異世界転移したらしい

 畑の側を通った時のような、湿った土の香りで目が覚めた。

 え……土の香り? 私の部屋どころかベランダにも植木鉢や観葉植物は置いていないのに……。そんな思いで目を開けると、辺り一面は草木ばかりだったので慌てて体を起こした。


「…………ここ、どこ……? どうしてこんなところに……」


 ボーッとしながら周囲を見回すと背丈の低い草木だけではなく、背の高い細長い木やどっしりとした太い幹の大きな木がそこら中に生い茂っていた。それぞれの枝葉が重なっているせいか、奥のほうへ行くほど暗くて何も見えない。

 そんな状態だけれど、私がいる場所だけがちょうどポッカリと穴が開いていたようで、上から降り注ぐ日差しのスポットライトを浴びているみたいだった。


「……誰か居ませんかー!」


 できるだけ大きな声でそう叫んでみたもののどこからも返事はなく、そのことがいっそう不安になる。

 どうしてこんなところにいるのだろう……? 私は部屋で父や兄と話をしていたはずなのに……。

 二人を思い浮かべたことでそこで何があったのかを思い出し、思わず溜息をついてしまう。


(……この状況は『異世界トリップ』や『異世界転移』ってやつなのでしょうね……)


 最近まで読んでいた小説によく似ていて、思わず遠い目になってしまう。どうしてこうなったのか、なぜ部屋中が光っていたかもわからないけれど、結局のところ原因はそれなのだろうと考える。


「どうしよう……」


 どこにいるのかも、方角さえもわからないのに、むやみやたらと動き回るのは危険だと思う。それに、まだ熱のある状態で動くのも億劫だし、今はなんだか寒気もする。


(本当にどうしよう……)


 いつまでもここにじっとしていても仕方ないし、何も始まらない。とりあえず今私にできることといえば声を限りに叫び続けるか、周囲に何があるか確かめるか、自分が身につけているものを確認するくらいだ。なので、いろいろと考えたり確かめたりすることにした。


 まず、叫び続けるのは多分無理。誰か人がいればいいけれど、いなかった場合は森のような危険な場所で叫んだら、この世界の獰猛な動物が寄ってくるかもしれないからだ。それに、そんなものと遭遇したら逃げなければならない。

 今は体力がない状態なのでそういったことはできるだけ避け、極力体力を温存したかった。

 うーん……さっき叫んだのはまずかっただろうか……。


 次に周囲に何があるか見回してみた。座り込んでいるところには枯れ枝や枯葉、見たことのない白い花やピンクの花、黄色い花などがたくさん咲いており、木の根元には青紫色の毒々しい色をしたものや淡く光るキノコが生えていた。

 視線を上げると、低木には赤くて丸い形でヘビイチゴに似ているものがたくさん生っていて、少し高い木にはリンゴによく似た形のオレンジ色の木の実があった。形は見たことがあるものばかりだけれど……光るキノコってなに?! 何に使うの?!


 最後に自分が身に着けているもの。新調したばかりの眼鏡、アクセサリー類、腕時計。着替えていなかったのでブラウスとパンツスーツとコート、それに兄のジャケット。部屋の中にいたので靴やスリッパは履いていないし、ストッキングは伝線していた。

 スーツの上着ポケットにはハンドタオルとハンカチが一枚ずつ、折り畳んだコンビニのビニール袋が三つ、コートのポケットにはチョコレートの箱が二つとラップに包まれたナッツクッキーが二枚入っていた。チョコレートは受験生にお馴染みの赤い箱のものと和暦と同じ名前の会社のもので、個別包装されていて一口サイズのものがたくさん入っているものだった。

 クッキーは会社の先輩の手作りで、午前中のおやつにと秘書課の全員に配られたものだ。ちょうど出かけるタイミングだったので、そのままコートに入れっぱなしにしていたらしい。

 そして、どうしてチョコレート? とよくよく考えたら、昨日兄と一緒に取引先に出かけようとした時、同じ秘書課の先輩が「取引先の部長にたくさんいただいたの。お裾分けよ」と手渡してくれたことを思い出した。しまった、鞄に入れようと思っていたのをすっかり忘れていた……。

 今の段階だと視界に入ったものが食べられるとは限らないので、チョコもクッキーも非常食にしようと決める。

 そして兄のジャケットには、ゆずレモン味とかりん味、梅味ののど飴が一本ずつ、タバコが二箱とライターが二本、ペンが挟まっている手帳が内ポケットにあった。私自身はタバコを吸わないけれど、ライターは火を熾す時に使えるので有り難い。あと、のど飴も。


