役場の資料室

役場の朝は忙しい。

それはハリス総合病院とは違った妙に緊張感のある慌ただしさだった。


この街の役場は俺が住んでいた町の役場に比べてもかなり忙しいようで、受付には長蛇とまでは行かないが老若男女の人々がカウンターの前の椅子へと並んで座っており、忙しそうに電話対応をしている男性職員に向かって、初老の男性がカウンターに身を乗り出しながら何やら怒鳴り声を上げたりもしている。


…役場ってこんなに殺伐としていたか…?


俺はそんな男性達のやりとりを横目で眺めながら、そしらぬ顔でその受付の前を通りすぎた。


そして、トイレを探す振りをしながら数名の職員とすれ違った俺は、他の人達の目がこちらには向いていない事を確認すると、手に持っていた鍵でとある部屋の扉を開いた。


…よし、誰にも見つからずに…


そう思った俺がその扉の中へと急いで自分の体を捻じ込んだその瞬間…


「…え?」


中にいた女性職員と目が合った。


その女性職員はちょうど棚から資料を手にとっている所だったようで、突然入って来た俺の存在に驚いたのか、そのままの姿勢で固まってしまっている。


俺が手にしていたのは資料室の鍵。

この街の元市長だったジェフェリー•ログワースから託された鍵だったのだが…


まさか中に人がいたとは…


思わず俺の表情が険しくなる。

他の部屋であれば、それこそトイレと間違えたと言って何事もなかったようにこの場を離れることもできたはずだ。


だが、自分でわざわざこの部屋の鍵を開けて入って来たのを見られてしまったとなれば話は別だ。


何故職員ではないはずのこの俺がこの部屋の鍵を持っているのか。


場合によっては、窃盗や不法侵入の疑いで警察に突き出されてしまうかもしれない。


俺はこの最悪の事態に備えて、必死で言い訳を考えたりもしたが、無常にも気持ちばかりがやたらと先走ってしまって、何も思い浮かぶ事はなかった。


…こんな時に限って…

フリーのライターが聞いて呆れる…


俺が上手くまわらない自分の頭と舌に苛立ちを覚えはじめたその瞬間…


「あなたもしかして…」


その女性職員は戸惑い続ける俺に向かってこう口を開いた。


「私の父からここを紹介された人?」


そう言葉を続けたその職員の胸元には『バレリー・ログワース』と書かれた名札が掲げられていた。




「…あんたがジェフの娘さんで良かったよ。じゃなけりゃ今頃俺は…」


「警察に突き出されるかと思った?」


そうやってバレリーは意地悪っぽく笑うと、俺を近くの席に座るように促した。


バレリーは何か調べ物をしていたようで、机の上には分厚い本や資料達が所狭しと並べられている。


「なんでここの役場はこんなに賑わってるんだ?」


俺はバレリーに勧められた席へと着きながら、なんの気なしにこの部屋の向かいの窓へと瞳を移した。


向かいの窓の向こう側では相変わらずカウンターから身を乗り出して何やら怒鳴っている例の男性と、それを応戦している職員の姿が映り込んでいる。


…まだやってるよ。


先程と全く変わらないその光景に、俺は思わず呆れて溜息をついた。


「ほら、この街は発症者が多いでしょ?いくらマルッセル劇場に行って症状が治るからといって、次はいつ発症してしまうか分からないじゃない?とかく一度発症してしまった人の多くは短期間の内に再発症を起こしてしまうことが多くてね。その度に仕事をクビになったり、住居を追われたりする人が多いのよ。だからこの役場には、そんな人達が自分達の生活の保障をしてもらうために、連日集まって来てるのよ。」


