第一章 憎み合う家族達 9月27日
話は何日か前に遡ることになる。
東京は東西に長いところである。都心では雨でも多摩地区では雪、ということが多い。
八王子市は山梨県側にある市だが、国道16号線や20号線、中央高速や圏央道などが集まる交通の要所であるため、車が渋滞する、ドライバーにとっては厄介なところである。
その八王子市の日野市寄りで多摩市寄り、つまり東南の一角にその邸はある。建て坪200坪を超える、化け物屋敷のような洋風の家だ。言うまでもなく、それが朝比奈家である。
その朝比奈家の当主は朝比奈長次郎と言う。法子と私は、裕子先輩を訪ねて行って、何度か顔を合わせている。先輩の父親にしては随分と年をとっているという感じが否めないほどである。髪は真っ白、口鬚も白。皺も多く、笑うとその数が倍になりそうだ。しかし、その反面、目は鋭い。
もちろん、その鋭さには理由(わけ)がある。
彼は日本有数の企業グループの総帥であり、政界にも睨みを利かせている、いわゆる「
その長次郎翁が倒れた。9月の初めであった。過労のためとの医師の診断であったが、翁は万一のことを考え、顧問弁護士の高林明夫氏を呼び寄せて、遺言状を作成させた。翁は自分がすぐ死ぬとは思っていなかったが、自分の家族の醜い遺産の争奪戦を憂えてのことであった。そんなことを心配しなければならないほど、翁の家庭は荒れていた。その原因を作ったのは、翁自身であったが……。
翁は5回も結婚している。そのうち、裕子先輩の母親である江威子さんには死に別れているのであるが、あとの三人とは離婚している。
現在いる奥さんは五人目で、松子と言う28歳の女性である。翁は今年で70歳になるが、奥さんの方はどんどん年令が下がっている。一人目の政代が63歳、二人目の伊久子が45歳、三人目の江威子さんが生きていれば43歳、四人目の則美が39歳という具合である。
また、彼女達との間にできた子供だが、裕子先輩以外に二人いる。
一人は、政代との間にできた、浩一と言う40歳の男である。この男、一見ニヒルな二枚目であるが、実はいつも裕子先輩をいじめ、家から追い出そうとしている嫌〜な男で、裕子先輩も浩一のことを嫌っている。このオッさん、未だに独身で、しかもクラブのホステスに入れ揚げてるって話だ。ホント、やァね、男って。
そしてもう一人は、伊久子との間にできた24歳になる礼子である。彼女は美人であるが、それと引き換えに優しさと労りをどこかに置いて来てしまったような女で、浩一同様、陰険で執念深く、翁に一番可愛がられている裕子先輩をひどく煙たがっている。
そんな二人の兄と姉に囲まれて育った先輩の辛さと言ったらなかったろう。またこれが似合ってるんだな。裕子先輩は薄幸の美女という活字をバーチャルリアリティーの世界で表現したとしたら、まさにこんな
でも実際には先輩はすごくしっかりしているから、シンデレラのような感じはしない。
末っ子は一番可愛がられると言うが、先輩が可愛がられるのには、理由(わけ)があるのだ。当然母親の江威子さんが亡くなったのも、理由の一つであろう。しかしそれ以上に翁にとって裕子先輩は可愛かったのだ。実は江威子さんは、翁が愛したただ一人の女性だったのだ。だからこそ、その忘れ形見である裕子先輩は可愛いのである。
えっ? 普通それほど愛した女性と死に別れたら、もう一度結婚したりしないって?
そ、そりゃそうよね。だからね、四人目の奥さんの則美とは、ほとんど打算で結婚したわけ。江威子さんが亡くなったのは、裕子先輩が三歳の時で、母親が必要と考えたからなのよね。
でも則美自身も打算で結婚していたから、彼女は母親として振る舞うことなんて決してなかった。朝比奈グループの総帥の夫人として君臨したかっただけなのだ。だから翁は莫大な慰謝料を支払って、すぐに則美と離婚した。
そして長い間、翁は独身を通して来た。
したがって、裕子先輩は家政婦の三池悦子という女性に育てられた。彼女は江威子さんと共に江威子さんの家の家政婦の中から選ばれて、朝比奈家に来ていたので、裕子先輩にとっては、まさしくうってつけの乳母だった。
そして一年ほど前、翁はグループの会議に出席し、松子と出会った。彼は驚いた。松子は亡くなった江威子さんに生き写しだったのである。翁はすぐに松子の素姓を調べさせた。彼女は子会社の社長秘書でだった。翁はその社長に会い、松子と会って話がしたい旨を告げた。社長は信じられないほど大喜びをし、松子を翁に引き合わせた。
翁は自分の年令も顧みずに、松子に求婚した。松子は初めは嫌がっていたが、やがて翁の熱意に
確かに松子は江威子さんによく似ていた。彼女は、ある貿易会社の社長の娘であったが、会社が倒産して父親が自殺し、母親がその後を追うように病死したため、会社を吸収合併した朝比奈グループの子会社の秘書になったのである。何となく
長次郎翁は9月の下旬にはすっかり復調し、退院した。松子に付き添われ、少し右足を引き摺るような状態ではあったが、紺の着物をきっちりと着こなしている姿は、他者を圧倒するパワーを感じさせた。
「松子」
翁は松子の顔を見ずに、邸の玄関の扉を見つめたままで言った。和服姿がしっとりとした感じを醸し出している松子は、ハッとして翁を見上げ、
「はい、貴方」
