彼女の行方


「…キャサリンのデータが存在しないだなんてそんなの何かの間違いよ!キャサリンは非常勤だけど、私とは同期で4年前からこの役場で一緒に働いているはずだもの!」


「…逆に非常勤勤務だから彼女のデータがないとかは?」


火事によって灰になってしまった資料や床に散らばってしまった物を眺めながら、必死に反論するバレリーに向かって俺はそう答えた。


「それはないわ。このパーソナルデータの一部は役場の採用者全員が対象者になっているから、既に退職している人達のデータも残っているはずよ。…そうだ!人事部のデータにアクセスして中身を確認してみれば…もしかしたらキャサリンのデータだけこっちに移し忘れただけかもしれない!」


そう言ってバレリーは自分のパソコンを操作しはじめた。


どうやら人事部のフォルダにアクセスしているようだが、慌ただしく弾くキーボードの音とマウスをクリックする音が進んでいくに連れて、彼女の表情が徐々にこわばっていくのが分かった。


「…人事部のフォルダにも、キャサリンのデータがないわ…」


そう言って肩を落とすバレリー。


その瞬間、机の上に置いていたバレリーのスマホが突然震えはじめた。


「…ちょっと失礼。はい、バレリーです。」


そう言ってバレリーは俺に手で合図を送ると、すぐさま自分のスマホをその耳へと当てた。


バレリーが電話をしている間に、俺は自分のポケットからハンカチを取り出すと、そのまま床の上へと散らばっているあるものを包んで拾いあげた。


「…え?キャサリンなら、さっき病院に運ばれたはずですけど…え!?…いえ、こちらには…はい、分かりました。また何か分かったら電話します。」


初めは普通に話していたはずのバレリーであったが、彼女の突然のその声と表情の変わりように、その電話の内容がただ事ではなかった事が伺えた。


心なしかその顔は青醒めてしまっている。


「…どうした?」


そんな彼女のあからさまな異変にすぐに気がついた俺は、バレリーに向かってそう声をかけた。


その瞬間、顔をあげたバレリーは微かに震えるその口唇と指先を必死にこらえながら、今にも消えそうな声でこう答えたのである。


「…今…警察からの電話で…キャサリンが病院からいなくなったって…」


「なんだって!?」


バレリーへのその電話の内容は、俺までもを驚かせるには十分すぎる内容だった。



「…あなたは…どうしてすぐにキャサリンの事を疑ったの?」


キャサリンが運び込まれた病院へと向かう車の中で、バレリーがそう呟いた。


彼女が運転する車は、交通量の少ない道路の上を滑らかに進んでいく。


「あんたがあのキャサリンって子に話しかけていた瞬間、突然がしたんだ。実は俺は子供の頃からたまたまその匂いにものすごく馴染みがあってな。すぐに彼女が何をしようとしていたかピンときたんだよ。」


「…匂い?」


俺のその言葉にバレリーはハンドルを握りしめたまま怪訝そうな表情でこちらにチラリと目を向けた。


「…あぁ、俺の親父は工場勤めが長くてな。子供の頃俺もよく親父の工場に遊びに行ってたんだが、その度によく服を汚して帰って来てな。いつもお袋が俺の服についた汚れを綺麗に染み抜きをしてくれていたんだ。」


そう言って俺はカバンの中からある物を取り出した。それはジップ付きのビニール袋に入れられた小さなポーチだった。


「それはキャサリンの化粧ポーチ…」


成人男性がおもむろに取り出すには違和感しか残らないほどに可愛らしい柄をしたその小袋を見て、バレリーがそう答えた。


これはあの部屋を出る前に俺が灰になってしまった焼け跡の中から、キャサリンが落としたと思われる物を拾い集めて持って来たものなのだが、俺はビニール袋を開けると、そのポーチの中からプラスチック製の小さな空き容器を慎重に取り出した。


ビニール袋を開いた瞬間から、焦げ臭い焼け跡の匂いが俺の鼻先をかすめていく。


その小瓶の蓋は開けられており、瓶口はすでに炎によって溶けかかっていたが、鼻を近づけながら手で仰いでみると、まだツンと鼻奥を強く刺激するような独特の匂いが残されていた。