そう言ってバレリーは両手に持ったコーヒーカップのうちの一つを俺の目の前に静かに置くと、そのまま席についた。


…という事はあそこに並んでいるあの連中は全て発症者、もしくはその家族っていうことか…


そう考えると思わずその数の多さにゾッとする。通りで役場が忙しくなるわけだ。


「それなのにあんたはここで優雅にコーヒーを飲みながら読書タイムか。やはり元市長の娘は待遇が違うな。」


彼女から差し出されたコーヒーに口をつけ、そんな風に嫌味っぽく言ってのける俺に向かって、バレリーは少しむっとした表情となりながらこう答えた。


「…その逆よ。汚職事件の汚名を着せられて追放された市長の娘なんて、表の仕事は与えられずに奥の部屋で雑用をさせられているのが関の山よ。」


そう言って溜息をつくバレリー。

机の上には、仕分け途中の印刷物が山積みになっていた。確かにこれは忙しい役場の職員…ましてや元市長の娘がやるような仕事ではない。


「…汚職事件…確かジェフは在職中に何か事件を起こして市長の座を追われたって聞いた事があるな。ジェフは一体どんな事件を起こしたっていうんだ?」


遠慮などせず続ける俺の追求に、バレリーは少し俯きながら言葉を続けた。


「あれは忘れもしない、3年前の8月30日の事だったわ。地元のローカル誌が突然、父が自分の私用のために街の税金を不正に使用したという報道を出したの。」


「横領か…」


俺のその言葉に、バレリーは机の上に重ねていた資料の中から一冊のスクラップノートを取り出すと、俺に向かって一枚の記事を広げて見せた。


そこには大きく『現市長に横領の疑い』と書かれた見出しと、当時のものと思われるジェフの顔写真が掲載されていた。


「父は横領なんてそんな下らない事、もちろんしていないわ!父はいつもこの街の事を思って、何よりも住民達の安全を一番に考えていたような人だったもの!結局、その報道の後もなんの証拠も出てこなくて、父は不起訴処分になったんだけど、その記事が出された当日からこの役場にはもちろんの事、毎日家にまで嫌がらせの電話がかかってきて…そしてそのまま父はなんの証拠もない噂話一つで糾弾されてしまったわ。」


「…ひどい話だな。多分ジェフは誰かにはめられたんだろう。」


「…どうしてそう思うの?」


俺のその言葉が予想外だったのか、潤んだ瞳のままキョトンとした表情となってそう尋ねてくる彼女に、俺は自分のこめかみの辺りを指でトントンと打ちつけながらこう答えた。


「フリーライターの俺の勘が言ってる。それにジェフは絶対にそういう事をする人間じゃない。」


俺のその言葉にはなんの確証はなかった。だが、本当にジェフが横領をして職を追われてしまったのであれば、その後ろめたさから彼は家族を連れてきっと逃げるようにしてこの街を去っていく事だろう。


公園で出会ったあの母娘のように、街中の人達から不当な扱いを受けているとなればなおさらだ。


それでもそんな思いをしてでも、こんな劇場くらいしか取り柄のない小さな街にしがみついている理由はただ一つ。


…多分ジェフはきっと、今も自分をはめた人間を探しているんだ。


だからこそ俺にこの資料室の鍵を託したのかもしれない。


「…優しいのね。この街で父の事を信じてくれる人に出会えたのなんてはじめてよ。…3年前といったら、相変わらず発症する人が多かった時期だから、父はその発症の原因をずっと独自に探っていたの。だから父はいつもここで調べ物をしていて、家に帰ってくる事すらほとんどなかったのに…そんな最中での突然の報道だったから、私達にとっても本当に寝耳に水だったわ。」


そう言ってバレリーは悲しそうな表情で髪をかきあげた。当時の彼女やジェフの心痛といったら計り知れないものだっただろう。


「…どうして、みんなはそんな何の確証も、証拠すらもないような記事を信じ込んだんだろう…あの時みんなが鵜吞みにさえしなければ、私も父もこんな目には合わなかったはずなのに…私の父はいつも仕事に前向きで、後ろめたい事なんて一つもしていなかったのに…!」


「…だからだよ。」


悲痛な表情で話すバレリーに反して、俺は妙に冷めた口調でそう答えた。


「…え?」


「『非の打ち所がない、いつも前向きで誰にでも優しい市長』…だからこそ、そんな嘘みたいな情報にみんながこぞって食いついたんだよ。順風満帆な人間が転落していく姿ほど面白いものはないからな。…そこにつけいられて操作されたんだよ。みんなも、そしてあんたの父親も、な。」


「…そんな事って…」


バレリーの表情がさらに哀しみをまとって歪む。


「だけどお前さんが言うように、ジェフが本当に『真面目で誰にでも優しくて前向きな市長』だったら、ジェフの事を擁護する人達も中にはいたんじゃないのか?」


「もちろん、初めはそんな人達もいたわ。その人達が父を市長に戻す為に毎日ストライキをしてくれたりして…だけど…不起訴処分になった数ヶ月後に、今度は父がホテルの前で若い女性と親しげにしている写真が雑誌に掲載されてしまって…それからといったらもう、街中のみんなが父の事を嘘つき呼ばわりよ。」