翁はその時初めて松子に目をやり、
「浩一と礼子を呼べ。儂の部屋に来るようにとな」
「はい、わかりました」
松子は静かに頭を下げた。翁は玄関の扉を運転手が開くのを確認し、中に入って行った。
朝比奈邸には全部で7人しか住んでいない。部屋の数30室、バスルーム3室、図書室、ワイン倉庫と、迷子になりそうなくらい大きいのに、たった7人はあまりにも寂しかった。
今まで紹介して来たのは、全部で6人。あともう一人はと言うと、朝比奈家の広大な庭園と温室を管理している山本喜六と言う白髪の老人である。彼は翁が少年の頃から朝比奈家に仕えている。当然結婚はしていない。そういう人間がたくさん存在している時代に生まれ育った人なのだ。だから自分のことを不幸な男だとは思っていないらしい。
その広大な庭園の一角に、ネットが張ってある場所がある。ゴルフの練習用のもののようだ。そこでクラブを振って、ネットに向かってボールを打っているのは、浩一である。それを少し下がった位置から軽蔑したような目で見ているのが、礼子である。
「お父様、すっかりお元気になったそうよ」
あまり嬉しくないことを話すように、礼子が口にすると、浩一も苦々し気な顔で打つのをやめて、
「あのオヤジの生命力の強さ、一体何だろうな。信じられないぜ」
「まァ、それじゃまるで、お父様が亡くなるのを待っているみたいじゃないの、お兄様?」
礼子はわざとらしく驚いてみせた。浩一は礼子をチラッと見てから、
「お前だってそうだろう、礼子?」
ニヤリとした。礼子はフッと笑って、
「ま、そうだけどね」
浩一はクラブをバッグの中に戻すと、
「とにかく、親父は遺言状を高林に作らせたんだ。そいつを何とかして手に入れて、内容を確かめたい」
「そうね。内容によっては……」
礼子が意味ありげに言葉を切ると、浩一は鋭い目つきで礼子を見て、
「遺言状を灰にしてやる」
「となれば、民法の規定に基づいて、分割が行われるわ」
礼子もしたたかな顔になった。浩一は大きく頷き、
「そうしたら、あの女は脅かしてこの家を追い出す。親父が死んだら、この俺が朝比奈家の当主であり、グループの総帥だからな」
「そうなれば、お兄様も晴れてあの
礼子がクスッと笑って言うと、浩一はキッとして、
「うるさい! お前には関係のないことだ!」
礼子はペロッと舌を出して、
「おお、怖い」
肩を竦めてみせた。浩一はムッとしてまた何か言おうとしたが、そこへ松子が現れたので、口を噤んだ。
「浩一さん、礼子さん、お父様がお呼びです。お部屋にいらして下さい」
松子は二人の様子に気づいたのか、少し恐る恐る言った。
「わかった」
浩一は答え、邸に向かったが、礼子は松子をキッと睨んだだけで何も言わずに立ち去った。松子もしばらく二人の後ろ姿を見ていたが、やがて歩き出した。
長次郎翁のいる部屋は邸の正面から向かって左手にある。ゴルフ練習用のネットがあるのはそこから少し左奥で、さらにその奥にはプールもある。浩一と礼子は、翁の部屋に隣接してあるサンルームに向かっていた。
「狸オヤジめ、何を企んでいやがるんだ?」
礼子はそんな浩一を後ろからニヤニヤしながら眺めていた。
やがて二人はサンルームの前に来た。翁は部屋からサンルームに移っており、デッキチェアの一つに腰を下ろし、目を閉じて何かを考えているようだった。浩一はそれに気づいて少し緊張気味に、サンルームの扉を開いた。その音に翁は目を開き、浩一と礼子を見た。
「来たか、二人共。まァ、座れ」
浩一と礼子は、それぞれ別のデッキチェアに腰を下ろした。二人はその間ずっと、翁の顔を見たままだった。
しばらくの間、沈黙の時が流れた。翁は浩一と礼子の顔をジッと見ていたが、やがて、
「お前達も知っているように、儂ももう年だ。いつコロリと逝くかわからん。そこで遺産のことを話しておこうと思う」
浩一は唾を呑み込んだ。礼子も居ずまいを正し、翁を見つめた。翁は二人を交互に見て、
「お前達にはビタ一文金はやらん。そのこと、よォく頭に叩き込んでおけ」
と言い放った。
「な、何だとォッ!?」
浩一は猛然として立ち上がった。彼の顔は怒りで真っ赤になっていた。
「どういうことなの、お父様!?」
礼子も唇を震わせて怒鳴った。翁はそんな二人の反応をまるでわかっていたかのように冷静な顔のままで、
「決まっておる。儂の全財産は松子と裕子の二人に与えるからだ。儂の家族はあの二人だけだ」
「くそう!」
浩一は思わずデッキチェアの肘掛けを拳で叩いた。その凄まじさで皮膚が裂け、血が出た。
「いいでしょう。しかし、そう思い通りにいきますかね。遺言状さえ手に入れば、こっちのものだ。必ず遺言状を手に入れてみせますからね」
浩一は血の出ているハンカチを手で押さえながら、口をヒクヒクさせて言った。
「私もよ、お父様!」
礼子も勢い良く立ち上がった。翁はそんな二人を哀れむような目で見て、
「好きにするがいい」
浩一と礼子は翁を睨み付けたまま、サンルームを出て行った。
「貴方……」
その様子をいつから見ていたのか、松子が部屋から入って来て、震える声で言った。
「案ずることはない。あいつらには、何もできはせんよ」
翁は松子を見て言った。
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