第四章  長次郎翁との話  10月10日

 それから、私達は翁がいる居間のドアの前に来るまで、ずっと黙っていた。

「どうぞ」

 裕子先輩のドアノックに応えて、少し嗄れた声がした。長次郎翁の声だ。

「失礼します」

 先輩がドアを開いて中に入り、法子と私を招き入れてから、ドアを閉じた。

 中は、畳二十畳分くらいの広さで、中央には重厚で格調のある木製のテープルがデンとあり、それを囲むようにゆったりとした二人掛け用のソファが二脚、一人掛け用が二脚、それぞれ向かい合って置かれており、そのうちの一つの一人掛け用に、翁は座っていた。彼は奥のソファに座っていたので、入って来た私達に気づくと、ニッコリして立ち上がった。

「これはこれは。若い女性の、しかもこんな可愛らしい方がお二人もご訪問とは、光栄の至りですな」

 翁は実に気さくな感じで話しかけて来た。法子はニッコリ微笑み返して、

「ありがとうございます、朝比奈さん」

「さァ、掛けて下さい」

 翁は私達が二人掛けのソファに座るのを見届けてから腰を下ろした。さっすが、礼儀を弁えてらっしゃる。

「裕子、何かお飲物を頼むよ」

「はい、お父様」

 裕子先輩は明るく応えると、居間を出て行った。

「さて、私に何かお話でもありますのかな? 生憎、客がもうすぐ来るので、あまり長くはお相手できませんがな」

 翁は先輩が出て行ったのを確認してから、そう尋ねた。法子は、

「これを見て頂けますか?」

 内ポケットから封筒を取り出し、わざと裏を上にして、テーブルの上に置いた。もちろん、翁に見易いように。

「ほォ」

 翁はあごのひげを撫でながら、封筒に顔を近づけ、じっくりとそれを観察していた。

「殺人予告者、ですか。随分とブッソウな差出人ですな」

 長次郎翁は顔を上げて言った。法子は翁をジッと見て、

「この封筒が、昨日の夜から今朝の間だと思われますが、私のアパートの郵便受けに入れられていました」

「なるほど」

 翁は全く動じた様子なく頷いている。法子は封筒を手に取り、中から便箋を取り出してテーブルの上で開いた。翁は便箋の文字を一文字一文字まさに舐めるようにに読んでいたが、

「この手紙の差出人は、朝比奈家で殺人を犯すと宣言しているのですな」

 確かめるように法子を見た。法子は頷いて、

「そういうふうにもとれますね」

 不思議とも思えることを言った。私はキョトンとして法子を見た。翁は眉を顰めて、

「それはどういうことですかな?」

「その殺人予告者とプリントした人物と便箋にプリントした人物が同一人物ではないらしいと思えるからです」

 法子がキッパリとした口調で答えると、翁の目がほんの一瞬だが鋭くなった。法子もそれに気づいたらしく、

「朝比奈さんは、この殺人予告者とプリントした人物に心当たりがありますか?」

 顔を覗き込むようにして尋ねた。翁は再び柔和な顔つきになり、

「さァ、わかりませんな。一体誰がそんなことをしたのでしょうな」

 恍けたように答えた。するとそこへ裕子先輩がコーヒーを持って入って来た。

「どうぞ」

 先輩はまず私達に、そして翁にカップを置いた。

「裕子、お前この手紙のことを知っているか?」

 翁は先輩を見上げた。先輩はチラッと法子を見てから、

「ええ。法子さんにさっき見せてもらったわ」

「この差出人について何か知っているか?」

「いいえ」

「そうか」

 翁は少し思案顔をして黙ってしまった。先輩が私達の向かいのソファに腰を下ろして、

「お父様、お訊きしたいことがあるんだけど……」

 言いかけた時、玄関のチャイムの音が聞こえた。翁はそれに気づくと先輩を見て、

「裕子、きっと高林先生だろう。三池さんは今キッチンで洗い物をしているから、お前が出迎えて差し上げなさい」

「はい」

 先輩は仕方なさそうに返事をし、私達を見てから立ち上がって、部屋を出て行った。

「申し訳ありません、お嬢さん方。客が来たようです。裕子の部屋か、ここのどちらでも結構ですので、どうぞごゆっくり……」

 翁も立ち上がって言った。法子も立ち上がったので、私も慌てて立ち上がった。

「では失礼」

 翁は軽く会釈した。法子と私はそれに応じた。翁はそのまま居間を出て行った。

「ねェ、法子ォ」

 私は翁が後ろ手にドアを閉じるのを見届けてから口を開いた。

「何?」

 法子はソファに戻りながら言った。私も腰を下ろして、

「朝比奈さん、何か隠してない?」

「そうね。そんな感じね」

 法子は少し上の空って感じで応えた。

「何よ、その言い方は……。心ここにあらずね」

 私がムッとして言うと、法子はクスッと笑って、

「ごめん、律子。そんなことないよ」

 そして、

「朝比奈さんは確かに何か隠しているわ。でもそれがあの予告状についてなのか、何か他のことなのかはわからないわね」

 コーヒーカップを手に取って言った。私もカップを手にして、

「他のこと? 一体何?」

「それはわからない。そんな感じがするってだけのことだから」

 その時、居間の前の廊下のあたりで話し声がし、足音が少しずつ奥へ向かって行くのが聞こえた。法子はパッと立ち上がると、居間のドアに近づき、少しだけそれを開いた。

「あれが高林先生かしら?」

 彼女はドアの隙間の向こうに見える、翁の後ろ姿と、もう一人の小柄な黒いスーツを着て黒い山高帽をかぶった白髪の老人を見ながら言った。私もドアから顔を出し、

「みたいね」

と呟いた。すると、

「二人共、どうしたの?」

 裕子先輩が声をかけて来た。私達はハッとしてドアを開き、先輩を招き入れてから閉じた。

「あの人が高林先生っていう人なんですか?」

 私が尋ねると、先輩は頷いて、

「そうよ。父の会社全体の顧問弁護士のリーダーなの。全部で百人くらいいる中のね」

「こ、顧問弁護士が百人!?」

 私はすっかり仰天してしまった。一体どれほどの規模なのだろう、朝比奈グループって。

「どんな御用なんですか?」

 法子が口を開いた。裕子先輩はギクッとして法子に目をやってから、

「さ、さァ……。私にはわからないけど。きっと難しい御用なんでしょうね」

「そうですか」

 法子は当てが外れたような目を私に向けてから、肩をすくめた。

「それより、さっきの手紙のことなんだけど……」

 先輩は法子の顔を見た。法子も先輩を見て、

「はい。朝比奈さんは何かを知っているみたいですね」

「そうね。父の態度、変だったわ」

 裕子先輩は少々寂し気な表情で応えると、ソファに近づいた。法子も私に目配せして、ソファに近づいた。

「犯人は父かしら?」

 先輩はソファに腰を下ろしながら、独り言のように呟いた。法子はその向かいに座り、

「先輩からの情報と、朝比奈さんの態度、それから私の考えを合わせてみると、それが正しい答えだと思います」

 静かに言った。先輩は目を伏せたままで、

「そうね。そのようね」

と言ったきり、口を噤んでしまった。私は法子の隣に座って、ただ先輩の悲し気な顔を見ていた。

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