「…へぇ〜、意外とやるじゃねぇか、ジェフ。」


そう言って冗談っぽくニヤリと笑う俺に対して、今度は怒りをあらわにしながらバレリーはさらに言葉を続けた。


「冗談じゃないわ!父がそんな事をするわけないじゃない!父は母の事をとても愛しているもの!そんな事…絶対にあり得ない!」


「…でも現に写真は残っているんだろ?それが何よりもの証拠じゃないか。」


俺のその言葉に、バレリーは当時の記事が掲載されている雑誌を俺の目の前へと広げてみせた。


その雑誌には確かにホテルらしき建物の前で女性と親しげに密着しているジェフの写真が掲載されていた。


…だが…


写真の中のジェフの表情に少し違和感が残る。


「…それが…父はその女性とは全く面識がなかったばかりか、その写真が発表される数日前に、数時間ほど記憶がなかったのよ。」


その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中にあの日数時間の記憶がごっそりとなくなり、部屋の中を荒らしまくった自分の姿が浮かんだ。


「…父はお酒なんて飲むタイプじゃないし、もちろん薬なんかもやってない!それなのに記憶がなくなるなんて…」


相変わらず激昂しながら反論するバレリーを、俺は静かに手で制しながら答えた。


「…いや、いい。分かった。多分ジェフは本当に誰かにはめられたんだよ。見ろ、この写真は白黒なうえ、あえてかどうか分からないが、やけに印刷が荒すぎる。最近のカメラ技術を使って、この距離で撮影したんだったら、普通画像がここまで荒くなるはずがないんだ。まずこの写真の中のジェフの瞳には生気がなさすぎるだろ?こんなの、ただ起きてるってだけで意識は完全に飛んじまってる人間の目だよ。…最も記者の方もそれを隠したくてわざと画像を粗くしたんだろうがな。」


そう言って俺は近くにあった赤いペンで、写真の中のジェフの瞳部分を指し示した。


「…ほら、この写真の中のジェフの目線を辿ってみても、この女性の事どころか、もはやジェフがどこを見ているのかすら分からないだろ?虚ろすぎるんだよ、この瞳は。とても生きてる人間の瞳だとは思えない。俺は昔、雑誌の取材で薬物依存者の更生施設に行った事があるんだがな。その時に出会った重症患者も…こんな瞳をしていたな。」


…あとは発症直後のアレックスやエリックさんも…


…もしかしたら俺自身もあの夜にはこんな瞳をしていたのかもしれない…


そんな事を考えた瞬間、俺の背中に寒気が走った。


「…では父は、誰かに薬を盛られていたって事…?」


「それかたまたま発症した瞬間を狙われた。」


「…そんな…!父が発症していただなんて…!」


俺の言葉に、バレリーが思わずその場で立ち上がり、驚きの声をあげた。


だが俺はそんなバレリーの様子になど構うこともなくさらに言葉を続けていく。


「…この病気の特徴は、発症者達がいずれも《第三者に発症をみつけられて》、《第三者の手によって劇場に運びこまれて》、《第三者からの報告で、やっと本人が発症していたという事に気がつく》っていうのが特徴だろ。普通の病気みたいに、前もって何かしらの兆候があったり、自分で異変に気がついて病院に行くわけじゃないから、誰しもが知らない内に発症していても何らおかしくないだろう?」


「…つまり誰かが父が発症した瞬間を狙って、この写真を撮ってから治療を施して父を元の位置に戻した。」


「…そういう事になるな。」


バレリーはショックを隠しきれない様子で髪をかきあげる。そんなバレリーの目の前に、開いた雑誌を戻しながら俺は話を続けた。


「発症してから意識が戻るまで数時間はかかるんだ。実際俺もそうだったし、そんな難しい事じゃねぇだろ。一番怪しいのはジェフと一緒にいるこの女だが、こうもモザイクが濃いと…人物の特定は難しいだろうな。」


