風邪を引いていたらしい

 ピチュピチュ、ピピピと鳴く、聞いたことのない鳥の鳴き声が聞こえる。そして私がいつも使っている布団よりもフカフカふわふわな気がして、このまま惰眠を貪りたくなる。


(ああ……仕事に行きたくないけれど行かなくちゃ。そうしないとまたはお父様とお兄様に心配をかけてしまう……)


 私をさげすみ、居ない者として扱い、ないがしろにする母と姉二人はどうでもいいけれど、職場の上司でもある父と兄に心配をかけるのは嫌だった。尤もその父や兄ですら仕事中以外は他の家族と同じような扱いをするのだから、たちが悪い。要は二人とも外面が良いだけなのだ。

 会社の社長とその後継者なんてやっているし、対外的に『家族思いの社長と後継者』をずっと演じているのだから、当然と言えば当然か。――そんなことを考えながら目を開けて、ぼんやりとではあるが見えた光景に固まる。


(あら……? 眼鏡をかけていないから見えづらいけれど、知らない天井。しかも天蓋付きのベッドとか、なんてファンタジーな……)


 どこのお姫様だよと内心で突っ込む。

 そもそも私は、会社帰りに見えにくくなった眼鏡を新調してきて帰宅したはずなのだ。どうしてこんな豪華なベッドで寝ているのだろう……?


(ええっと……)


 目を瞑ってしばし考えに没頭する。そして思い出した……荒唐無稽な状況に陥った時のことを。



 ***



 以前からパソコンや書類が見えづらくなってきていて、必要にかられて眼鏡を作り直した。今日はその眼鏡を引き取りに行く日だったのだけれど、数日前から崩していた体調が今日に限って悪化していたことから、私が秘書をしている父や兄に早退していいかを相談した。

 同じ部署の先輩がその場に複数いたせいか私の体調を心配する表情を作り、「帰っていい」というので直属の上司に報告した。急ぎの仕事やスケジュール管理は先輩が代わってくれるというので、その言葉に甘えて早退したのがお昼前だった。


 そのまま最寄り駅にある眼鏡店に行って眼鏡を引き取ると、ついでだからと隣にある手芸専門店のビルに入る。

 ちょうど店内改装をするために全品半額か八十五%オフの閉店セールをしていて、これ幸いとばかりにそこで趣味でもある裁縫や不足している刺繍糸を含む道具類、クッションやクッションカバーがワンセットで入っていて、それを作れるキットと枕カバーが作れるキットを各五個。あとは洋裁用の布地(和柄も含む)を十メートル単位で十数種類と端切れを大量にと、型紙や手芸に関する本を何冊か買い込んだ。

 安いからと買い過ぎてしまったなあ……とほぼ空っぽになったお財布の中身を見て反省しつつも、具合が悪いし荷物は重たいしと内心で言い訳しながらタクシーを使って一度帰宅したのが一時ちょっと前だった。


 自宅近くに三時からやっている個人病院があるので、それまでは大人しくしていようとたまたまあったレトルトのお粥を温めて食べたあと、荷物を炬燵近くの床の上に置いたまま炬燵に座りこみ、その場で転寝していた。

 起きたら時間を過ぎていたので病院に行き、そこでしばらく待たされたあとで診察してもらえばどうやら風邪を引いていたらしく、病院で熱を測ったら三十八度を越えていた。熱の高さとぎりぎりインフルエンザの時期だからと念のために検査をした結果、インフルエンザではなかったことが救いだった。インフルエンザで一週間も休んだら、家族に何を言われるかわかったもんじゃない。

 先生曰く、風邪が流行っていること、春先で朝晩の気温の変化が激しいこと、精神的な疲れや肉体的な疲労もあるのかも知れないとのことだった。身に覚えがありまくりで、視線を逸らしたまま乾いた笑いしか出なかったが。