「…やっぱりな。」


その香りを嗅ぐと共に、キャサリンのあの時の姿が思い出される。


「…除光液?」


俺が手にしたその小さな容器を見るやいなや、バレリーは覗き込むようにしてそう呟いた。


「…いや、多分中身は違う。俺のお袋がシミ抜きにいつも使っていたのは、ベンジンといってな。多分この中にはそれが入れられていたんだ。除光液の匂いもベンジンと同じでかなり刺激性が強いからな。ベンジンの引火性はかなり高いらしくて、いつもシミ抜きをする時にはタバコの火に気をつけるようお袋が親父に口うるさく言ってたから覚えてたんだ。あの一瞬で一気に燃えあがるような火の上がり方は、多分このベンジンを使ったとみてまず間違いはないだろう。」


「…でも、どうしてキャサリンはこんな事を…」


俺のその言葉に、まるで信じられないといった表情でバレリーが眉をひそめる。


「さぁ?だが多分彼女は普段から除光液の中身をベンジンにすり替えて持ち歩いてたんだろうからな。発症者は突然暴れだすっていうのがこの症状セオリーなのに、これじゃああまりにも計画的すぎるだろ?もちろん、彼女が普段からをしでかそうとしてベンジンを持ち歩いてた可能性もあるが…それにしてはやけにタイミングが良すぎないか?護身用として持ち歩くにしては危険すぎるしな。そう考えると、彼女が他の人達のような普通の発症者と同じ…だとは考えずらいよな。」


そう言って俺は車の窓を開けた。


走行する車のスピードに合わせて吹き込んでくる強い風が、俺の鼻先に残ったベンジンの香りを冷たくさらっていく。


「それに気になる点がもう一つ。いくら発症して理性や感情を失っていたからと言って、自分の腕が炎で燃えているのに、避けたり全く手で払おうともしないなんて考えられるか?俺がエリックさんが発症した時にみぞおちに一般食らわせた時はちゃんと反応があったぞ。まぁ、その前に発症したジョンっておっさんは自分の額を怪我していても、構わずずっと頭をドアに打ちつけていたがな。でもあんな…あんな大火傷を負ってるってのに全く反応がないなんておかしくはないか?まるで痛覚までもを失ってしまったような…」


「…確かに私達が集めたデータの中には発症者の症状として全ての五感が鈍くなるという報告はあるわ。」


明らかにキャサリンの事を不審がっている俺の言葉に、バレリーは露骨に不服そうな顔でそう答えると、今度はこちらに目を向けようとする素振りすら見せずに、ただただ前だけを見つめ運転を続けていた。


「…でも、いくら鈍くなったとしてもあれだけの大火傷だぞ?頭で感じなくても、俺たちが熱いものを触った時に反射的に手を引っ込めるみたいに体が先に動いてもおかしくはないだろう?そもそもキャサリンという存在自体が…」


「…だけどキャサリンはそんな事をするような子じゃ…!」


そう言って俺の言葉を遮ると突然急ブレーキを掛けるバレリー。


突然止まった車の衝撃によって、俺のつけていたシートベルトは胸元へと深く食い込み、座席で後頭部を強く打ちつけてしまった。


「痛ぇー…危ねぇな!なんなんだよいきなり!」


そう言って突然ブレーキを掛けたバレリーに対して文句を言う俺。


顔をあげてみると止まった車の目の前を、一匹の猫が何食わぬ顔で優雅に横切って行った。


「…キャサリンはそんな事をする子じゃ…キャサリンはそんな事…」


よほど親友だったキャサリンの行動が信じられなかったのだろう。


バレリーは止まった車のハンドルに顔を突っ伏せたまま、まるで自分に言い聞かせるかのようにそう呟いている。


「…変われ。ここからは俺が運転する。」


そう言って、俺は止まった車の外へと出ると運転席側のドアを開きながらバレリーにそう告げた。


「この文字に見覚えはあるか?」


俺が運転を変わってからも、バレリーはすっかりと押し黙ってしまい、車内は完全に静まり返っていた。


信号待ちの際に、俺はそう言って相変わらず俯いたままでいるバレリーの前にそっと一枚の写真を手渡した。


”あの劇場へは近づくな”


その写真には赤い文字でそう記されている。


「…これは?」


「この字に見覚えがあるか?俺の部屋の窓ガラスが割られた日に部屋の中に残されてた。はじめはジェフが犯人かと思ってたんだ。みんなこぞってこの街の名所であるあの劇場を勧めてきたっていうのに、ジェフだけは唯一近づくなと言ってきたからな。」