「…あなたも発症を…。でも誰が一体そんな手の込んだ事を…。」


「さぁ?誰か心当たりはないのか…?」


俺のそんな問いかけに、バレリーは無言で首を振った。


「多分ジェフが市長でいる事に不満を抱いている人間か、はたまたジェフに市長でいてもらったら不都合となる人間だろうな。ところで…この資料室には発症者に関するデータが残されてるって聞いたんだが…」


俺の言葉に、バレリーは机の上で山となっていた資料の中から、一束にまとめられた資料を取り出し俺の前に広げてみせた。


「それはこれよ。父と私…そしてあとはメイソンさんとで発症者達のデータをまとめたの。…と言ってもさすがに全ての発症者の把握は出来ないから、発症した事で、役場に保障を求めて来た人達や、発症したと人づてに聞いた人達のデータくらいしかないんだけど…あとはまだ発症していない人との差を調べる為に、役場の職員のデータは全て揃えてあるわ。」


「…ちなみに、俺の名前はあるか?ダグラス・カイン。一週間前に発症している。」


その言葉にちらりと俺の顔を見たバレリーだったが、すぐにその書類の中からリストらしきものを取り出すと、一通り名前を検索してこう答えた。


「…ダグラス・カイン…残念ながら、載っていないわね。」


…やはりそうか。

俺が発症したことを知ってる事は、ウェスカーさんと劇団員くらいで、期間限定でこの街に来ている俺は転居届も出されていない事もあってか、彼女達の耳には届いていないようだった。


「このデータはまだ不完全だけど、それでも発症者について調べていくうちに、分かった事があったの。」


「…分かったこと?」


俺の問いかけに、バレリーは数枚の書類を取り出した。


「これよ。発症者を年代別に分けた時に、発症者が異常に増えはじめたある時期にだけ同じ年代の人達に集中している事がわかったの。」


そこには、発症時期と発症者の年代別に分けられたグラフが掲載されていた。


そのグラフを一目見ただけで、ある年代の発症者数が明らかに多い事に気がついた。


「それに気がついたのは4年前なんだけど、発症者が増えはじめた5年前からその翌年にかけて、実に38名の発症者が出たの。その内60代〜70代が2名。40〜30代が5名…50代が4名。そして残りの27名が…当時の22歳から23歳に集中していたの。他の20代の発症者はいなかったのに…ちなみにその人達のパーソナルデータがこれよ。」


そう言ってバレリーは、綺麗に束ねられた書類を俺に渡してきた。


俺はその書類の束を無言で受け取ると、その全てにざっと目を通した。


その書類には発症者であろう人間の顔写真と住所、そして簡単な経歴と発症日、症状などが記されていた。


男女比で言えば、圧倒的に男性の発症者の方が多い。


…だが…


「有名大学卒業者に、IT企業の重役、飲食店勤務にゴミ集積所…あまりこれといって主だった共通点はなさそうだな。」


書類に目を通しながらポツリと呟いた俺の言葉に、バレリーが顔をしかめながら俺の事を睨みつけた。


「…あなたの目って節穴?それでもライターなの?」


「…どう意味だよ。」


「そのままの意味よ。これを見て。」


そう言ってバレリーは、机の上に巨大な地図を広げはじめた。


どうやらその地図はこの街の地図のようで、ちゃんと街の中央に位置する場所にはマルッセル劇場が記されている。


「その書類の人達の出身地の所に書かれている住所を順番に読み上げてみて。」


「…あぁ。」


俺はバレリーのその言葉の意図する所が分からず一瞬怪訝そうな表情で彼女を見つめたが、一つ咳払いをして自分の声の調子を確認すると、彼女に促されるがままに、一枚ずつ書類をめくってはそこに記されている一人一人の出身地の住所を読み上げていった。


「ライズ・グルーマン、サウスストリート2番の4、サラ・ヒース、ウェストストリート16番の7…」


バレリーは地図上の俺が読み上げていく住所の場所に、一つ一つ赤い小さなピンを突き立てていった。


「ナタリー・ミラー、イーストストリート7番の8、カルロス・ドーラ、ノースストリート12番の1…」


読み上げられる住所の数が増えてゆくにつれて、その地図上へと突き立てられるピンの数も次第に増えてゆく。


はじめは無造作に突き立てられているかのように思われたそのピン達も、数が増えるにつれ次第に形をなしてゆき、そして全ての住所が読み上げられた頃には、まるで円のような形となっていった。