「……お兄様に感謝しなくちゃ」


 そう口にしたものの……もう、直接お礼を言うことはできないし、それが哀しい。

 兄は常にタバコをポケットに入れておく人だったのでわかるのだが、どうしてのど飴がポケットに入っているのかがわからない。それでも水があるかどうかも、雨が降るかどうかもわからない場所では飲み水の代わりになりそうだったので、さっそく梅味の封を切って包み紙をはがし、口に入れようとしたその時だった。


「…………え?」


 手に持っていたはずの飴が、いきなり消えた。熱があるから無意識に落としてしまったのかと膝の上や地面を見たけれど、何も落ちていない。

 変だなぁ、なんて首を傾げていたら、突然右側から『カリッ、カリッ』と硬いものを噛み砕く音がした。そちらの方を見ると、大きな蜘蛛が躰を揺らしながらのど飴をガリガリと齧っていたのだ。しかものど飴は糸で巻かれていた。


「ひっ……!」


 悲鳴を上げそうになったものの、これ以上声をあげたらまずいと両手で口を塞ぐ。蜘蛛自体は嫌いではないけれど、好きでもない。

 部屋で見つけたら箒やちりとり、新聞紙などを使って外に逃がすことくらいはしていた。そのくらいの小さい蜘蛛ならいいけれど、のど飴を食べている蜘蛛は成人男性の掌二つ分くらいはあるのだから、さすがに驚く。


(逃げなきゃ……!)


 そう思うものの熱が上がって来たのか、身体の怠さと関節の痛さと体の震えでなかなか立てない。仕方がないので、服が汚れるのもお構いなしに少しずつ移動しようとしたら、蜘蛛がたくさん付いているその目で私を見上げて来たので固まる。


「……っ!」


 蜘蛛がどんな行動を取るかがわからず、冷や汗を掻きながらお互いにじっと見つめることしばし。その間も蜘蛛はのど飴を齧っていた。

 蜘蛛は赤い目で私をじっと見つめたまま食べ終えたあと、まるで挨拶をするかのように片手? 片脚? を上げた。その人間臭い軽い調子の動作に目が点になる。


「……あ。ど、どうも、初めまして」


 両親の実家や親戚が会社を経営していたり私が秘書の仕事をしている関係上、取引先と挨拶を交わすことはよくあるし、時にはパーティーに出席することもあった。その長年に渡り培って来て染みついたものが出てしまい、つい握手を求めるように手を出しながら挨拶をしてしまったのだ。


 ――蜘蛛相手に何をやっているの、私! 毒があったらどうするの!


 そのことに思い至った時には既に遅く、蜘蛛はまるで握手をするかのように上げていたものを私の指先に乗せたあと、掌に飛び乗った。そして「ちょうだい」というように、両手? を私に差し出した。


「ええっと……。またのど飴……さっきと同じものが欲しいの?」


 そう聞くと、蜘蛛は言葉がわかるかのように頷いた。蜘蛛に話しかける私も私だけれど、人間臭い蜘蛛もどうかと思う。


「あのね、これは一度に食べるものではないの。その代わりと言ってはなんだけれど……」


 ちょっと待っててねと声をかけてから膝に乗せ、ハンカチを取り出すと膝に広げた。そしてクッキーを取り出してそのうちの一枚を四等分に割ると、ハンカチの上に乗せる。


「はい、どうぞ。甘いお菓子でクッキーというの」


 声をかけながら欠片の一つを蜘蛛に差し出すと、ぴょん! と飛び上がってからクッキーを受け取った。喜んでいる、と思ってもいいのだろうか。

 そんな蜘蛛の様子を見ながら、私もクッキーを割ってひとつ口に放りこみ、蜘蛛を観察する。

 この場所での保護色なのか躰の色は新緑色で産毛のようなものがあり、目は八つ。手足の長さや形はハナグモに似ている。ただ、写真で見たものよりも少しだけデフォルメされた感じになっているせいか、先ほどよりもあまり恐怖を感じない。


 どうしてそんなことを知っているかって? 蜘蛛が好きだった高校の同級生に、自宅で撮ったという写真をたくさん見せられたからだ!


 彼は本当に蜘蛛が好きだったようで、あちこち出かけてはいろんな種類の蜘蛛の写真を撮って来ていたっけ。

 それはともかく、また両手を差し出して来たので「ここにあるものは全部食べていいわよ」と声をかけると、蜘蛛は膝の上で何度も飛び上がり、クッキーを食べ始める。私も残りを口に入れてラップを丸め、コートのポケットにしまう。


「美味しい?」


 一心不乱にクッキーを食べる蜘蛛に思わず話しかけると、またもや頷いた。


「……本当に人間臭いわね、キミは」


 そんなことをポツリと漏らし、食べている様子をじっと見ていたのだった。


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