第五章  殺人が起こったのか?  10月10日

 私達三人の沈黙を破ったのは、居間の壁に備え付けられているインターフォンだった。

「はい」

 先輩はすぐさま立ち上がり、インターフォンに近づいてボタンを押した。

「裕子か。私の部屋に飲み物を頼む。私のはそこにあるコーヒーでいい。高林先生には、紅茶をお持ちするように」

「わかりました」

 先輩は私達に目配せをすると、翁のコーヒーカップをトレイに載せ、居間を出て行った。

「何で三池さんに頼まないのかしら? 三池さん、キッチンにいるんでしょ? 確かキッチンにもインターフォンあっわよね」

 私が言うと、法子は、

「さァ。何か理由わけがあるんじゃないの」

 私は法子の返答に反論したかったが、言葉が見つからないので諦めた。

 これは後で法子が指摘するのだが、実は大変な理由があったのである。

「おやっ?」

 いきなりドアが開いて、浩一が顔を出した。法子と私は彼に気づき、軽く頭を下げた。しかし浩一はそれには応じずに、

「親父を見かけなかったか?」

 横柄な口の利き方で尋ねた。法子はそれでもニッコリして、

「朝比奈さんなら、ご自分のお部屋です。高林先生とご一緒ですよ」

 浩一は途端に眉をつり上げて、

「高林と!? また何の相談だ?」

と言いながら、ドアを閉じた。

「何よ、あの態度!?」

 私はドアが閉じ、浩一が去ったのを確認するや否や(まさにas soon asよ!)、ムッとして言った。法子はクスッと笑って、

「怒らない、怒らない。そのくらいのことでいちいち怒ってちゃ、身体に悪いわよ、律子」

 宥めてくれた。私は口を尖らせたまま、

「それはそうなんだけどさァ……」

 実は私、浩一の正体を知る前は、裕子先輩のお兄様ってことで、内心かなり期待して朝比奈邸に来たことがあるのだ。今にして思えば、ホントにバカな私って感じだわ。

「それよりさ、あの人、妙なこと言わなかった?」

 法子は不意にそう言った。私はキョトンとして、

「妙なこと? 何が?」

 尋ね返した。法子は苦笑いして、

「ううん、いいの。私の思い違いかも知れないから」

と言い、教えてくれなかった。


 しばらくして、先輩が居間に戻って来た。

「さっき、兄がここに来たでしょ?」

 先輩は少し嫌そうな顔で尋ねた。法子が頷いて、

「はい。朝比奈さんがどちらにおられるのか聞いて、出て行かれましたよ」

「やっぱりね。父の部屋を出て、廊下の角を曲がったところで、兄とぶつかりかけたのよ」

 先輩はソファに腰を下ろして言った。そして小さく溜息を吐くと、

「すごい形相だったわ。また父とやり合うつもりみたいだった……」

 悲しそうに私達を見た。法子は真剣な顔で、

「何かあったんですか、お兄さんと朝比奈さん?」

「ええ、ちょっとね」

 先輩はあまり聞かないでほしいかのように俯き、言葉を濁した。そして、

「あ、やだ、私、砂糖とミルクを持って行くの忘れてたわ……」

 逃げるように部屋を出て行ってしまった。

「何があったのかしら、あの気分の悪い兄貴と朝比奈さん……」

 私が独り言のように口にすると、法子は、

「お金持ちには、私達一般庶民にはわからないような、いろいろな悩みがあるものなのよ」

 私は、

「フーン」

 何となく納得してしまった。


 それからどのくらい時間が経ったのだろうか? 私はボンヤリと「殺人予告者」について思いを巡らせていた。法子はさっきからずっと考え込むようにして、目を伏せたままである。

