雨の日の劇団員


ハリス総合病院からバスを乗り継いで、この街まで戻って来た頃には、小雨が降り始めていた。


俺は、思わず雨宿りの出来そうな建物の軒下へと駆け込んだが、ふと気がつくとそこは偶然にもマルッセル劇場の前だった。


いつもワゴンで飴を配っている女の劇団員と目があった俺は、手に持っていたカバンを傘変わりにして雨を遮りながら、そのワゴンの屋根の下へと駆け込んだ。


「いや~、雨は嫌っスね。まさか急に降り出すなんて、あんたもこんな雨の中で仕事なんて、大変だな。」


そう言って俺はポケットの中からハンカチを取り出すと、濡れた衣服をはたきながら劇団員にそう声を掛けた。


「マルッセルの劇場へようこそ。」


劇団員は無理矢理ワゴンの屋根下に入ってきた俺の事には、一切気に止める様子もなく、ただいつものように飴を俺に手渡して来た。


「あぁ。ありがとう。」


この街に来てからというもの、一体何個もの飴を口にしてきたのだろうか。


ほぼ習慣的にその飴を受け取った俺に向かってその劇団員は微笑んだが、天気のせいだろうか。その微笑みはいつものような無機質な笑顔なんかではなく、どこかもっと人間味のあるような、何となく切ない表情のように思えた。


俺は飴を包装紙から取り出すと、口の中へと放り込んだ。その瞬間に口に溶け出した飴の味は、何だかいつもよりもずっと甘く感じた。


さらに強くなりゆく雨を眺めながら、俺と劇団員は、しばらく無言のまま、ワゴンの中で共に過ごした。


お互い特に話をする事などない。俺は本心では山ほどこの劇場について尋ねてみたい事があったが、激しい雨音がビニール製のこのワゴンの屋根をバタバタと叩きつけ続けているおかげで、何だかそういう気分にはなれなかったし、何よりも話をするには先程口の中に放り込んでしまった飴が邪魔になって仕方がなかった。


どちらにせよ今ここでこの劇団員に何かを尋ねても、きっと答えなんて返ってきやしないだろう。


そればかりか何故だか今日のこの時だけは、雨で濡れゆくこの街を、ただ静かにここからずっと見守っていたい気分になっていた。


「…さすがに寒くなって来たな。」


雨に濡れてしまった上、周囲の気温がぐんっと下がった事に気がついた俺は、軽く身震いをしながらそう呟いた。


見るとその女劇団員は、袖のない中華風の服を着用していた。肘から下は白いサポーターのような物を着けているが、その肩先からあらわとなった肌は透けるように白く、そしてまるで陶器かのようにキメ細やかだった。


「…あんたの方がよっぽど寒そうだな。」


彼女のそんな格好をみて、俺は思わずそう声を掛けたが、相変わらずその子は無表情のまま何の反応も示さなかった。


「俺の上着でも貸してやりゃあいいんだが、生憎俺もずぶ濡れでな。」


だが俺はそんな事は気にせず、言葉を続けた。


当然劇団員からの返事はないので、もちろんほとんど独り言だ。


だが、この強い雨によって居場所を制限されてしまった俺は、何故か憂鬱というよりむしろやけに饒舌となっていたのだった。


「…この雨…一体いつやむんだろうな。」


再び独り言のようにそう呟きながら、まるで暇を持て余すかのように、ふと無造作に向けた俺の視線の先には、劇団員の細長い指が映っていた。


「…綺麗な指だな…。」


思わずそう呟いた俺の声に反応してか、その劇団員は珍しく両手を後ろに隠した。


「いや、悪い。こんなオジサンにいきなりそんな事を言われたら、さすがに気味が悪いよな。」


俺は自然にその劇団員から目を反らすと、相変わらず独り言のように言葉を続けた。


「俺、小さい頃にピアノを習っててさ。はじめは親に無理矢理習わされてたってカンジだったんだけど、その先生の教え方がものすごく上手くってな。全然興味がなかったはずなのに、どんどんピアノが弾けるようになっていくのが、その時はとても楽しかったんだ。」


そう言って俺は空を見上げた。

相変わらずバタバタと屋根の上を叩きつけている雨は、時折ポタポタと大粒になって俺の足先へと落ちてきた。雷こそは鳴らないが、雲は相変わらずどす黒くて厚い。


俺は話をするには邪魔になって仕方がないこの飴の居場所を、時折口の中で無造作にカラコロと移動させながら話を続けた。


飴はすでに、かなり小さくなっていた。


「だけどある日、俺がピアノを習ってるというのを知ったクラスメイトが俺の事を『女みたい』ってからかうようになってな。それからは何だかその先生と話をするのも恥ずかしくなって、次第にピアノもサボるようになって、『いつか行かなきゃ』と思いながら、いつの間にか辞めちまってたよ。」


相変わらず屋根の端をつたっては大粒となり、足元へと落ち続ける雨の水滴を眺めながら、俺は言葉を続けた。


「ガキの頃ってのは、くだらん意地で沢山のモノを壊してきたよな。ピアノだって本当はもっと続けていたかったハズなのに。周りの友達の心ない一言で変な意地を張っちまって、ガキのクセに一丁前に大人の男みたいなフリしてさ。先生にも『いつか謝ろう』って思いながら、気がつけばもう絶対に謝れないような所にまで時間が進んでしまってたよ。」


そんな俺の他愛もない話を、その劇団員は無表情ながらも静かに聞き続けていた。


「だけど、ピアノを習ってたおかげかな。ピアノでは大した曲とかは弾けないんだが、今ではパソコンのタイピングがものすごく速く打てるんだ。」


そう言って照れたように笑いかけた俺に対して、心なしかその劇団員も僅かに微笑んだかのように見えた。


「その先生はすごく若くて綺麗な女の先生でな…細くて長い指がとにかく綺麗だった。子供ながらにその指を見るとドキドキしてな…その先生の指にあんたの指があまりにもソックリだったんでビックリしたよ。」


俺のその言葉に合わせてか、劇団員のその子はいつしかジッと自分の指先を眺めていた。


気がつけば、いつの間にか周囲が少し騒がしくなっている。


どうやらマルッセル劇場の中での観劇が終わったようで、劇場からは続々と人々が溢れてきていた。


幸い先程まで強かった雨足も、まるで劇の終わりを待っていたかのように弱まっている。


このくらいの雨なら傘も必要はないだろう。


「…悪いな、こんなオッサンのつまらない思い出話に付き合わせちまって。」


俺が劇団員にそう挨拶をして、その場を去ろうとした瞬間…


「キャア!!」


遠くで女の悲鳴が聞こえた。


見るとその声を号令に、劇場から出てきた人達が、まるで何かから距離をとるかの様に一斉に弧を描きながら離れて行っている。


それは水に張った薄油の上に、一滴ポタリと水滴を落としたかのような光景だった。


「すみません…ちょっと通して下さい!

すみません!」


俺は劇場の外へと向かう群衆の波に逆らいながら、その場所へと向かった。


するとその場所にいたのは…


「…ぅぐぁぁ…。」


よだれをポタポタと流しながら呻き声をあげている、エリックさんの姿だった。

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