第十一章  法医学教室へ   10月11日

 私達は、とりあえず、食堂で昼食をすませてから、医学部棟へ向かった。


 医学部棟は、キャンパスの東の端にあり、法学部棟から500mくらい離れている。

「遠いなァ。キャンパスの中に、カートでもあればいいのに」

 歩くのが嫌いな私がそうグチると、法子は、

「何言ってるのよ。20歳の女の子が言うセリフじゃないわよ」

「へーい」

 私は肩を竦めて、仕方なく応じた。


 医学部棟のロビーに到着した。制服警官がうろうろしており、私服刑事らしき人達も何人かいた。医学生達は迷惑そうに彼等を避けながら、それぞれの教室に向かっていた。

「こりゃ、入れてもらえないわね」

 私が言うと、法子はニッコリして、

「私達が入れなくても、何でも教えてくれる人がいるじゃないの」

「ああ、そうか」

 法子は、喜多島さんを当てにしているのだ。

 検死官は現場で監察医(俗に言う検死医)より先に死体を視る。そして解剖にも立ち会う。その辺のことが知りたかったら、藤江刑事のような若造を相手にするよりは、喜多島さんの方がずっといいのだ。

 ここ八王子市には監察医は常駐していない。だから三多摩地区の医学部の法医学教室が解剖を請け負うことになる。本来なら、私達の大学にその役目が回って来ることはないのだが。警視庁の委託している大学は決まっているはずなのだ。今回はどうしたのだろう?

「おじ様が現れるまで、ここで待ちましょ」

 私達はロビーの一角にあるソファに座り、慌ただしく駆け回っている警官達を眺めていた。

「やっぱり来てますね」

 喜多島のおじ様より先に、森尾さんが私達を見つけて近づいて来た。

「どうも。好奇心が旺盛なものですから」

 法子は微笑んで応えた。 森尾さんもニッコリして向かいのソファに座り、

「浩一さんが早く遺体を返せってうるさいんですよ」

「はァ、そうですか」

 法子は森尾さんがグチを言いたいのをこれ幸いと、いろいろ訊き出すつもりらしい。森尾さんは煙草に火を着けてしまってから、

「あっ、かまいませんか?」

 私達に尋ねた。そう聞かれて、「ダメ!」と言うほど、私達はヒステリックな嫌煙権論者ではない。

「どうぞ、お吸いになって下さい」

 法子はニコニコして答えた。森尾さんは頭を掻きながら、

「いやァ、どうも周りの人への気遣いが足りなくていけません」

 煙を私達にかからないように吐き出した。そして、

「それで、この大学の付属病院に、朝比奈さんの主治医でもあった大崎育男助教授がいらっしゃるので、その人に頼んでくれとまで言われましてね」

「まァ」

法子は少し大袈裟に同情してみせていた。森尾さんは煙草の灰を灰皿に落として、

「いずれにしても、こちらの法医学教室に頼むつもりでしたからね。何も支障はなかったんですがね」

 法子はわざと私を見て目を見開いた。全く、このってば、お茶目なんだから!