俺からその写真を受け取ったバレリーはその写真を真剣そうな表情で眺めている。


「でももう一度ジェフに会ってみて気がついたんだ。ジェフが言う『劇場に近づくな』という言葉は、多分俺を守ろうとする側の意見…そしてこの机の上に書かれた『近づくな』は…」


「…あなたの身を案じて言っているのではなく、劇場を守ろうとする側の意見…」


バレリーのその言葉に俺は静かに頷いた。


「…正解。そして多分キャサリンもそっち側の人間だ。」


そう言って信号が変わった事を確認した俺は、再び車を走らせ始めた。


「…でも、例えキャサリンが劇場側の人間だったとして、どうしてキャサリンは放火なんて恐ろしい真似をしたのかしら。」


「俺が思うに…多分キャサリンは誰かの見張り役として役場に潜り込まされてたんじゃないかと思う。」


「…見張り役って…一体誰の?」


バレリーのその言葉に、俺はちらりとバレリーの顔に目を向けた。


そんな俺の様子を見て何かを察したバレリーが、自分の事を指さしながら驚きの表情を浮かべる。


「…まさか私の?一体何故…」


「あんたの父親は、何者かの手によって市長の座から引きずり下ろされて、今では街中の人達から避けられている。そしてあんた自身も、元市長の娘だからといって役場で十分な仕事も与えられず、人目につかない場所での勤務を強いられている。」


「…何が言いたいの?」


俺のその言葉に、不機嫌そうな表情を浮かべたバレリーが低い声でそう答えた。


「別にあんたら親子に対して嫌味を言っている訳じゃあないんだ。ただ…もしこのあんたらのこの不当な扱いが、何者かによって作りだされたものだったとしたら?」


その言葉にバレリーの表情が一気に強張る。


「…はめられてんだよ。あんたも、そしてジェフもな。他の連中と関わりを持って情報を漏らさないようにわざと孤立させられて人間関係を操作されていたんだ。みんなから忌み嫌われている人間の話なんて、例えそれがどんなに正論であっても人は耳を傾けようとしないからな。多分相手はそれを狙ってるんだ。そして多分キャサリンはあんたの見張り役だった。だから役場のパーソナルデータに登録がなかったんだ。…となれば誰か役場のお偉いさんに内通者がいるはずなんだが…誰か心当たりはあるか?」


俺のその質問に、バレリーは静かに首を横に振った。


「…でもどうしてそんな手の込んだ事を…市長だった父の事ならともかく、私の事を孤立させた事で一体何があるっていうの?」


「…発症者のデータリストだよ。多分あの中に知られてはいけない何かが隠されてるんだ。だからキャサリンは燃やしたんだ。多分俺とあんたが繋がってるとでも思ったんだろうな。あの目が見えないマリアって修道女ももしかして開発に関わってたんじゃないのか?」


俺の言葉にバレリーはしばらく考え込むと、こう答えた。


「マリアはソフトの開発自体には直接関わってはいなかったけど、父の幼なじみでね。私達と一緒に発症者の人達に当時の状況を聞いてまわったりしてくれてたの。…だけど事故で失明してしまって、今の修道女の仕事に就いたのよ。」


やはりマリアっていう修道女も何があったのかは知らないが、失明してしまうまではこの発症者達のリスト作成の為のデータ集めに尽力していた。


マリアもジェフ達と行動を共にしているという事は、彼女もきっとジェフ達と同じようにこの街で不当な扱いを受けているのだろう。


つまりこの発症者リストの作成に関わったジェフ、メイソン、バレリー、そしてマリアの全員がこの街の人々から迫害されているという事になる。


「…これ…そもそも何で書いてあるの?まさか…血!?」


そう言って顔をしかめるバレリー。


「…いや、俺も初めは血かと思ってたんだが、それはペンキだった。おかげで全然消えやしないがな。」


俺の言葉に、バレリーがさらに写真を凝視する。


「ペンキだから多少筆跡は変わると思うけど、これは父の字でも、多分メイソンの字でもないわ。もちろんマリアの字とも違う。メイソンさんもそうだけど、特に父は…そうね、字がとっても汚いの。」


そう言ってバレリーは俺に写真を戻しながら微笑んだのだった。

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