十五話――おにいちゃん


――31


「あたしを殺してください」


 この台詞を初めて妹に言われたのは、僕がまだ小学四年生の頃だった。


 初めは何かの冗談かと思った。

 けれど、それが冗談でもなんでもないことは、すぐに判明した。


 そりゃ、毎日毎日――飽きることなく同じようなことを言われ続ければ、信じるしかないだろう。

 

「どうおにいちゃん! このプランなんだけど!」


 最初は適当にあしらっていたさ。

 妹は次第に諦めると思ったし、なによりそんなことを僕がするわけがないから。


 ただ、妹は僕の予想を裏切り、その意思をどんどん強めていった。

 

 妹がこんなことを言い出してから二か月が経過した頃、妹は具体的なプランを、僕に提案するようにもなっていた。

 

 それは小学生の妹が考えたものにしては、かなり現実味のあるもので、この時の僕はようやく、自身の置かれた現状を理解するに至った。


「じゃあ、いいよおにいちゃん。作戦を変えよう」


 それでも僕は、騙し騙し妹の要求を断り続けていた。

 

 すれば、妹は別の作戦に出たらしい。


「あたしが次の漢字のテストで百点を取ったら、デートをしよう!」


 この時代の妹は、お世辞にも頭のいい女の子ではなかった。

 なので、僕はこの提案をすぐに了承したのだった。


 しかし――


「見て見ておにちゃん! あたしやったよ!!」


 渡されたその漢字のテストを確認すれば、確かに満点だった。


 今まで、百点どころか平均点だって取ったこともなかったのに。


「ん? カンニングなんてしてないよ。あたし、おにいちゃんと遊ぶ為なら、なんだって頑張れるんだもん」


 結局僕は、妹との約束通り妹とデートをした。


 傍から見れば、僕たちは仲の良い兄弟に見えただろう。

 両親でさえ、僕たちが仲良く出掛ける姿を見て、微笑んでいたのだから。



「じゃあ、次はどうしようかおにいちゃん」


 そこから、僕の地獄の日々は始まった。


 事あるごとに、ある条件を提示され、それを妹がクリアすれば、妹の望むことを一つ、叶えてやった。


 一時期は、その小さな要求さえ拒んでいたが、そうすれば――妹はまたあのお願いを……絶対に叶えることの出来ない。叶えてはいけない要求を開始したのだ。


 結局、理性を保つことを優先した僕は、妹がする小さな要求を叶えるしかなかったのである。


 今覚えば、それはきっと妹の作戦だったのだろう。


 とある心理学だか脳科学の本で読んだ――抵抗疲労といって、何度も同じお願いや要求をされれば、脳がそのストレスをため込み、結局はその要求を飲んでしまうのだとか。

 それは主にDV――家庭内暴力で効果を発揮するらしいのだが……はは、これも一種の家庭内暴力だと、笑ったのを覚えている。


「ねぇねぇおにいちゃん、明日が何の日か覚えてる?」


 そう。

 それは妹からの要求を耐え続けて、三年目のことだった。


「お母さんの誕生日だよっ!! なに忘れてるのだっ!」


 もう家族の誕生日すら、把握出来ずにいた。

 もちろん、自身の誕生日なんて以てのほかだ。


 ただ、妹の誕生日だけは――何故か今でも覚えているけれど。


「ということで、プレゼントを買いに行きましょう」


 このイベントは、久しぶりに楽しかったのを覚えている。

 ほんの少しの間だったが、いま自身が抱える問題を、忘れられたから。


 けれど、誕生日の食事を終えて、自室に戻ったその時――絶え間なく瞳から涙がこぼれたのだ。

 僕たちのことを、あんなにも愛してくれている両親。

 その両親に、自身の悩みを打ち明けたい。

 妹の、異常な行動と言動を伝えたい。

 そんな思いを胸に押し殺して、僕は必死に泣いていた。


 もう、逃げ場などどこにもなかったのだ。


「おにいちゃん。昨日友達とアイス食べに行ってたでしょ」


 僕が高校に入ってすぐのこと、環境も変わって、少しだけこの頃は気分がよかった。うん、食事に味がしたからね。


