第十二章  法医学教室前にて   10月11日

 それからかなりたって、やっと喜多島さんがロビーに現れた。彼は私達に気づくと、軽く右手を挙げて、近づいて来た。

「やァ、法ちゃんに律子さん。やっぱり来ていたんだね」

「どうも」

 私達は異口同音に応えた。喜多島さんは森尾さんが座っていたソファに腰を下ろし、

「まだ解剖は終わっていないんだが、知りたいことはすべて判明したので、出て来たんだよ」

 法子が、

「何か新しいことがわかったんですか? 」

「ああ。犯人の奴、思っていた以上にガイシャを恨んでいたらしい」

「えっ?」

 法子は私の顔を見た。そして、

「どういうことですか?」

 喜多島さんは煙草に火をつけながら、

「ガイシャは短剣で刺された後、後頭部と右脇腹、右脚、左脚と鉄の棒のようなもので殴られている」

「えっ!?」

 さすがの法子もギョッとして私と顔を見合わせた。喜多島さんは煙をフワッと漂わせながら、

「検視では発見できない程度のものだった。死んでから少したって、生活反応がなくなった頃、殴っているようなんだ。つまり、死してなお許せない思いがあった、ということなのかな」

「……」

 喜多島さんは呆気にとられている私達を見ながら、話を続けた。

「最初、現場で検死をした時、身体のあちこちに妙なへこみがあるのは見つけていたんだが、まさか殴った跡だとは思わなかったんでね」

「それで、睡眠薬の方は?」

 法子がやっと口を開いた。喜多島さんは煙草をくわえたまま、

「モルヒネだ」

「モルヒネ? 麻酔に使う?」

 法子は少し驚いたようだ。私はもっと驚いていたが。喜多島さんは軽く頷いて、

「こいつは一般人には入手困難な代物だ。こんなモノを使う奴は、自ずと限定されてくる」

「犯人は、大きな足跡を遺したってわけね」

 法子は腕組みをして、独り言のように言った。喜多島さんは煙草の灰を灰皿に落として、

「そうだね」

と同意した。 そして、

「法ちゃんが気にしていた死亡推定時刻だけど、私が検視で下したものとほぼ同じになるようだよ。モルヒネがどの程度ガイシャの死に影響を与えているか判明すればね」

「そうですか」

 法子は何となく気のない返事をした。そして、

「それから、現場にあった、二種類の煙草の吸い殻なんですけど」

「ほォ、そんなものにまで気づいていたのか。さすがだな」

 喜多島さんはちょっとニヤッとしてから、

「君の考えている通りかどうかわからないが、キャビンマイルドからは朝比奈さんの血液型と同じA型が、そしてハイライトからは、高林先生の血液型と同じAB型が検出された」

 法子は頷きながら、

「おじ様もお気づきだったでしょうけど、あの吸い殻、妙に乾いていませんでしたか?」

「そうだな。何時間か前に吸われたものとは思えない程、カラカラに乾いていたな」

 あれ? そうだっけ? 私、全然気づかなかったわ。すると喜多島さんが、

「犯人の偽装工作の可能性がある、ということか」

 呟くように言った。私はハッとして喜多島さんを見た。法子は大きく頷いて、

「そうですね。でも、何のためなのかはわからない」

「うむ。目的は不明だな」

 もしもあの吸い殻が犯人の偽装工作だとすると、一体どういうことになるのだろう?

