ケース4:エリック・ハーマンの症例


「エリックさん…どうして…」


突然の出来事にただただ呆然と立ちすくむだけだった俺の前で、エリックさんは時折周りの人を威嚇しながら、フラフラとこちらへ向かって歩きはじめた。


「…あぐぁぁ…がが…」


そして数歩前に進んだかと思うと、突然その場に力なく膝まづき、両手で自分の頭を激しくかきむしりながら、苦しそうな呻き声をあげた。


「…エリックさん…?」


俺がそんなエリックさんに恐る恐る近づこうとしたその瞬間…


「…あぁぁあぁあぁ…!!」


エリックさんは、自分の懐から黒い小銭入れを取り出すと、焦点の合わない瞳のまま、地を揺がしてしまいそうなくらいの低く重たい叫び声をあげ、それをちから一杯引きちぎろうとしはじめた。


…ダメだ!エリックさん!

その中にはあんたの奥さんの写真が――――…!!


そう思った俺は、エリックさんに慌てて駆け寄ると、エリックさんからその小銭入れを無理矢理奪おうとした。


…が、ものすごい力で小銭入れを握りしめているおかげで、全く引き離す事ができない。


…これが本当に老人の力なのか…?


俺は最近、現場仕事で体を鍛えていた事もあって、腕力にはかなりの自信があった。


たが、そんな俺がいくら本気の力で引っ張ろうとも、一向にエリックさんから小銭入れを引き離せるような気配はない。


そればかりか、俺が少しでも気を抜いてしまえば、たちまちその小銭入れごと引きずられてしまいそうな勢いだった。


「やめて下さい!エリックさん!この中にはあんたの奥さんの写真があるんだろ!?二人で撮った写真は、もうこれしかないんだろ!?」


俺はエリックさんを説得しながら、必死に抵抗しようとその場で足を強く踏ん張ったが、情けない事にそれでようやくなんとか手を離さずにいられるだろうという程度のレベルでしかなかった。


…これじゃあ、ラチがあかない…!!


どうやらそう思ったのは、俺だけではなかったようだ。


なんと、一向に小銭入れから手を離そうとしない俺にしびれを切らしたのか、エリックさんが思い切り俺の腕に噛みついて来たのである。


「うあぁぁぁぁぁぁッッ!!」


理性を失った人間が、容赦なく噛みついてくる力は異常に強い。しかもエリックさんは、俺が小銭入れを手放すまで、この腕から自分の歯を離す気など全くないようだ。


俺は必死に腕を引きはなそうともがいたが、エリックさんの噛みつく力は弱まるどころか、さらに強さを増していくばかりだった。


「がぁぁぁあぁぁぁ!!誰か!!

誰かこの人を連れていってくれ!!」


俺は右腕に食い込み続ける激痛に耐え続けながら、大声で必死に周囲の人へと助けを求めた。



ジリリリリリリリ…!!



するとようやく騒ぎに気づいた劇団員がワゴンのブザーを押したようで、その音と共に遠くから数名の劇団員がこちらへ急いで向かって来た。


「…ごめん!エリックさん…!!」


そのけたたましい警報音に反応して、エリックさんが俺の腕へと噛みついていたその歯の力を僅かに緩めた事を決して見逃さなかった俺は、瞬時に右腕をエリックさんの口から引き離すと、そのままエリックさんのみぞおちに強く拳を入れた。


「…あぁ…がが…」


その衝撃によって気を失って倒れ込んだエリックさんを、6人の劇団員がたちまち取り囲む。


そして力なく項垂うなだれたままの彼を抱え込みながら、マルッセル劇場の中へと入っていった。


彼が劇場へと入っていく姿を見送った野次馬達は、次第にそれぞれの方向へとばらけはじめる。


ふと目が合ったご婦人も怪訝そうな表情で眉をひそめ、俺を軽く一瞥いちべつすると、そのまま足早にその場を立ち去っていった。


俺はその場に残されたエリックさんの小銭入れを拾い上げたが、すぐに自分の右腕に生じた激痛で顔を歪ませた。


先程エリックさんに噛まれた腕がひどく痛む。


見ると俺の右腕にはエリックさんの歯形が深く深く刻まれており、その周囲は薄黒く、そしてうっすらと血が滲んでいた。

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