「…これは…」


目の前に突如として広がったその光景に、俺は思わず驚きの声を漏らす。


…ベイウェスト・ミドルスクール————…


そのピン達が織りなす円の中央に記されていたのは、その学校名だった。


「全員同じミドルスクールの校区内…!」


「…そう。しかもその全員の年齢が22歳と23歳という事は…」


バレリーのその言葉に、俺は急いで手にしていたパーソナルデータの書類から、全員の生年月日を確認した。


「…全員学年が一緒…!」


「…ご名答。」


「…ちょっと待てよ、もしかして…」


ほとんどバレリーからの誘導ではあったがそのミドルスクールの名前を見た瞬間、ある事に気がついた俺は、急いで自分のスマホを取り出すと、ある一枚の画像を開いた。


その画像は、以前ロベルトさんの家で見せてもらったグレッグが絵画で章を取った時の新聞の切り抜きをスマホで撮影したものだったのだが、俺はその写真を大きく拡大すると、グレッグが持っている盾の部分を凝視してみた。


「…やっぱりな。」


盾の部分に記載されていたのは、ドールズ新聞社賞受賞、グレッグ・オールセンと書かれた文字の下に『ベイウェスト・ミドルスクール6学年』と記されていたのだ。


「…誰なの?その人…」


突然何かを思い出した様子でスマホを操作しはじめた俺の異変に気がついたバレリーが、俺のスマホを覗き込みながらそう声をかける。


「いや、これは俺が日雇いのバイトをしている時に出会った人の息子さんなんだがな…この人も数年前に例の症状を発症して命を落としたらしいんだ。この時のグレッグが12歳だから…」


まるで独り言かのようにバレリーにそう答えながら、俺はすぐさまその記事をスクロールしてその記事が掲載されていた日を確認した。


…すると…


「…ビンゴ!グレッグは生きていれば今年で27歳。つまりこのデータの人達と同じ学年だ。」


そう言って俺は、バレリーにその画面が表示されたスマホを手渡した。一方バレリーの方はというと、その記事の日付を確認すると、先程の俺と同じように写真の中の盾部分を拡大して、手元のリストと照らし合わせ始めた。


「…グレッグ・オールセン…?そんな人、このパーソナルデータの中にはないわよ?発症者で、なおかつ死亡届が出ている人ならばこのリストの中に入っているはずだけど…」


「…隠蔽されてんだよ。」


「…え?」


俺の言葉に驚いたバレリーが、思わず顔をあげる。


「グレッグ・オールセンが亡くなったのは2年前。しかも発症直後にマルッセル劇場へ運び込まれる暇もなく亡くなってるから死因は、会社側の都合でという事で処理されているはずだ。」


「…それって…」


ガチャ…


バレリーがそこまで言ったところで、突然俺達がいる部屋の扉が開かれ、一人の若い女性職員が中へと入ってきた。


(…ちょっと…!あなた部屋の鍵…!)


(…悪ぃ!掛け忘れちまった)


小声でそんなやり取りを始める俺達。

俺達が口をつぐんだ事で、急に静かになった部屋の中をその女性職員が歩く靴音だけが鳴り響く。


女性職員は部屋の中に俺達がいる事など気にも止めていなかったようで、本棚の前に立ち止まると彼女は何やら探しはじめた。


「…ですから!ここは役場であって、あなたのようなアルコール中毒者が来るところではないんです!あなたが行くべき所は、役場じゃなくてきちんとした医療機関ですよ!」


突然バレリーが俺に向かってそう声を荒げる。


「…は!?突然何を言い出すんだお前…俺はアル中なんかじゃ…って、痛ってぇ!」


突然訳の分からない事を言いはじめたバレリーに抗議をしようとした俺の足を、バレリーは机の下で蹴って黙らせた。


(…何すんだよ、もー…)


(…いいから話を合わせて!)


「いいですか?今日は受付が混雑しているのでこちらで対応をいたしますが、あなたが行くべき病院の住所は…」


そう言って手元にあった書類を裏返して、俺に見えるように筆を走らせはじめるバレリー。


そこには、


”彼女の名前は、キャサリン・ブロッサム。

大丈夫、私の同僚よ”


と書かれていた。


「キャサリン、あなたも調べ物?急ぎの資料じゃなければ私が探してあなたの部署まで持っていくけど…」


そのメモを書き終えたバレリーは、その場で立ち上がると、キャサリンに向かってそう声をかけた。


しかし当のキャサリンの方は、そんなバレリーの声かけになど全く動じる様子すらなく、相変わらず本棚の前で突っ立ったままとなっている。


…バレリーの声が聞こえていないのか…?