「おっ、終わったらしいな」

 喜多島さんは、ロビーにゾロゾロと戻って来た森尾さん達に気づいて立ち上がった。すると法子が、

「ねェ、おじ様、解剖を担当した大崎先生と話ができないかしら?」

 喜多島さんは一瞬考えるような仕草をしたが、

「何とかなるだろう。我々の方ももう用はすんだからね。あとは法ちゃんの腕次第だな」

 ニヤニヤした。法子は目を見開いて、

「それ、どういう意味ですか?」

 喜多島さんは、笑いながら、

「大崎先生はまだ20代の若い医師だ。なかなかの男前でね。法ちゃんのことを気に入ってくれれば、何でも話してくれるよ」

 法子もクスッと笑って、

「あら、それじゃ、何も話してもらえないかも知れませんね」

 喜多島さんは右手で別れの挨拶をしながら、森尾さん達の方へ近づいて行った。

「大崎先生って、いい男なんだ」

 私が思い出したように言うと、法子は、

「律子、鼻の下が伸びてるわよ」

 ニコニコして言った。私は赤面して、

「な、何よもう」

 法子はしばらく微笑んでいたが、やがて真顔になって、

「とにかく、大崎先生に会ってみましょうよ。彼がいい男かどうかは別にして」

「ええ、そうね」

 私もマジメな顔になって言った。


 私達は医学部棟の奥にある法医学教室に向かった。

「あっ!」

 廊下の向こうを歩いている若い医師の姿を見つけて、私は叫んだ。法子も気づいたようだ。

「大崎先生!」

 法子はいきなり声をかけた。すると廊下を歩いていた若い医師は、その声に応じて立ち止まり、振り向いた。

「すみません、大きな声を出して」

 法子は、若い医師に近づきながら言った。その医師は私達を医学部の学生とでも思ったのか、

「質問なら、手短かに頼むよ。これから解剖の結果をまとめなければならないんだ」

 おっ! 確かに素敵なマスク。背も高いし、彫りも深い。眉もキリッとしていて、ホントにいい男だわ。

「すみません、お忙しいのに。私、朝比奈裕子さんの後輩で、中津法子と言います。そして、このは私の友人で、神村律子です」

 法子がそう言うと、大崎先生は少々びっくりしたように法子を見つめた。そして、

「裕子さんの後輩の……。では、朝比奈さんの遺体発見を警察に通報したのは、貴女ですか」

 急に丁寧な口調で話しかけて来た。法子は微笑んで、

「そうです」

「それで、私にどんなご用ですか?」

 大崎先生は抱えていた書類を持ち直して尋ねた。法子は、

「朝比奈さんの容態はどうだったのですか? 倒れられた時の」

「ああ、そのことですか。朝比奈さん本人もよくわかってらっしゃったでしょうけど、命にかかわるような状態ではなかったのですよ。それなのに、弁護士を呼んで遺言状まで作成して……」

 大崎先生は少し苦笑しながら言った。法子はさらに、

「遺言状を? 入院中にですか?」

「そうです。私に立会人になってくれ、と言われたのですが、辞退しました」

「どうしてですか?」

 法子の質問は、澱みなく続く。大崎先生は小さく溜息をつくと、

「医師として、公正な立場でいたかったからです。私は、朝比奈家の主治医ですから、どなたとも顔を合わせる機会がありますので」

 法子は軽く頷いた。なるほど。あの浩一や礼子に遺言状の内容について追求されれば、この人の好さそうな大崎先生は、口を噤み通せないだろうからなァ。

「それから、朝比奈さんが飲まされたモルヒネなんですけど」

 法子が言うと、大崎先生、まるで死刑執行の日の囚人みたいにギクッとして、青白い顔になり、法子を見た。

「モ、モルヒネが、何か?」

 あまり大崎先生の反応が凄かったので、法子もちょっとびっくりしたらしい。

「あ、あの、モルヒネって、一般の人、例えば私達のような立場の人間でも、手に入れられるんですか?」

 法子らしくない言い方になってしまった。 大崎先生は深呼吸をするように大きく息を吸ってから、

「そ、そうですね。今は中高生や主婦にまで、麻薬や覚醒剤が浸透していますからね。手に入れようと思えば、手に入れられるんじゃないですか」

 法子はその答えに不満があるような顔をしていたが、

「それから、短剣のことなんですけど」

「短剣? ああ、凶器ですね。それが何か?」

 大崎先生、ハンカチで額の汗を拭い、手の汗で張りついた書類を引き剥がしながら言った。

「あの短剣は、一体何回叩かれて打ち込まれたのですか?」

 法子が尋ねると、大崎先生は半分上の空のような顔をしていたが、ハッとして、

「あ、ああ、そうですね。刺創と凶器の厚さ、長さ、幅から考えて、10回近く叩かれたのではないかと思います」

「そんなに!?」

 法子と私は、思わず顔を見合わせた。大崎先生は、

「それくらい叩かないと、あの短剣では背中から心臓を貫くことはできませんよ。何しろ、刃がついていませんからね」

「そうですか」

 法子はしばらく思案顔をしていたが、

「生前の朝比奈さんはどんな方でしたか?」

 大崎先生は一瞬キョトンとしたが、すぐに気を取り直して、

「そうですねェ、プロにはプロとして接してくれる方、というのは、わかりにくいですか?」

「ええ、ちょっと……」

 法子はニッコリして応えた。大崎先生は頭を掻きながら、

「あの方は、とにかく他人にも自分にも厳しい方でした。私にも、医者としてベストを尽くすようにいつもおっしゃって下さって」

「なるほど」

 法子は頷きながら大崎先生の目をジッと見つめていた。大崎先生もそれに気づいて、

「あの、何か他にお訊きになりたいことでも?」

 法子は微笑んで、

「いえ、もうお訊きしたいことはみんな訊かせていただきました」

「そうですか。では、私はこれで」

「ありがとうございました」

 大崎先生は私達に軽く頭を下げて、去って行った。

「やるゥ、法ちゃん」

 私が冷やかし半分に言うと、法子はクスクス笑って、

「何よ、律子」

「だってさ、大崎先生にあんなにいろんなこと喋らせちゃうんだもの。先生、法子のこと、気に入ったんじゃないの?」

 私は実際そう思って言った。でも当の法子は全然そんなこと思っていないらしく、

「何言っているの」

 笑って廊下を歩き出した。そして、

「今日は講義サボっちゃおうか?」

 呟くように言った。私はまァ珍しいという顔で、

「え、どういう風の吹き回し?」

 法子は真顔になって、

「先輩に会いに行きましょうよ」

「先輩に?」

 私はおうむ返しに尋ねた。法子は大きく頷いて、

「そう。きっと先輩、すごく悲しんでいると思うの。だから、私達ではげましてあげましょうよ」

「そうね。それがいいわね」

「ねっ?」

 法子はニコッと笑った。よく見る笑顔だが、こういう時の彼女の笑顔は、本当に気持ちが良くなる。

「その前にもう一度、喜多島のおじ様に会って、確かめておかなくちゃならないことがあるわ」

「喜多島さんに?」

「ええ。行くわよ、律子」

 法子は少し歩を速めてロビーに向かった。

「あっ、待ってよ、法子ォ!」

 私は小走りで法子を追いかけた。

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