 その時だった。

「きゃああァッ!!」

 それは裕子先輩の、絶叫とも言える悲鳴だった。

「何、今の!?」

 法子はピクンと身体を動かして立ち上がった。私は息を呑んで、

「せ、先輩の声だったわね?」

「そうね」

 法子はごく冷静に私に答えると、ドアに向かった。私は法子から離れまいとそれに続いた。

「確か、こっちよね」

 私が恐る恐る奥の方を見た時、

「今の声、裕子さんですか?」

 松子が声をかけて来た。私達は松子の方に顔を向けた。彼女はロビーの方からやって来たようだった。

「そうみたいです。今見に行こうとしていたところなんです」

 法子が答えると、松子は心配そうな顔で、

「一体何があったのでしょう?」

 法子はニコッとして、

「ゴキブリが出ただけかも知れませんから」

と言って、先に歩き出した。その後に松子が続いた。私は松子の後ろから歩いて行こうとしたが、

「あの……」

 キッチンから出て来た三池さんに呼び止められた。法子と松子も三池さんに気づき、立ち止まって振り返った。

「何でしょう?」

 私が尋ねると、三池さんは少し申し訳なさそうな顔で、

「何があったのですか?」

と尋ね返して来た。私はちょっと考えてから、

「今、裕子先輩の声が聞こえたんです。それも悲鳴でした。聞こえませんでしたか?」

「はい。ちょうど圧力鍋で料理を作っていたので、聞こえなかったのかも知れません。その後で、皆さんがドアを開く音と話し声が聞こえましたので……」

 三池さんは相変わらず申し訳なさそうに話す。私は思わず法子に目をやった。法子は私と松子を交互に見て、

「とにかく、朝比奈さんの部屋へ行ってみましょう」

「ええ、そうね」

 法子と私と松子は、ポカンとしている三池さんを尻目に、翁の部屋に向かった。

「そう言えば、浩一さんはどうしたのかしら?」

 私が思い出したように言うと、松子が、

「浩一さんはご自分の部屋に戻られていると思います。さっきベランダにおられるのを見かけましたから」

 法子は歩を進めながら、

「その他の方はどちらに?」

「はい、庭師の山本さんは庭園にいますし、礼子さんは居間の脇のサンルームにいらっしゃると思います。それが何か?」

 松子は不思議そうに法子に尋ねた。法子は松子を見てニコッとし、

「いえ、別に。それと、高林先生はまだ朝比奈さんのお部屋でしょうか?」

「高林先生ですか? さァ……。出て行かれたのは見ておりませんので、そうではないでしょうか」

 松子は考え込むようにして小首を傾げた。私はその何とも言えない自然な動きと色気に、女盛りの魅力を感じた。(私は同窓会などで、男共に「色気がない」と言われてばかりいるので、羨ましい限りだ)

 確かに彼女は、裕子先輩があと何年かすればこんな感じだろうというくらい、先輩に似ていた。つまり、江威子さんに似ているのだ。翁が気に入るのも無理ないよなァ。


 私達はまもなく翁の部屋の前に来た。彼の部屋は離れのようになっており、私達は途中、渡り廊下のようになっているところを通った。

「こちらです」

 松子が先に立って歩き、ドアの前に向かった。彼女はドアを軽くノックした。

「貴方? いらっしゃいますか?」

 しかし、ドアの向こうからは翁の返事はおろか、裕子先輩の声も聞こえて来ない。松子は不安そうに法子を見た。私も法子に目をやった。

「入ってみましょう」

 法子は松子を促した。松子はゆっくり頷いて、ドアを開いた。先に法子が入り、次に松子、そして私が入った。

「先輩!」

 私は部屋の中のソファに凭れるようにして倒れている裕子先輩を見つけて叫んだ。床には砂糖とミルクが飛び散っており、それぞれの入れ物も砕け散っていた。

「ああっ!!」

 松子の声がした。法子はその声に反応し、右手奥を見た。私も恐る恐る、そちらに目をやった。

「きゃっ!」

 思わずそう叫んでしまった。私の視界に、机に向かって座っている格好で、背中に短剣を突き立てられている翁の姿が飛び込んで来たからだ。

「朝比奈さん!」

 法子はすぐに翁に近づいた。松子はオロオロして、動くことも声を出すこともできない。私は翁と裕子先輩を交互に見ながら、法子に声をかけるので精一杯だった。

「ど、どうしよう?」

 法子は翁がすでにこの世の人でないことを確認したらしく、悲しそうな目で私を見ると、

「律子、すぐに警察に連絡して。朝比奈さん、亡くなっているわ」

「え、ええ……」

 私は応えるには応えたが、身体が動かない。今になって、人一人が死んだことを実感して、恐怖が込み上げて来たようだ。すると、それに気づいた法子が、

「警察へは私が連絡するわ。貴女は先輩を看てあげて」

 裕子先輩を見ながら言ってくれた。私はコクンと頷くと、足下に倒れている裕子先輩の脇に膝をついて、

「先輩、しっかりして下さい」

と声をかけ、肩を揺すった。法子はそれを見届けてから、松子を見た。

「奥さん、電話はどこにありますか?」

「ベッドの脇のワゴンの上にあります」

 松子は消え入りそうな声で答えた。法子は頷くと周囲を見回し、部屋の反対側の端にあるベッドに向かい、その脇のワゴンに載っている電話の受話器をハンカチで包むようにして取り、もう一枚ハンカチを出して、指紋が着くのを防ぐためなのか、それで右手の人差し指を覆い、ボタンを押した。

