ケヴィン・アーロンの見解
「老人に腕を噛まれたァ?そりゃあゾンビ映画か何かの話かい?」
俺からの電話に、ケヴィンはまるで架空の出来事かのように笑った。
ケヴィン・アーロン。大学の医学部を卒業した後、医師として働き、現在は大学の研究室で医学博士として勤務している男だ。
彼は俺がフリーのジャーナリストを目指していた頃に大学時代の同級生から紹介された男で、現在でも医学関係の記事をまとめる時やなんかに連絡をとっている。
「…いや、残念ながら本当の話なんだ。今日じいさんに腕を思いっきり噛みつかれてな。今病院からの帰り道なんだが…なぁ、ケヴィン。例えば…の話なんだが、今まで普通に生活していたような人が急に暴れ出したり、それこそ人に噛みついたりするような病気って何か思い当たるかい?」
俺は自分の右腕に巻かれた真新しい包帯を眺めながら電話口でそう彼に尋ねた。
「まだ状況が良く分からないから何とも言えないんだが、今の症状だけを聞いてぱっと思いついたのは…狂犬病かもしくは何か精神疾患による錯乱かな。」
「狂犬病…それって、どんな病気なんだ?」
ダメ元で尋ねたつもりが、意外にもすんなりと具体的な病名が出てきた事に驚いた俺は、さらに質問を続けた。
「まぁ、狂犬病といっても何も人間が噛みつくといった病気ではないんだがね。犬…というより狂犬病ウイルスを持った哺乳類に咬まれた人間が発症する病気なんだ。狂犬病も精神が不安定になって錯乱したりするし、あとは代表的なものには水を怖がるといった恐水症状があるな。」
「…それってなんかこう…痙攣みたいな症状が出たりはするのか…?」
俺は実際に目の前で症状を発症させた瞬間を見た、アレックスとエリックさんに起きた症状を照らし合わせながら尋ねてみた。
「痙攣は確かに症状としてあるよ。神経をつたってウイルスが脳に達すれば筋肉の痙攣が起こるからね。」
今の段階では、何となくこの狂犬病の症状が彼らの症状に類似しているかのようにも思えたが、エリックさんが発症した時には雨が降った後だった。
周囲には水たまりも多数あったが、別にエリックさんが水を怖がっているような素振りはみられなかった。
その点がかなり気にかかる。
「その恐水症状っていうのは、絶対に出るものなのか…?」
「いや、必ずしもその症状が出るとは限らないよ。ちなみに狂犬病だからといって噛みつく事例があるのは犬だけで、別に人間が噛みついたという症状の報告もないがね。」
「…そうか…。ちなみに狂犬病の治療法にはどんなのがあるんだい?」
俺はさらに質問を続けた。
仮にもしこれらの症状の原因が狂犬病だったとして、マルッセル劇場で劇を観ている間に誰かがその治療を施しているとすれば、この一連の騒動に合点がつくと思ったからだ。
「治療法は…ないよ。」
「…何だって!?」
思わず電話口で声をあげる。
だが、ケヴィンは特にそれを気にも留めてはいないようだった。
「現在の医学でも狂犬病にはこれといった治療法が確立されていない。発症すればあとは症状が進行していくだけで、いずれは昏睡になって死に至る。残念ながら狂犬病での致死率は100%だよ。」
…致死率…100%…
思わず黙り込んでしまった俺に構うことなく、ケヴィンは丁寧に説明を続けた。
「どちらにせよ医療機関は、狂犬病を確認したらすぐに国に報告するようになっているから近くで狂犬病患者が出ればとっくにニュースになってると思うし、今日君が受診した病院も狂犬病の可能性があると考えれば検査を勧めるはずだがね。…とはいっても発症前に狂犬病と診断するのは不可能に近いんだがね。」
確かに病院で『老人に噛まれた』と言った時、医師は俺の事よりも「その噛みついたお爺さんは今どこにいるかね?」とか「お爺さんは他にはどんな症状があるかね?」といったエリックさんについての質問ばかりだったのだが、俺が「今はマルッセル劇場で劇を見ている」と答えた瞬間から、「ふ~ん」といった表情に変わり、そしてあっという間に消毒が済まされ、あっさりと診察室から追い出されてしまった。
治療自体も、次は2日後に傷口の消毒に来てくれと言われた程度で、後は5日分の抗生剤を処方されたくらいの実に簡単なものだった。
どうやらその医師も、もしエリックさんが狂犬病患者で発症した後であれば呑気に劇を観ている余裕などないだろうと判断したのだろう。
どうせ認知症か、一連の『マルッセル劇場に行けば治る病気』くらいにしか思わなかったのかもしれない。
「もう少し症状を聞いたりすれば、何か思い当たるかもしれないが生憎今から会議でね。もう出なくてはならないんだ。」
「あぁ…悪い。ありがとう。ものすごく助かったよ。」
そう言って俺は電話を切った。
あらかたの症状だけを聞けば、狂犬病なのかもしれないと思ったりもしたが治療法がなく、致死率100%という時点ですでに違うだろう。
あとは精神疾患との見解だが、果たしてこうも短期間で皆が同じように錯乱する症状が現れたりするものなのだろうか。
そんな風に疑念を巡らせていると、再び手の中でスマホが震えた。
画面は『非通知』となっている。
「…はい。ダグラスです。…はい…はい。じゃあ今から迎えに行きます。」
そう言って俺は電話を切ると、再びマルッセル劇場へと向かって行ったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます