第十六章 いくつかの新事実 10月11日
「山本さん」
法子は山本さんに声をかけた。彼は手拭いで手を拭きながら、
「どうも」
少しだけ微笑んで応えた。山本さんは翁と一番長いつき合いだったのだ。その悲しみは、先輩達と変わらないはず。
「今日は、大変だったでしょう?」
法子が言うと、山本さんは、
「いや、私なんか何もしてませんから。悦ちゃんは大変でしたよ、確かに」
悦ちゃん? ああ、三池さんのことか。法子は山本さんに小声で、
「いくつかお尋ねしたいことがあるんですけど、よろしいですか?」
「え? ええ、かまいませんけど」
山本さんは手拭いをズボンの後ろのポケットに入れながら応えた。
「事件のあった頃、庭園で松子さんと会いましたか?」
「ええ、それは警察の方にもお話しました。確かに奥様にお会いしましたよ」
山本さんは答えてくれたが、やはり不思議そうな顔をしている。法子はさらに、
「その時、二階の浩一さんの部屋のベランダに浩一さんがいるのを見ましたか?」
「うーん、ちょっと待って下さいよ」
山本さんは腕組みをして考え込んだ。そして、
「そうそう、いらっしゃいましたよ。私は奥様と話していた時、邸を背にしていたので、すぐには気づかなかったですけど」
「そうですか。浩一さんも、お二人に気づいたようでしたか?」
「いえ、浩一様は、こちらを見ておられなかったので、御存じないと思います」
山本さんは腕組みを解いてそう言った。法子は、
「浩一さんは、どこを見ていたのですか?」
「旦那様のお部屋の方を見ておられたと思いますが」
山本さんの答えに、私はビックリして法子を見た。法子も私をチラッと見てから、
「浩一さんの部屋から、朝比奈さんの部屋の中は見えるんでしょうか?」
「さァ、どうでしょうか。私にはわかりませんが……」
「そうですか。どうもありがとうございました」
法子は応え、山本さんに会釈すると庭園を離れた。
「浩一さんに話を聞ければいいのにね」
私が言うと、法子は、
「浩一さん、いないわよ。ベンツがないから」
そう言えば、ガレージからベンツがなくなっている。浩一の車か。いつ出かけたのだろう?
「とにかく、今日は一旦帰りましょう。明日また来ればいいわ」
法子が歩き始めた時、ベンツが門の方から走って来た。浩一が乗っている。
「あっ、グッドタイミングね」
私が言うと、法子は、
「そうね」
と微笑んだ。浩一は私達に気づき、ベンツを停めた。
「何か用かい?」
彼はウィンドウを開けながら、ブッキラボウに尋ねて来た。法子はすかさず、
「事件のあった頃、ベランダに出て朝比奈さんの部屋の方を見ていたそうですが、何をなさっていたんですか?」
浩一の顔が険しくなった。何でそんなこと知ってるんだ、というような目で、私達を睨む。そして目をそらし、
「君らには話す必要はないだろう」
「盗聴、ですか?」
法子が言うと、浩一はビクッとして彼女を見た。私もビックリして法子を見た。
「何を言い出すんだ? 失礼だぞ」
もう少しで浩一は車から降りて来そうだ。法子、あんまり挑発しないでよォ。しかし法子は、そんな私の気持ちなんて全然知らない様子で、
「あのベランダの花、きれいですね」
唐突に話題を変えた。おっ、彼女、何か仕掛けるつもりだな。浩一はキョトンとしたが、
「何が言いたいんだ?」
また険しい顔になった。法子はニッコリして、
「集音機を隠すには、ちょうどいい大きさの花ですね?」
「……」
何故か浩一は押し黙ってしまった。法子は追撃の手を緩めたりしない。
「何を聴こうとしたのですか?」
「そんなことはしていない」
浩一はプイと顔をそむけ、車をスタートさせようとした。法子はさらに、
「あの花の名前、御存じですか?」
浩一はまたピクンとして法子を見た。そして、
「知らないよ」
「ご自分で買われたのに?」
「俺が買ったんじゃない。あれは……」
そこまで言うと、浩一はハッとして口を噤んだ。これだ。法子の仕掛けた罠は、これだった。わざと間違ったことを言って、本人に本当のことを言わせる。浩一は見事に引っかかった。しかし、彼は途中でそれに気づき、口を閉ざしてしまった。
「お話できないような人からもらったのですか?」
法子はおとぼけを続けた。浩一はキッとして法子を見ると、
「君達は確か、警視庁の喜多島とかいう奴と知り合いだったな?」
「はい。それが何か?」
法子は尋ね返した。浩一は前に目を向けて、
「変に疑われるのは嫌だから敢えて言うが、あれは俺が今つき合っている女からもらったものだ。だから花の名前なんか知らない」
「そうなんですか」
浩一は再び私達の方を見て、
「だが、彼女は今度の事件にはいっさい無関係だぞ。もちろん俺もだ」
ついにベンツをスタートさせ、ガレージに走り去ってしまった。
「今度こそ帰りましょうか」
法子は歩き出した。私が、
「結局、大したこと聞けなかったね」
残念に思って口にすると、法子は、
「そんなことないよ。いろいろわかったわ。あとは高林先生ね」
「えっ? 高林先生?」
私は尋ねてしまった。法子は私を見て、
「そう、高林先生よ。この事件の発端でもあり、最大の謎でもあるね」
私達がガレージに着いた時には、浩一はすでにそこにはいなかった。私達は車に乗り込むと、朝比奈家をあとにした。
「ちょっと待ってて」
法子は道路の端に車を停めて外へ出た。
「どうしたの?」
私も降りようとすると、
「すぐすむわ」
スーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、どこかに電話をした。どこに電話しているんだろう? 彼? まさかね。彼女は私に背を向けて小声で話しているので、会話の内容はわからなかった。
「お待たせ」
私が下らない思いを巡らしているうちに、法子は車に乗り込んで来た。
「どこに電話してたの?」
「喜多島のおじ様よ」
法子はエンジンをかけながら言った。私は一瞬呆然としたが、
「で、何を話したの?」
すると法子はいたずらっぽく笑って、
「ヒ、ミ、ツ!」
「もう!」
そんなやりとりをしながら、私達は法子のアパートに向かった。
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