その間、私は先輩を呼び続けた。十回ほど呼んだところで、裕子先輩はようやく目を開けた。

「あっ、律子さん……」

 先輩は少しボンヤリした目で私を見て、ゆっくりと起き上がった。私は彼女に肩を貸し、ソファに腰掛けさせた。

「父が……」

 先輩が口にしたので、私は自分を落ち着かせる理由もあってゆっくり頷き、

「わかってます。今、法子が警察に連絡してくれてますよ」

 裕子先輩はホッとしたような顔になり、

「そ、そう……」

 涙をポロポロ流し始めた。今、彼女は父親を失った悲しみをやっと感じ始めたのだ。

「裕子さん……」

 松子も涙声で先輩の隣に座った。二人は抱き合って啜り泣いた。私もそんな二人を見ているうちにもらい泣きしてしまった。

「律子」

 法子が静かだが強い調子で私を呼んだ。私はハンカチで涙を拭いながら、

「何?」

 法子に近づいた。彼女は真剣な目で、

「警察の人が来る前に、いくつか調べておきたいことあるの。協力して」

「え、ええ……」

 私は少しも動揺していない法子に戸惑いを覚えながらそう応えた。

「高林先生はどこに行ったのかしら?」

 彼女は言った。私もそう言われて改めて部屋の中を見回した。

「そ、そう言えば、姿が見えないわね」

 法子はソファの前にあるテーブルに近づき、その上に置かれたガラスの頑丈そうな灰皿とコーヒーカップ、ティーカップに目をやった。

「コーヒーは残っているけど、紅茶は全く飲んだ様子がない」

 法子は次に灰皿の 中の吸い殻を見た。

「銘柄は二種類ね。キャビンマイルドとハイライト。灰がやけに細かくなっているわね」

「キャビンは父のものだわ」

 裕子先輩が顔を上げて言った。法子は先輩を見て、

「となると、ハイライトは高林先生のものですか?」

「それはちょっとわからないわ」

 裕子先輩は目を伏せるようにして答えた。法子は軽く頷いて、次に散らばった砂糖とミルクを避け、再び翁に近づいた。

「この短剣、柄が潰れている。どうしてかしら?」

「えっ?」

 私も興味をそそられて、少し怖かったが、翁の死体に近づいた。確かに背中に突き立てられた短剣の柄は、何かで叩かれたのだろうか、潰れていた。何だろう?

「そ、その短剣は……」

 裕子先輩はフラフラしながら立ち上がり、翁に近づいた。法子が先輩をサッと支えた。

「私が父のフランスのお土産でもらったものよ。でも、刃がついていない偽物なのよ」

 先輩のこの発言には、私はもちろんのこと、ふだんあまり動じたことがない法子もびっくりしたようだった。

「裕子さん……」

 松子も驚いて立ち上がっていた。法子はしばらく短剣を見つめていたが、やがて、

「とにかく、ここを出ましょう。一応、いくつかのことは確認できました」

 私達は法子に追い立てられるように翁の部屋を出た。もう物言わぬ翁だけを残して……。


「警察はもうすぐ来ると思いますので、ご家族の方全員に居間に集まってもらって下さい」

 法子は松子に言った。松子は、

「は、はい」

と弱々しく応えた。法子は私の腕を引き、松子と裕子先輩から離れた。

「な、何よ?」

 私が小声で尋ねると、法子も小声で、

「高林先生、どうしたと思う?」

「そ、そうねえ……」

 二人いた部屋で一人が死んでいて、もう一人が姿を消していれば、一般的に考えて、姿を消した者が犯人ということになる。しかしそれでは……。

「思い当たったことがあるみたいね?」

 法子が言ったので、私は少しビクッとしながらも、

「ええ。もし高林先生が犯人だとしたら、あの 『殺人予告者』 の手紙を出した人物ではあり得ないことになるわ」

「そうね。高林先生と私は一面識もないし、ましてや高林先生が私のアパートを知るはずもない。それに高林先生には、裕子先輩のあの手紙を持ち出すチャンスがあったとは思えないわね」

「そう、そうよ」

 私は大きく頷いてみせた。法子もそれに応じて頷き、

「となると、あの手紙を出した人物と高林先生は別人の可能性が高いことになる。すると、朝比奈さんが殺されたことは、あの手紙とは無関係、という可能性も出て来るわね」

「でも、それにしてはタイミングが良過ぎない?」

 私は反論してみた。法子は、

「そうよ。タイミングがあまりにもいいのよね。やっぱり無関係じゃないと思うわ」

「そ、そうよね」

 私はもう一つの疑問に行き当たった。あの短剣だ。

「それにあの短剣は……」

 私が口にすると、法子はそれを遮るように、

「それも高林先生が犯人であるとすると、解決し難い疑問になるわね」

 私は頭がこんがらがりそうだった。

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