 点滴をしてもらってから病院の隣に併設されている院外薬局で薬をもらい、帰路についたのが五時ちょっと前。そして自宅マンションに到着し、鍵を開けようとしたら声をかけられた。そちらを見れば父と兄が揃っていて、思わず顔を顰めてしまう。


「……なぜ私の家を知っているのでしょうか、社長に副社長? お二人にはこの場所を伝えていないはずですが」


 仕事中の話し方でそう問えば、二人の顔が一瞬強張ったあと、哀しそうな顔をして目を伏せた。どうしてそんな顔をするのかわからない。


「……人事部長から実花みかの住所変更の連絡が来ていたんだ。それで……」

「そうですか……。それで、何かご用でしょうか」

「実花の体調を心配して来たんだ。それに、話がある」


 本当に私の体調を心配しているのか甚だ疑問ではあるが、話があると言ったきり黙り込んでしまった父に、外では話せない内容だと察して部屋へ入れることにした。


「ここでは話しづらいでしょうから、どうぞ。お話は中で伺います」

「すまんな……ありがとう」


 鍵を開けて二人を中へと促し、実家に比べたらたいして広くはないリビングダイニングへと案内する。炬燵のスイッチを入れたあとで、二人にはそこに座ってもらった。

 2DKの物件だけれど、ダイニングには私が必要だと考えている最低限のものしかないせいかもの珍しそうに室内を見回し、近くにあった大量の荷物に目をむく二人を視界に入れつつコーヒーを淹れようとしたら、兄が席を立ってこちらに来た。


「コーヒーを淹れるなら僕がやるから。具合が悪いんだから座っていなさい。あと、柚子茶と生姜はあるかい?」


 何を言われるのかと身構えていたらそんなことを言われたのでそれに甘えることにし、どこに何があるのかを説明してから炬燵に座ると、だらしなくそこに突っ伏した。

 正直な話、立っているのがとてもつらかったので兄の言葉は有り難かった。そんな体調不良の中買い物をし、タクシーを使ったとはいえ大量の荷物を持って帰って来た私はアホである。


「相当顔色が悪いが、大丈夫か?」

「……あまり。熱が三十八度を超えていまして、病院で点滴をしていただきました」

「そこまで酷かったのか。話は明日でもできるが……」

「怠いだけですので、今のところは平気です。このままで申し訳ありませんが、話していただけますか? 大事なお話なのですよね?」

「すまない、実花。……ああ、大事な話だ」


 自分と父にコーヒーを、私に生姜入りの柚子茶を淹れて来た兄がそれぞれの前にカップを置くと、羽織っていたジャケットを私にかけたあと、炬燵に座った。コートを着たまま炬燵に入っていても寒かったから、兄がかけてくれたジャケットは有り難かったので顔をあげてお礼を言うと、嬉しそうな顔で頷いた。

 そして、生姜入りの柚子茶。私が熱を出すと、必ず兄か父が淹れて来てくれたものだった。懐かしいとは思うものの今はそんなことを考えている場合ではないので、父と兄の話に耳を傾ける。


「実は、喜代花きよかと離婚することになった。いや、正確には、一ヶ月前に離婚届けを出して来て、受理された」

「そして会社の社長は、異例ではあるけど六月一日付けで絵理花えりか瀬里花せりか、会長は母さん、顧問は祖父さんがなる」

「……はい? どうしてそんなことに……?」


 喜代花は母の名前、絵理花が一番上で瀬里花は二番目の姉の名前だ。私を居ない者として扱う元凶の三人でもある。

 ちなみに兄の名前は銀司ぎんじで父は哲司てつじという。両親の名前にちなみ、女性に『花』、男性に『司』を入れた名前にしたと、小さい頃父に聞いた覚えがある。


「そもそも、ずっと離婚を考えていたんだ。だが、義父にずっと反対されていてな」

「どうしてですか?」

「実花以外は碌な仕事もできなければ、指示能力すらもないからだ」


 父の話を補足するよう怒りをあらわにしながら、額に青筋をたてた兄が吐き捨てるように話す。


 もともと両親は政略結婚で、父と結婚したあと父の実家である長月家にいた。ところが私が生まれる直前に後継者だった母の兄が不慮の事故で亡くなり、しばらくは祖父が頑張っていたものの、頑張りすぎて身体を壊してしまった。

