ケース5 :ダグラス・カインの症例
「…なんだよ…これ…」
マルッセル劇場から、ウェスカーさんに連れられて自室へと戻ってきた俺は、目の前に広がるその光景に思わず驚愕の声を漏らした。
自分の目の前に広がっていたのは…
まるで強盗にでも入られたかのように乱雑に荒らされた自分の部屋だった。
部屋の窓ガラスも割られており、外からの風が吹き込む度に、レースのカーテンがゆらゆらと揺らめき、床の上に投げ置かれた書類や本などは、音をたててはためいていた。
「…ウェスカーさん…これ…」
状況がまるで理解出来なかった俺は、ウェスカーさんに向かってそう声を絞り出した。
「夕方頃かな。君は突然この家に帰ってきてね。珍しく声を掛けても、返事もせずに二階に上がっていってしまったもんだから、心配になってついて行ってみたら、いきなり部屋の中で暴れ出してね…」
そこまで言うとウェスカーさんは黙り込み、そして哀しそうな瞳で俺の事をじっと見つめはじめた。
「…俺はマルッセル劇場で劇を見ていたハズなんだ…それがどうして…こんな事って…ありえないだろ…」
あまりの出来事に驚きを隠せず、頭を抱えながらそう呟く俺に向かって、ウェスカーさんは優しく肩を叩きながら言葉を続けた。
「…残念な事に、この症状が出た人達はみんな口を揃えてそう言うんだ。信じられないだろうから、一応その時の動画も撮っておいてみたんだが…見る勇気はあるかい?」
そう言って、ウェスカーさんは携帯に入っていた動画を俺に見せてきた。
ウェスカーさんもよほど慌てていたのか、動画の中の画面は激しく揺れ、入っている画像も音声もかなり荒々しいものだったが、それでもその動画に写っているのは紛れもなく自分であるいうことはきちんと理解ができた。
ところどころにウェスカーさんが俺の事を呼んでいる音声が入っている。その声もかなり怯えているようで、俺のとる行動の一つ一つに応じて、時折悲鳴に変わってしまいそうな程に大きな声へと変わってしまっている場面まである。
自分には全く身に覚えがない事を、明らかに自分としか思えない人間が行っている。
しかも普段の自分の中には決して存在していないような凶暴性を余すことなく
動画の中での俺は、机の中や本棚など片っ端から物を取り出しては床へと投げつけ、そして時折その行動を止めようとするウェスカーさんの腕を激しく払いながら、床の上へと投げ出された本や書類などを一心不乱に破りはじめていた。
そして、近くに置いてあった置物を大きく振りかぶって、窓ガラスを割ろうとした瞬間に、
「ダグラス!」
そう叫ぶウェスカーさんの声で動画は終わっていた。
誠に残念な事に、動画の中では直前で止まれていたはずの窓ガラスを割るというその仕草は、現実には全く止まれていなかったのだという事を、目の前にある割れた窓ガラスだけが静かに物語っていた。
「…ウェスカーさん、すみません…俺…」
そう言って思わず言葉を詰まらせてしまう俺。
「いいんだ。ケガがなくて本当に良かったよ。」
そう言ってウェスカーさんは俺の肩を叩きながら優しく諭したのだった。
俺は落胆した表情のまま、変わり果ててしまった自分の部屋の中をただ呆然と静かに見渡していた。
すると、ベッドと間接照明の間に、ある物の切れ端が落ちている事に気がついた。
その事に気がついた俺は、すぐにその物の元へと駆け寄った。
「…ダグラス!危ない!その辺にはまだガラスが…!」
そう叫ぶウェスカーさんのその声すらも、もはや俺の耳には届いていない。
駆け寄った俺の目の前に散乱していたのは、『ドールズ新聞社 新人記者賞』と書かれた十数年前の賞状の切れ端であった。
「…お久しぶりね。調子はどう?」
翌日俺はウェスカーさんから紹介してもらった業者に部屋のガラスの修理を頼むと、その足で駅のプラットホームへと向かっていた。
到着した列車から降りてきた金髪のその女性は、俺の姿を見るやいなや、まばゆいばかりの笑顔を浮かべてそう声を掛けてきた。
「…最悪だ。」
「…でしょうね。だから私を呼んだんでしょ?」
そう言って彼女はさらりとした長い艶やかな髪をゆっくりとかきあげた。
彼女の名前はリサ・コックス。
昔からの知人で、今はケヴィンの研究所で働いている。
「…で?今からどうするの?」
そう言って、まるで挑発するかのような眼差しを向けながら俺の顔を覗き込む彼女。俺は昔からそんな彼女の視線に非常に弱かった。
「…こっちだ。」
そう尋ねられた俺は、首の動きだけで彼女に向かってある場所を指し示すと、その場所へと歩きはじめた。
ポケットに両手をつっこみながら歩く俺の後を、彼女は早足で着いてくる。
俺は彼女の歩く速度を時折確認しながら、自分の足を進めていった。
こうして俺達が辿り着いたのは、駅の待合室だった。通勤時間は外してあるので、もちろん俺達の他には誰もいない。
「…さ、腕を出して。」
椅子に腰掛けるやいなや、そう言って何やら手際よく準備を始めるリサ。
俺は彼女の指示にしたがって、自分の右腕の袖をまくりあげた。
「…親指、握り込んでくれる?」
そう俺に告げると、彼女は慣れた手つきで俺の腕を縛り上げ、そしてアルコール綿で俺の腕を消毒しはじめた。
ひんやりとした感触と、ツンっと鼻を刺激する匂いが子供の頃から永遠と積み重ねられてきた、いまだ慣れない注射への恐怖心を煽り続ける。
