女は高林先生の死亡時刻のトリックの片棒を担ぐふりをして、それを逆手にとり、コーヒーにモルヒネを入れて朝比奈さんを眠らせ、裕子先輩の部屋から持って来た短剣を朝比奈さんの背中に突き立てた。そして、あるものを使って、それを打ち込んだ」
「あるもの? 何?」
私は思わず口をはさんだ。法子は私を見て、
「灰皿よ。灰皿をハンカチかタオルのようなものに包んで、それをカナヅチ代わりにして、短剣の柄を叩いたのよ」
「そっか。だから灰が細かく砕けてたのね? 」
「そういうこと」
法子は再び松子を見た。
「こうして朝比奈さんは殺されました。そして貴女はゴルフクラブで朝比奈さんを何回も殴った。死してなお許せない程の恨みがあったのですね」
法子がそう言うと、松子は、
「続けて下さいな」
思わぬことを口にした。法子は小さく頷いて、
「その後貴女は高林先生の変装を解き、自分の服に着替えるとクラブを練習場に戻し、そのまま庭園に現れたのです」
松子は微笑みすら浮かべて、法子の話を聞いていた。法子はさらに、
「朝比奈さんが信用しており、高林先生殺害の協力をさせ、なおかつ、自分の命を狙っているとは夢にも思わない存在。それは貴女以外にはおられないのですよ、奥さん」
まるで諭すように言ったが、松子の反応は法子の気持ちを無視したものだった。
「証拠がありますの? 私が主人を殺したという?」
その言葉は、開き直りともとれた。法子の指摘は、松子を状況的には犯人と推定させるに足るだけのものであったが、物証がない。松子の開き直りにも、ある意味では頷けないこともない。法子の話は、きつい言い方をすれば、机上の空論なのだ。ところが法子は、さらにこう言った。
「貴女がそうおっしゃるのは、予測していました。貴女が遺留品の隠し場所に絶対の自信を持っているのも、わかっています。だからこそ、それほど冷静でいられるのですよね?」
松子の微笑みが消えた。彼女は明らかに狼狽していた。法子はここで喜多島さんを見て、
「おじ様、高林先生の着ていた衣服は、恐らく朝比奈さんの部屋のクローゼットの中です。朝比奈さんの服に紛れてハンガーに掛けられているはずです。探してみて下さい」
「わかった」
喜多島さんは鑑識課員に指示し、捜索を開始させた。
「……」
松子の顔は、見る見るうちに青ざめて行った。彼女は、
「私の負けね。貴女は、私に遺留品を処分する時間がないことを見抜いていたのね。だから、浩一さんに細かく時間のことを尋ねていたのね」
自嘲するように言った。法子は再び松子を見て、
「ごめんなさい、今のはハッタリです。貴女が開き直ることは予測していましたが、遺留品をどこに隠したのかまでは、わかりませんでした。だから、カマをかけたんです」
そして、
「要するに、私は貴女が自白してくれなければ、貴女を犯人と指摘できるだけの証拠を手に入れてはいませんでした」
微笑んで言った。すると、松子も微笑み返して、
「ありがとう。お気遣い、感謝します」
妙に晴々とした調子で言い添えた。
「裕子先輩のコンタクトレンズを隠して、私のアパートに予告状を届けたのは貴女ですね? 」
法子が尋ねると、松子は、
「ええ、そうよ」
実に素直に応じた。法子はニコッとして、
「やっぱりそうでしたか。私のアパートには男の人は親族以外近づけないんです。郵便配達の人も女性のみなんですよ」
あっ、そうか。だから法子は、「朝比奈さんが予告状を出したとは限らない」って言ってたのか。
「あれが朝比奈への最後の奉公でしたのよ」
松子は唐突に言った。法子はキョトンとして彼女を見た。松子は作り笑いをして、
「朝比奈は、私を愛してはいませんでした。あの男は、私に亡くなった江威子さんを見ていたのです。私は私として愛されたことがありませんでした。いつもあの男は私ではなく、江威子さんを見ていたのです」
裕子先輩がハッとして松子を見た。
「朝比奈に最初に結婚を迫られた時は、正直言って嫌でした。私の父親より年上の男と結婚するなんて、恐ろしかったのです。でも次第に朝比奈の愛の深さを知り、私自身も惹かれて行きました。でもそれは、錯覚でした」
松子の目に涙が浮かんでいた。
「朝比奈が愛情を注いでいたのは、私ではなく、私の後ろに見える江威子さんにだったのです。私を抱いている時も、朝比奈は、『江威子』と呟いていました」
私は何か気恥ずかしくなり、赤面した。
「そうしているうちに、私は昔のことを思い出しました。一生懸命忘れようとしていた忌わしい過去を、あの男が思い出させたのです」
一同の視線は、ますます松子に集中した。