この時のバレリーの呼び声は、キャサリンの元へと届かせるには十分すぎる声量のはずだった。


それなのに、そんなバレリーの声に全く反応を示さないキャサリンに妙な違和感を感じた瞬間…


俺の鼻先に、ツンと刺激するような独特の香りが届いた。


「…お前…!」


そのよく嗅ぎ覚えのある匂いの正体を良く知っていた俺はすぐさまその場で立ち上がり、キャサリンの元へと駆け寄ろうとした。


その瞬間——————…


キャサリンの目の前に突然、紅く燃え盛る炎が立ちあがった。


「…くそ…!」


バレリーは突然の出来事に悲鳴を上げている。

俺は煙を吸い込まないようにハンカチで自分の口を押さえながら近くにあった消火器を掴み、そしてすぐさまその炎に向かって噴射した。


けたたましく鳴り始めた火災報知器の音と共に、天井からはスプリンクラーの水が大量に噴射され始めた。


炎の近くにいたキャサリンの右腕はすでに炎の中へと呑まれはじめてしまっていたが、俺の消火器とスプリンクラーの水のおかげで、キャサリンの腕に燃え移った炎と本棚の火は無事に消し止められた。


だがキャサリンの右腕の袖はすでに焼け落ちており、その下からは赤黒くただれた皮膚が露出している。


「…何やってんだよ!?お前、マジで!」


キャサリンの元へと駆け寄った俺が、自分の上着を脱いでキャサリンに被せようとしたその瞬間…


キャサリンはようやくゆっくりとこちらを振り向くと、にぃっと口元に小さな笑みを浮かべ、そのまま気を失ってしまった。



「…どうしてキャサリンはあんな恐ろしい事を…」


あれから火災に気がつき、駆けつけてきた職員によって警察と消防が呼ばれたが、今回の件も結局例の奇病が発症した事による事故として扱われるようで、キャサリンは火傷の治療の為すぐに病院へと搬送された。


「…この街はすげぇよな。放火も立派な犯罪だろ。」


まだ強く焦げ臭い匂いが充満する室内で、すっかり暗くなってしまった窓の外を眺めながら俺はポツリと呟いた。


向こう側の窓の奥でも、今回の火災を受けてか、相変わらず職員が忙しそうに走り回っている。


「…キャサリンは私の同期でね…彼女がこんなひどい事をするなんて信じられない…」


水浸しになった床と、すっかりと焼け落ちてしまった本棚の灰を片付けながらバレリーがそう答える。


床の上には、キャサリンが持っていたと思われる化粧ポーチとその中身も散乱していた。


「…あんたも残念だったな。せっかく集めたリストも灰になってしまって…」


そう声をかける俺に向かって、バレリーはその場で立ち上がりながらこう答えた。


「それなら大丈夫。ここに置いてあったのはただのコピーで、データの原本はこのUSBに入っているから。」


そう言ってバレリーは自分の着ていたブラウスのボタンを一つ開くと、首から下げていたUSBを俺に手渡した。


その様子を見て、思わず俺は顔をしかめた。


…全く、この親子は揃いも揃って大切なものは首から下げるという習性があるんだな。


そんな事を思いながら、俺は自分のカバンからパソコンを取り出すと、バレリーから受け取ったUSBを差し込んだ。


その中には確かに『採用者・発症者リスト』というフォルダが存在していた。


俺はそのフォルダの検索フォームに、迷わずある人物の名前を入力した。


その瞬間…


「…おい。お前の目の方こそ節穴かよ。」


その検索結果に驚いた俺の口から、自然にそんな言葉がこぼれ落ちた。


「え?」


険しい表情でパソコンに向かっている俺の異変に気がついたバレリーが、間の抜けた声をあげた。


「キャサリン・ブロッサムなんて人物、この役場内には存在しねーじゃねーか。」


そう言ってバレリーに向けたパソコンの画面には、


”キャサリン・ブロッサム 該当者なし”


という赤文字が大きく表示されていた。

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