「…相変わらず注射嫌いは治ってないみたいね。顔、こわばってるわよ。…で?一体何があったの?急に連絡くれるなんて、何年ぶりかしら。」
リサは背負ってきたカバンから取り出した注射器に針を装着しながらそう呟いた。
「色々あったさ。目の前で突然人が暴れだしたり、爺さんに噛みつかれたりな。」
「…何それ、映画の話?」
そう言って注射をする手を止めながら、じっとりとした目で俺の事を見つめる彼女。
その反応は、ケヴィンと全く同じ反応だった。
「…ケヴィンとは上手くいってるのか?」
そんな彼女の様子に、自然に話題はケヴィンの話へと変わる。
「まぁね。今は一緒に暮らしてるわ。…ちょっとチクっとするわよ。」
彼女のその言葉を合図に、俺の腕に小さな注射針が突き刺さる。彼女の言うとおり、痛いのは最初だけであって、あとはなんてことはなかった。
注射器をひく彼女の指の動きに合わせて、俺の血液が注射器の中へと入っていく。実に鮮やかな彼女の仕事っぷりに、俺は思わず感心までしはじめていた。
「まったく、どうしたっていうのよ。わざわざ私を呼びつけなくったって、検査くらいなら頼めばこの街の病院でも、いくらでもしてくれたでしょうに。」
俺から採取した血液を手慣れた様子で次々に持参した容器の中へと入れていく彼女。一通り血液を入れ終えた彼女は、その容器を揺り動かしながら俺に向かってそう尋ねた。
「…実はな…自分でも信じられない事なんだが…」
そこまで言って俺は思わず口ごもる。
言葉を続ける事が出来なかった俺は、黙って彼女にある物を差し出した。
「…そんな…!信じられない!」
それを見た瞬間、思わず驚きの声をあげてしまうリサ。いつも現実的で誰よりも中立な姿勢の彼女にしては、非常に珍しい反応だった。
彼女に差し出されたある物…
それは…
俺が自分の手で粉々に引き裂いた、例の『ドールズ新聞社の新人賞』だった。
「…あなた、これを何よりも大切にしていたじゃない…!」
そう言って悲鳴に近い声をあげながら、慌てはじめるリサ。
それもそのはずだ。俺は大学時代に偶然新聞社に送った記事でこの新人賞をもらい、そしてそれがきっかけでライターになったのだから。
その事実を知り、そしてそんな俺の事をいつも横で見守ってくれていた彼女にとっても、この出来事は本当にショックな事だろう。
「…そうだ!トロフィーは!?トロフィーの方は無事なの?」
そう口にする彼女に対して、俺は無言でウェスカーさんから送ってもらった動画を差し出した。その動画内で俺が窓ガラスを割ろうとして手にとったその置物こそ、この新聞社からもらったトロフィーだったのである。
「そんな…あなたがこんな事をするなんて信じられない…」
繰り返し再生される動画を眺めながら、彼女はまるで意気消沈でもしたかのように、駅の座席にもたれかかった。
「…あなたが病院に行かない理由が良く分かったわ。もし自分の知らない間に、麻薬とかの薬物を投与されてたりしたら、逮捕されてしまう可能性まであるものね。」
そう言ってため息を一つ残すと、彼女は急に持ってきたカバンの中を探りはじめた。
「理由は分かったわ。水臭いわね、そんな事なら電話で話してくれれば良かったのに。はい、これ。」
そう言って彼女は俺に、透明のプラスチック容器を手渡してきた。
手渡されたその容器の意図が分からず、小首を傾げている俺に向かって、彼女は片手で俺を追い払うような仕草をしながら言葉を続けた。
「ほら、さっさと取ってきなさいよ!」
「…取ってくるって…何を?」
いまだ分からずキョトンとしている俺に向かって、リサはかなりの苛立ちを見せながらこう言った。
「…オシッコに決まってるでしょ!そんな事いちいち言わせないでよ!」
そう言って俺の事を怒鳴りつける彼女。
誰もいないとはいえ、さすがに周りの目が気になる。
「…もしあなたが暴れた原因が麻薬かどうかを調べたいなら、尿を調べるのが一番手っ取り早いわ。血液の方はケヴィンに任せるとして、そっちの方は警察に知り合いがいるから私が極秘で何とかしてあげる。…でももし結果が出てしまったら…」
そこまで言って今度は彼女の方が口ごもる。
「…まぁ、そうなったら、警察の御厄介にでもなるさ。」
そう言って俺は軽くはにかむと、駅のトイレで用を済ませて、採取した尿を彼女に手渡した。
「…本当は、この街の案内とかもしてもらいたかったんだけど生憎、ね。」
そう言って次に到着した電車へと乗り込みながら、自分が背負ってきたカバンに目を落とす彼女。どうやら俺の尿をあまり持ち歩きたくはないらしい。
「あぁ、また連絡してくれ。…そうだ、リサ。」
「…ん?」
急に名前を呼ばれて驚いたのか、ふと顔をあげた彼女と目が合う。ブルーの大きな瞳が相変わらず美しい。
「今、幸せか?」
俺のそんな言葉に、一瞬彼女はキョトンとした表情を浮かべたが、すぐに笑顔となってこう答えた。
「えぇ、とっても!」
彼女のその返事と共に、駅の構内を出発のベルが鳴り響く。
俺は去り行く彼女にしばらく手を振り見送ってから、その駅を後にしたのだった。
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