「10年前まで、私は、小さい会社でしたが、その社長の娘でした。それが、同じ土地に進出して来た朝比奈グループの子会社のせいで、業績不振に陥り、莫大な赤字を抱えて倒産してしまいました」
松子の目は悲しみに満ちていた。さっきのあの晴々とした表情は、完全に消失していた。
「企業の盛衰は仕方のないことです。経営者の手腕のせいかも知れません。しかし、父の会社が倒産したのは、朝比奈長次郎の汚い裏工作の結果でした」
裕子先輩がピクンと身体を動かして松子を見る。松子は続けた。
「父の会社の信用を失墜させるような情報を流し、金の力で官僚に働きかけ、父の会社が行き詰まるように仕組んだのです」
法子も黙って松子の話に耳を傾けている。
「父は絶望し、自殺しました。母はそのショックで寝込んでしまい、一年後に亡くなりました。一人残された私は、父の会社を倒産に追い込んだ朝比奈グループの子会社に、他の社員と共に移り、朝比奈に対する憎しみをおし隠して、勤めを続けました」
松子は目を伏せて、
「そして年月が経つうちに、私は父母のことを少しずつ忘れられるようになり、朝比奈グループに対する憎しみも、過去のものとなっていきました。そんな時、朝比奈長次郎と出会ったのです。その時の私は、朝比奈に対する恨みを忘れていました。いえ、今にして思えば、忘れようとしていたのかも知れません」
そう言って言葉を切った。何か込み上げるものがあるのか、彼女はしばらく俯いたままでいたが、やがて、
「でもあの男と結婚し、あの男が私ではなく、私の後ろに見える江威子さんを愛しているのだと知った時、過去の記憶が昨日のことのように甦り、また朝比奈のことを憎むようになったのです」
目を上げて言った。そして裕子先輩を見て、
「裕子さん、おわかりになる? 自分が亡くなった
しかしその言い方に非難めいたところはなかった。いやむしろ、自嘲するかのような口調だった。
「それは違うわ、松子さん」
先輩が口を開いた。松子はハッとして、
「えっ? どういうこと? 」
先輩は松子の隣に座り、
「父は、貴女に申し訳ないことをしたと言っていたわ。貴女が自分のしたことでどれほど辛い目にあって来たのか、知っていたの。だからこそ、貴女を迎えて、その罪を少しでも償おうとしていたのよ」
そしてさらに、
「それなのに、私の母にそっくりな貴女を、貴女として愛せないことは、とても悪いことだ、と……」
松子は驚いたようだった。裕子先輩はさらに続けた。
「そして父は、自分自身、私の母から逃れられないのを悲しんでいたわ。それは父にとっても、母にとっても、いいことではなかったから。だからこそ父は、貴女を別の女性として見ようと努力をしていたのよ、松子さん」
「そんな……。そんな素振り、少しも見せてくれなかった……」
松子は頭を振って言った。裕子先輩は少し笑みを浮かべて、
「父は不器用な人だったのよ。自分の考えを他人に伝えるのが苦手だったわ」
回顧するように言った。そして、
「こんなことになってしまう前に、私がもっと松子さんと話し合うべきだったのね」
涙をこぼした。 しかし松子は、
「そんな……。そんなこと、信じられないわ!! 嘘よ。いい加減なこと、言わないで!」
そして、スッと立ち上がると、
「あの男は、私の父と母を殺したの。そう、殺したのよ! そんな男に、他人を思い遣る気持ちなんて、あるわけないじゃないのォッ!」
半狂乱状態で怒鳴り散らし、テーブルに突っ伏して泣き出してしまった。
「松子さん……」
裕子先輩の目は、慈愛に溢れていた。自分のことを犯人に仕立てようとした人間に対して、この人は何て優しい顔をするのだろう。私は先輩を改めて尊敬してしまった。
やがて、鑑識課員達が高林先生の着衣を朝比奈さんのクローゼットから発見し、松子の犯行が裏付けられて、喜多島さんが所轄に連絡した。
八王子署から森尾さん達が到着し、松子に手錠が掛けられたのはそれから30分程経ってからだった。
「裕子さん」
松子は玄関の前に横付けにされたパトカーに乗り込む直前に言った。先輩は松子を見て、
「はい」
松子は作り笑いをして、
「私、今でも後悔していないわ。貴女のお父様を殺したことをね」
そのままパトカーに乗り込んだ。
「父のせいで、あの
走り去るパトカーを見て、先輩は呟いた。すると法子が、
「人が犯罪者になるのは、他人のせいじゃありませんよ。全て自分のせいです」
裕子先輩はチラッと法子を見て、
「そうね。そうだわね」
と応えた。
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