もう一人の発症者

ある日、俺は作業現場にいた。

遠くではアレックスやシザーやロベルトさんが作業を続けている。


気がつけば俺自身も何故か作業服に身を包み、いつの間にか猫車を押していた。


ここは見慣れない作業場だ。


照りつける太陽の下、突然起きはじめた鋭い偏頭痛と共に響くキーンといった耳鳴りに、俺は思わず片手で頭を押さえながら、ふと上を見上げた。


目の前の崖の上には、見知らぬ男性作業員が一人立ちすくんでいる。


…あれは…誰だ…?


日を遮るように額に手をやりながら、俺はその男の事をさらに凝視した。


容赦なく照りつける日射しと、とてもやみそうにない偏頭痛によって目が霞む。


その男は俯いていて、顔まではよく分からなかったが、ゆらりゆらりと項垂れたような姿勢のまま、まるで何かに操られているかのように不自然な動きを繰り返しながらゆっくりとこちらに向かって歩きはじめた。


…危ない!


俺がそう思った瞬間―――――――…


なんと崖の上に立っていたはずのその男は、足を踏み外し、俺に向かって身を投げてきたのだった。


すぐに避けようと思い、必死に体を動かそうとするが、体は全く言うことをきかない。


飛び降りたその男は、焦る俺の心とは裏腹に、まるでスローモーションかコマ送りでも見るかのようなゆっくりとした速度で、こちらに向かって下降してきた。


…逃げられない…


俺がそう思ったと同時に、俺は落ちてくるその男とふいに目が合ってしまった。


その瞬間、俺は思わず驚きの声を漏らした。


なんとその男の顔は…


俺の顔にそっくりだったのだ。


ジリリリリリリリ…!!


頭元で鳴っていたけたたましい目覚まし時計の音で俺は飛び起きた。


「…夢か…」


自然な流れに任せて目覚まし時計のアラームを止めた俺は、深いため息と共にあの光景が夢であった事に対しての安堵の言葉を口にした。


飛び起きた後の俺の心臓は、相変わらず手首の動脈までもを怒張させ、その心音は体を内側から突き動かしてしまいそうなくらいに高まっていた。


「…あの時と全く同じだな…」


ふと、発症前に見たあの自分の夢を思い出す。


俺は、寝癖のついた髪を乱雑にかきあげると、近くにあったスマホを手にとった。


「…なんだよ、これ…」


スマホの画面を見た瞬間、俺は再び驚きの声をあげた。


そこに表示されていたのは…


「不在着信 36件」と書かれた、リサからの着信の羅列であった。




「あんまりにも電話に出ないもんだから、死んじゃったのかと思ったわ。」


電話口でのリサは明るい声で、そう冗談まじりに悪態をついてきた。


「…そんなに検査結果が悪かったのか?」


そんなリサに対して俺は、寝起きのままの少し掠れた声ようなで答えた。正直、検査結果に対してかなりの不安を抱いていたのは事実だ。


「その逆ね。とりあえずあなたの尿から薬物反応は出なかったらしいわ。あれから体調の方はどうなの?」


「とりあえず暴れてはないよ。」


尿から薬物反応が出なかったという朗報を聞かされた事で、俺はようやく冗談を言えるくらいにまで落ち着いていた。


「なら良かった。私もまだ仕事中だから簡潔にしか言えないんだけど、ケヴィンに依頼していた血液の方は、結果が出るまでにまだ数日はかかるみたいなの。結果が出たら改めてケヴィンの方からあなたに直接連絡が入るみたいだけど、何かあったらまた私に言って。」


多分研究所の廊下か何かなのだろう。リサの言葉通り、電話口の彼女の背後からは書類の擦れるような音と、彼女がいつも愛用しているピンヒールの音が響いている。


「…分かった。ありがとう。」


俺のその言葉に、リサは急に真面目な声となって話を続けた。


「無理しないでね。あと、あまり危ない事には首をつっこまないで。」


「…分かってるよ。」


リサの強いながらも優しいその口調に俺が少しはにかんだ表情を見せる事で、その電話の通話は終わった。


俺は尿検査が陰性であったことに対して安堵した反面、いまだあの症状の原因が掴めないでいることに、不安と焦りを感じていた。


…薬物反応が出なかったとなれば…


あとは考えられるのは本当に何かの奇病か精神疾患なのだろうが、どちらにせよケヴィンに渡した俺の血液検査の結果が出るまでは何とも判断しずらい状況ではあった。


「…やっぱ行ってみるしかないか…」


そう静かに呟いた俺はかけていた椅子へと深くもたれかかると、そのまま宙を仰ぎながら一つため息をついた。


俺は以前からこの件に関して、どうしても一度話を聞いてみたいと思っていた人物がいた。


しかし、この件を直接彼にぶつけてしまうという事は、彼の辛い過去にまで踏み込んでしまう可能性だってある。


そう考えていた俺は、結局今まで彼にこの件の事を尋ねる事が出来ず、密かに躊躇してしまっていた部分があった。


だが…


自分が発症してしまったとなれば話は別だ。

俺自身、一度あの症状が出てしまった以上、いつまで理性を保てているかは分からない。


決して彼が発症者であるとは限らないが、ふと自分の頭の中に、病室で横たわっているバリー・アンダーソンの姿が浮かんだ。


どちらにせよいつか必ずその人と話をしなければならないというのであれば、それはきっと今であるに違いない。


そう意を決した俺は、いつも取材の際に書き記しているメモ帳に、現在の状況を簡潔に書きなぐると、そのまま家を飛び出したのであった。




バスに乗って向かった先は、ロベルトさんが働いている作業現場だった。


ここは先日の大雨の影響で木々が倒れ、あちらこちらに斜面から流れ落ちた泥の形跡が残されいる。


「…久しぶりだな。」


ロベルトさんは俺の姿を見るなり、そう俺に声を掛けてきた。その顔は少し疲れている。


「…今日はもうちょうど仕事が終わるところでな。少しそこで待っていてくれ。」


そう言うとロベルトさんは、手にしていた工具を手際よく片付け始めた。


「本当に久しぶりっスね。」


そう言って俺は仕事を終えたロベルトさんの車の助手席へと乗り込んで、シートベルトを装置した。


俺がシートベルトをつける際に発したカチッという音を確認すると同時に、ロベルトさんは車を発進させる。


ひんやりとしたレザー調のシートの肌触りが本当に心地よい。


ロベルトさんの車に乗るのは、アレックスを運んだあの夜以来だった。


「…仕事、忙しそうっスね。」


無言で車を走らせ続けるロベルトさんに向かって、俺は再びそう声を掛けた。


「…まぁ一時的にだがな。もうすぐ元の現場に戻る予定だよ。お前さんこそどうした?顔に相当疲れが出ているぞ。」


ルームミラー越しにそう言ったロベルトさんとふと目が合った。


ロベルトさんのその言葉に、俺は思わず助手席からサイドミラーを覗き込んで、自分の顔色を確認した。


その顔はどこか蒼白く、微かだが目の下にクマまで出来ているような有り様だった。


…まるで薬物中毒者みたいだな…


今朝のリサからの電話さえなければ、今頃俺は間違いなくこの前の自分の奇行と記憶障害、そしてそれを裏付けるかのようなこの顔色によって、自分が知らぬ間にドラッグか何かに手を染めた人間であると信じて疑わなかった事だろう。


「…大方お前さんの方も何かあったから俺の元まで来たんだろう?例えば…例の症状が出たとかな。」


車を走らせる速度を緩める事なくそう俺に告げるロベルトさん。


今度はルームミラー越しでも、俺の目とその瞳が合う事は決してなかった。


「…ロベルトさんは何でもお見通しっスね。」


そう言って俺はため息混じりにそう答えた。

その表情はかなり綻んでいる。


「…俺の息子も、症状が出て亡くなる前は今のお前さんみたいにどこか思い詰めたような表情をしていたからな。」


車のエンジン音だけが響き渡る静かな車内で、ロベルトさんがそうポツリと語った。


「辛い事を思い出させてしまってすみません…アレックスから聞きました。息子さんは、亡くなる前に何か言葉を発してたってアレックスは言ってたんですが、あれは一体何て言ってたんですか?」


まるで全てを見透かされているかのような、ロベルトさんのそのスムーズな話の運び方に、俺はそのまま甘える形で少し突っ込んだ話をふってみる事にした。


「…選ばれてしまった…だ。」


ちょうど信号待ちで車が止まる。

その瞬間にロベルトさんはそう答えた。


「…え?」


「だから『…僕はついに選ばれてしまった。だからもう自分で終わりにするしかない。』…亡くなる直前、グレッグは確かに俺に向かってそう言ったんだ。」


思わずロベルトさんの方を向いた俺に向かって、 ロベルトさんはじっと俺の目を見据えながらそう答えた。


その瞳は強く、そしてとても真っ直ぐだ。


って何に…?」


ロベルトさんのそんな気迫に、思わずたじろぎながら怯えたような表情でそう尋ねる俺に向かってロベルトさんは、ふっと目線を反らしながら、車内に無造作に置いてあったタバコに火をつけこう答えた。


「…さぁ?それは私にも分からない。だが、彼もまた自分が発症する前はある特定の発症者と濃厚な接触をしていた事は確かだよ。」


そう言ってロベルトさんは再び青信号となると同時に、車を走らせはじめた。


街から外れた細い山道を抜けて、ロベルトさんは自宅の前へと車を止めた。


赤いレンガが積み重なったようなその建物は、古いものではあるのだろうが、庭も綺麗に整えられており、とても清潔感のある外観をしていた。


ロベルトさんはいち早く車を降りると、その家の扉を開けながらこう言ったのだった。


「…来たまえ。息子の部屋を見せてあげよう。」


そう言ってロベルトさんは、俺を自宅の中へと案内していったのである。

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