「高林先生はどうされましたか?」

 法子が尋ねると、森尾さんは一瞬ビクンとしたが、

「あ、高林先生ですか。まだ行方不明です。事務所にも自宅にも帰っていません。一応非公開で捜索は続けていますがね」

「そんなこと、私達に話しちゃって大丈夫なんですか?」

 法子がいたずらっぽく言うと、森尾さんは苦笑いをして、

「世の中、何事もギブアンドテイクですからね」

「えっ?」

 今度は法子がキョトンとして私を見た。私もキョトンとして法子を見た。森尾さんはニヤッとして、

「中津さん、貴女が知っていること、みんな教えて下さい。あの予告状のこと、裕子さんのこと、高林先生のこと、朝比奈さんのこと……」

 あちゃァ。藤江刑事め、森尾さんに言いつけたな。森尾さん、可愛い部下の敵討ちを買って出たのね。

「藤江さんが何か言ったんですか?」

 私が訊こうとしたことを、法子が訊いてくれた。森尾さんは煙草を灰皿でもみ消して、

「そうじゃありませんよ。私も、昨夜貴女方から訊きもらしたことがあったものですから」

 真顔になった。そして、

「予告状の差出人のところに 『殺人予告者』とプリントしたのは誰か、知っていますね?」

 法子はその問いに少しも動揺した様子を見せずに、

「知ってはいません。そうではないかと思っている人がいる程度です」

「誰ですか、その人は?」

 森尾さんは身を乗り出して尋ねた。法子はクスッと笑って、

「森尾さん、私にカマをかけてらっしゃるんですか?」

「えっ?」

 森尾さん、図星を突かれたらしく、ビクッとした。法子は微笑んだまま、

「それは朝比奈さんだということ、もう御存じなんでしょう?」

「は、はは、参ったな。見抜かれてましたか。どうも私は演技派じゃないなァ」

 森尾さんは照れ隠しのようなことを言いながら、二本目の煙草に火を着けた。

「本人は死んでしまって直接確認することはできませんが、裕子さんに予告状を見せて問いつめた時の反応で、ほぼわかりました。あのひとが庇うとしたら、父親である故人以外、いませんからね」

 森尾さんは煙を吐きながら言った。法子はその流れて行く煙を目で追いながら、

「先輩は、朝比奈さんが差出人のところをプリントしたことを認めたんですか? 」

「いえ。決して認めませんでした。何日も前から、封筒ごとどこかへ行ってしまっていたし、パソコンが書棚の後ろにあるのを知っていた人は朝比奈さん以外にもいるかも知れないと言いましてね」

 森尾さんの発言に法子は興味をそそられたようだ。彼女は森尾さんをジッと見つめて、

「裕子先輩には、他に何を訊かれたんですか?」

 すると森尾さんはハッとして、

「あれっ、いつのまにか私が訊かれる立場になってるじゃないですか」

 法子を見つめ返し、

「今尋ねているのは私ですよ、中津さん」

「はい」

 法子はニコッとして、肩を竦めた。森尾さんもニッと笑って、

「さてと。それから、裕子さんがあの予告状を作成した本人なのは、彼女自身も認めているのですが、貴女にそれらしきことを以前話したことがありますか?」

「いいえ。あの予告状が届くまで、先輩がそんなことを考えているなんて全然知りませんでした」

 法子は真顔になって答えた。森尾さんは煙草の灰を落としながら、

「では、貴女方は高林先生を見ていますか?」

「はい。廊下を朝比奈さんと一緒に歩いて行くのを見かけました」

 法子は、どうしてそんなことを訊くのだろうという顔で言った。私がそう感じたくらいだから、森尾さんも当然それに気づき、

「いえね。高林先生を見たと言うのが、浩一さんと裕子さんだけだと、高林先生が本当に来たのかどうか、疑わしいですからね」

「先輩と浩一さんが口裏を合わせているとでも?」

 法子が尋ねると、森尾さんは煙草を揉み消しながら、

「そうは言いませんがね。一応あの二人は、仲が悪いとは言え、兄妹ですからね」

と言い訳をした。そして、

「それから、朝比奈さんのことなんですが……」

「はい?」

 法子は居住まいを正して言った。私も一緒になって居住まいを正した。森尾さんは身を乗り出して、

「貴女は、あの予告状を朝比奈さんにも見せていますね?」

「ええ。先輩から聞いたのですか?」

 法子は尋ね返した。森尾さんは肩を竦めて、

「そうです。で、どうなんですか?」

「はい、見せました」

「それで、その時の朝比奈さんの反応は?」

「落ち着き払っていました」

「そ、そうですか……」

 森尾さんは少しガッカリしたようだ。しかし法子は、

「でもそれが変でした」

「はァ?」

 森尾さんはキョトーンとした。私も前へならえだ。法子はそんな私達の反応を尻目に、

「あの予告状を見て、何の反応もないなんて、妙でしょう?」

「そ、それはそうですね」

 森尾さんは納得して頷いた。私も何となくわかったような気がした。法子はさらに続けた。

「でもここでまた大きな疑問に突き当たってしまいました」

「えっ? 何ですか?」

 森尾さんはますます身を乗り出して尋ねた。法子は森尾さんをジッと見て、

「もし、朝比奈さんがあの予告状に 『殺人予告者』とプリントした本人なら、何故殺されてしまったのでしょう?」

「あっ!」

 森尾さんのその声は、まさしく意表を突かれたゴールキーパーのそれと同じだった。私も驚いた。

 言われてみれば、そのとおりだ。予告状の「殺人予告者」をプリントしたのが朝比奈さんなら、何故その朝比奈さんが殺されてしまったのだろう? これは難問だ。

「それは確かに、とんでもない疑問ですよね。また袋小路だな」

 森尾さんは腕組みして考え込んでしまった。

「また? またってことは、他にも何かあったんですか?」

 やっと私は会話に入れてもらえた。森尾さんは私を見て、

「高林先生の存在ですよ」

「高林先生の?」

 私はまた例の話かな、と思って法子を見た。しかし森尾さんの話は私の予想を裏切った。

「浩一さんの話だと、高林先生は、10月 8日にも来ているそうなんです。でまた10月10日にも現れた。朝比奈さんはどうしてそんなに頻繁に高林先生を呼んだのだろうということなんです」

 うーむ、確かに。翁が危ないというのならともかく、何故今そんなに何度も呼ぶ必要があったのだろう?

「10月 8日以降から10月 10日以前までで、何かあったのかも知れないと思って調べているんですが、誰に訊いても何も掴めないというような状態でしてねェ」

森尾さんは、ホトホト疲れたというふうに、大きく肩を竦めた。法子も思案顔で、

「事件と何か関係があると考えた方がいいですね」

「ええ」

森尾さんはまた腕組みをした。するとそこへ、

「主任、すみません」

 藤江刑事が現れた。彼は気まずそうに私達に会釈し、森尾さんに耳打ちした。森尾さんは立ち上がって、

「申し訳ありませんでした。では、これで失礼します」

 藤江刑事とともに廊下を歩いて行ってしまった。 それを見届けてから、法子は、

「こうも考えられるわよね」

 呟くように言った。私はピクンとして彼女を見た。

「えっ? 何!?」

 法子は真顔のまま私を見て、

「朝比奈さんは高林先生を殺そうと思って呼んだ。でも逆に自分が殺されてしまった」

「で、でも、それじゃ、前に法子が言った別の疑問に……」

「共犯者がいるのかも知れないわよ」

「あっ……」

 私は朝比奈さんが予告状に「殺人予告者」とプリントした本人なのに殺されてしまった理由わけは、それ以外に考えられないと思った。ところが、我が親愛なる法ちゃんは、

「だけど、それもちょっと変よね」

「えっ?」

 私はまたキョトンとした。法子は私をジッと見て、

「だって、朝比奈さんは睡眠薬を飲まされて殺されたのよ。立場が逆じゃない? しかも、二人の飲み物はコーヒーと紅茶で、すり替えるわけにはいかないのよ」

「そ、そうね」

 私は考え込んでしまった。法子はさらに追い討ちをかける。

「それに、共犯者はいつ朝比奈さんに近づいたのかしら? 浩一さんが部屋を出てから、裕子先輩が朝比奈さんの遺体を発見するまでの間、出入りできた人って誰かいる?」

「うーん、いるような、いないような……」

 私が首を傾げていると、法子は、

「先輩が共犯者だったら、可能なのよね」

 爆弾発言をした。私は仰天して、しばらく何も言えないでいた。

「でも、それも考えられないわ」

 法子は、自分の仮説を一つ一つ否定していく。彼女の頭脳が、今凄まじいスピードで事件を分析している証拠である。

「先輩が居間を出てから私達が駆けつけるまでの間に、朝比奈さんに睡眠薬を飲ませ、短剣を背中に打ち込み、その打ち込むのに使ったものをどこかに隠し、悲鳴をあげて気を失ったふりをするなんて、できはしないわ」

 法子は右手の人差し指で鼻の頭を突きながら言った。

「そうよねェ……」

 裕子先輩が犯人でないらしいのがわかったのは良かったが、まだ疑問はたくさんあった。一体犯人はどうやって朝比奈さんを殺したのだろう? そして高林先生はどこへ行ってしまったのだろうか?

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