 このままでは会社も潰れてしまうし後継者もいなくなってしまう。とりあえず母にも同じ教育をしているからと一旦会社を任せたものの、経営はおろか書類仕事すらできなくて、重役や社員からクレームが殺到したのだという。

 これでは本当に会社が潰れてしまうからと祖父に『どうしても』と土下座までされてこいねがわれ、両家で話し合いを重ねた結果、父が継ぐはずだった家は叔父に譲り、母の実家である長谷川家に来たのだというのだ……それも条件付きで。


「実花が成人するか大学を卒業するまでの間に喜代香は再教育、絵理花と瀬里花はきちんと長谷川家で教育しなおし、離婚することになっていたんだ……銀司と実花は私が連れて行くという条件で」

「え……」

「だが、義両親は喜代香の再教育を失敗した。それだけではなく絵理花と瀬里花もな。それを認めるどころか棚にあげて、『実花も大学を卒業したし、社会人にもなった。かつての契約に則り離婚したい』と話していた私の言葉をずっと無視し、会社の経営をさせていたんだ。だが、約束を反故にされた私にも我慢の限界というものがある」


 それを義両親と自分の両親に話し、親戚を交えた両家の話し合いの末『契約違反だろう』ということで離婚が成立したそうだ。その時期はちょうど兄の海外出張について行ったので私はそれを知らなかった。帰って来てからもお互いに忙しく、話す機会も時間もなかったと父は言う。


「……」

「顧問はともかく、会長と社長は一時的に喜代香たちの名義にして、一年以内に頭を挿げ替える予定だ。そして銀司と一緒に今日付けで退社届けも出し、契約違反を理由にそれも受理させた」

「僕と父で会社を立ち上げる予定で、ここ一ヶ月ほどずっと動いていたんだ……だから忙しかったし、それも目途がたった。だからさ、実花……僕たちの会社に来ないか?」

「え……?」

「喜代香たちの秘書などしたくはないだろう?」


 父の労わるような優しい言葉に顔をあげれば、何かに悔いるような顔をして私を見ていた。そしてそれは兄も同じだった。


「ど……して……」

「政略とはいえ、喜代香の我儘でこの結婚は成り立っていたんだ……そんな彼女を愛せなかった」


 あんなに仲睦まじい様子だったのに、冷たい声で母のことを語る父は珍しい。そして愛せなかったと言ったことも。


「お、とう、さま……?」

「実花……私には、ずっと……ん?」


 決意も新たに父が何か言いかけた時だった。突然マンションがぐらりと揺れ、炬燵を中心に床から光が放たれたのは。


「な、なに?! 地震?!」

「実花、テレビつけて!」


 兄の鋭い言葉に、手元にあったリモコンでテレビをつける。あちこちチャンネルを回すものの、普段通りのニュース番組や情報番組をやっていて、地震のニュースは一向に話さない。

 その異常性に恐怖した時、またマンションが揺れ、光が強くなって部屋中を包み込んだ。


「なんだ?! 部屋中が光ってる?!」

「うわっ! 実花、僕の手を掴め!!」

「え……? あっ! きゃあぁぁぁっ!!」

「「実花!!」」


 炬燵や家具類、買って来たものなど部屋中のものが次々に浮かびあがり、三人で悲鳴をあげる。熱のある状態では何が起こっているのか理解できず、それに混乱していたら突然何かに引っ張られるような感じがして、そのまま後ろに倒れた。

 掴めと伸ばして来た兄の手を掴もうとして起き上がったもののそれは叶うことはなく、もう一度引っ張られるような感じがした私は、落ちるような感覚の恐怖と何が起こっているのか理解する前に意識を手放した。


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