第十章 藤江刑事の話 10月11日
翌朝になった。
私達は法子が作った朝食を食べ、しばらく話をしてから、大学へと向かった。
大学は法子のアパートから歩いて10分くらいのところにあるのだが、そのとてつもなく広いキャンパスの中の、法学部棟はほぼその中央にあるので、逆に大学の正門を入ってからの方が時間がかかる。
私達の通っているこの大学には、法学部を始め、商、経、医、文とたくさんの学部がある。たぶん、都内では最大級の、テーマパークみたいな広さを誇る大学だろう。
「何よ、11時からって、英語じゃないのォ。私、パスしたいくらいよ」
私がロビーに入るなりグチると、法子は、
「ぼやかないの。英語くらい、何よ」
「だってさァ、あの先生、なーんか私に怨みでもあるんじゃないっていうくらい、指名するじゃないのよ」
私は反論した。すると法子はニコニコして、
「彼、律子に気があるって噂よ」
私はザワザワッと全身が総毛立った。
「じょ、冗談じゃないわよ! あーんなオジさんに惚れられたら、とんでもない迷惑だわ」
「フフフ、そうね」
法子は
「おはようございます。こちらでしたか」
声をかけて来た人がいた。法子と私は、声の主の方を見た。そこには藤江刑事が立っていた。
「あら、藤江さん」
法子がニッコリして言うと、藤江刑事は頭を掻きながら、
「す、すみません、こんなところにまで押しかけて。ちょっとお尋ねしたいことがあったもので……」
「そうですか。じゃ、あちらで」
法子は右手で二階へ行く螺旋階段の脇にある長椅子を示した。
「はァ、わかりました」
私達は長椅子に腰掛けた。藤江刑事は当然法子の隣に座った。(別にヤキモチじゃないんだから!)
「どんなことですか?」
法子は、ロビーに不似合いな藤江さんを見つめて通り過ぎる学生達を気にかけながら言った。
「はァ、実はそのォ、貴女方と喜多島警視とは、どういうご関係なんですか?」
藤江刑事も周囲を気にしながら尋ねた。法子はクスッと笑って、
「何だ、そんなことだったんですか。喜多島さんとは実家が近所なんです。小さい頃からの知り合いで、たまに警視庁まで遊びに行ったこともありますよ」
藤江刑事はすっかり驚いて、
「そ、そうなんですか。それはすごいなァ。自分から見れば、喜多島警視はまさに雲の上の存在ですからねェ」
ちょっと大袈裟に聞こえるが、実際そうなのだ。巡査の藤江さんか見れば、それより4階級も上の人なのだから。タテ社会の公務員にとって、4階級も上の上司はとんでもない存在だろう。
「全然すごくなんかないですよ。たまたま家が近所なだけなんですから」
法子は笑って否定した。そして、
「そんなことを聞くために、わざわざここまでいらしたんですか?」
藤江刑事は苦笑いをして、
「いえ、違います。他に聞きたいことがあるんです」
法子は真顔になって、
「どんなことでしょう?」
「裕子さんのことなんてすが……」
藤江刑事は、何となく話し辛そうに言った。法子は彼の顔を覗き込むようにして、
「先輩が何か?」
藤江刑事は法子の顔があまりに近くにあるので、少し赤くなりながら、
「あ、あの、彼女は普段はどんな
「普段ですか? 普段は明るくて利発で、素敵な方ですけど」
法子は微笑んで答えた。藤江刑事はまた頭を掻きながら、
「そ、そうですか……。そ、それで、彼女から何か聞いていませんか? 事件のこととか……」
「どうしてですか?」
法子は再び尋ね返した。藤江刑事は、
「いや、その、彼女、ほとんど話してくれないんです。まァ、状況としては、かなり不利なので、口を噤みたくなるのもわかるんですけどね」
「不利? 不利って、どういう意味ですか?」
法子は少しキッとして言った。彼女が「怒」の感情をちょっとでも見せるなんて、すごく珍しいことだ。それに気づいたのか、
「あの予告状のことですよ。あれ、裕子さんの部屋のパソコンで打ったんですよね。しかも、彼女の部屋のどこにパソコンがあるのか知っているのって、彼女の他に死んだ朝比奈さんだけだと言うし……」
藤江刑事は恐る恐る言った。あちゃー、そんなことまでわかったのか。先輩、確かに不利よね。
「でもあの予告状を出したのは、先輩ではないかも知れないのですよ」
法子はそれでも怯まずに反論した。知ーらないぞ、藤江さん。彼女と議論して勝てる奴なんて、そうはいないんだから。そんな私の心配をよそに、藤江刑事は、少々ムキになってしまったのか、
「しかし、凶器の短剣も裕子さんのものですし、死体の第一発見者も彼女なんですよ」
「そうですけど、あの短剣を朝比奈さんの背中に打ち込んだものは、まだ見つからないのでしょう?」
「そ、それをどうして……」
藤江刑事はかなり動揺したようだ。法子は容赦しない。
「それに、高林先生はどうしたんですか? 朝比奈さんと高林先生が一緒だったのは、浩一さんも見ているんですよ」
「そ、それは……」
藤江刑事はついに言葉に詰まってしまった。ほォら、ごらんなさい。法ちゃんと口論して勝とうなんて、一億年早ーい! なーんて、私が威張ることじゃないか。
「そ、それじゃ、私はこれで……」
何か気の毒なくらい落ち込んで、藤江刑事は去って行った。私は法子を見て、
「やり過ぎなんじゃない、法子?」
「そんなことないわ。警察の人って、疑わしい人物はすぐに犯人扱いでしょ。松本サリン事件だって、公式にはお詫びの一つもないじゃない」
法子は、権力をカサに着て偉そうにする奴が嫌いだ。彼女らしくて素敵なんだけど、ちょっと怖いのよね。
「それより律子、英語の授業が終わったら、医学部の方へ行ってみない?」
「えっ、医学部?」
「そう。法医学の勉強のためにね」
法子はいたずらっぽく笑った。あっ、そうか、藤江刑事が大学に来たのは……。なーるほど。
「さっ、早く行きましょ。でないと、一番前の席しか空いてなくなっちゃうわよ」
法子はエレベーターの方へ歩き出しながら言った。
「そ、それだけはカンベンしてほしいわ!」
私もエレベーターに向かった。
英語は最悪だった。
私達が教室に到着すると、すでに席は最前列の、しかも教壇の真ん前しか空いておらず、仕方なく私達はそこに座った。と言うより、私は、と言った方が正しいか。
おかげで私は、親愛なる英語の先生と、まるでマンツーマンのような感じで、授業を受けたのだった。
「もう、最低!」
私が教室を出るなり叫ぶと、法子はニコニコしながら、
「まァまァ。そう怒らないで。人に好かれるのって、悪いことじゃないわよ」
「何よもう! 法子は藤江さんが相手だからいいだろうけどさ」
私が言うと、法子はキョトンとして、
「えっ? 藤江さんが、どうかしたの?」
そうそう、法子って、そういうの、疎いのよね。大学にも何人か法子にモーションかけて来る男の子がいるんだけど、当の法子は全く無関心と来てるから、みーんなふられたと思って、引き下がっちゃうのよねェ。
「彼、法子のこと、好きなんじゃない?」
私はニヤニヤして言った。すると法子はクスクス笑って、
「まっさかァ。私みたいにすぐ口論したがる女なんて、好きになったりしないわよ」
でも、そんな法子が可愛いって言う男共もいるのよねェ。哀れなのは、藤江さんか。
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