「ずるいよおにいちゃん。あたしとも行かなきゃ駄目じゃない」


 この頃には、もう僕から妹に提案する有様だった。


 妹がクリア出来そうな課題を提供して、それを達成すればご褒美をあげる。


 これも、脳科学だか心理学の本で見た。

 人は大きなお願いをする時、小さなお願いから少しづつ慣らしていくと、そのお願いを聞き入れやすくなるとかなんとか。


 これも抵抗疲労の一種なのかと考え、そこでやめた。


 だって、この時の僕に、残されていたのは最低限の理性ぐらい。

 後は、妹の良きおにいちゃんを演じることに、全神経を集中して生きていたのだから。


「ねぇおにいちゃん。明日から三日間、お母さんもお父さんも旅行で家を空けるらしいよ?」


 この三日間で、僕のすべては壊されたと言っても過言はないだろう。


「わお、おにいちゃんって、結構筋肉質なんだね……」


「次はおにいちゃんがあたしを洗う番だよ! ほらほら! あわあわぁ~~」


「いやん……もっと優しく洗ってよ……おにいちゃん……」


 貞操を奪われ、男としての誇りも、なにもかも。


 まぁ、もともと僕にそんなものは無かったのかもしれないけれど。


「ど、どうしたのおにいちゃん……ち、ちかいよ」


 三日目、僕は初めて妹に手を挙げた。

 女の子に、実の妹に手を挙げるなど最低なことだとは思ったが、いままで抑え込んでいた理性は、なにか取るに足りない……それこそ怒る価値もないなにかの所為で吹き飛んだようだ。


 気づけば、妹は床にうずくまって横になっていた。

 両手で顔を隠し、ぶたれた右の頬を押さえていた。


 流石にやり過ぎたか――そう思ってうずくまる妹に声を掛けるが……


「はぁ……はぁ……はぁ……は、はじめ……て……ぉ……おにいちゃん……あたしを……傷つけてくれた……ぃひ……いひひひ……」


 その時、僕は目の前のそれを――化け物と呼ぶことに決めた。


「えっへっへ! ねぇ見てこれ! 海水浴のお土産だよん!」


 毎日、化け物は僕に気軽に話しかけてきた。


 朝も昼も夜も。

 休まる暇など無かった。


 携帯の番号もアドレスも、勝手に変えると化け物は酷く落ち込んだ。

 しかし、どこからか僕のアドレスを探しだし、大抵メアドを変えて数時間で、化け物からのメールは僕に届くのだ。


「ねぇおにいちゃん。今日……ちゅーしよっか」


 それはもはや、日課となっていた。


 両親の目を盗んで行われたその行為。

 化け物との接吻だ。


 した後は必ず口をゆすぎ歯磨きをした。

 そうしなければ、病気にかかってしまうと、その時の僕は信じていたのだ。

 

「ねぇおにいちゃん! 自己催眠って、知ってる?」


 化け物は、僕に魔法のような技術を教えてくれた。

 なんと、自身の心や記憶を操れるというのだ。


「じゃあ、ゆっくりと目を閉じて……」


 藁にも縋る思いで、僕は化け物の指示に従った。

 ただ、逆らうだけの思考力が、僕の脳には残っていなかっただけかもしれないが。


「あたしの後に続いて……声を出して……」


 僕は言われるがまま、化け物の言葉を反復した。


「僕は……おにいちゃん……」


「僕は……おにいちゃん……」


 もう、化け物が何を言わせようとしているのか。

 そして、何を言っているのかを聞き取ることさえ、困難だった。


 ただ、勝手に口が動いていた。

 そしてそれに伴い、僕の脳はさらに混乱していくことになったのだ。


「ねぇおにいちゃん。提案があるんだけど……」

  

 ある日、それは化け物が中学二年生になった直後――化け物は僕に一ページ分のノートを手渡した。

 そこに書かれていた内容に、僕は久しぶりに心を動かされた。


「これなら……いいかな……?」


 そこには、化け物を退治する為の手段が書かれていた。

 しかも、退治する側の僕が罪に問われることもない。


 あれ……化け物を殺したら、罪になるんだっけ。


「いいんだね、おにいちゃん。もう我慢出来ないよ? ずっとずっと待ってたんだよ? やっと、おにいちゃんはあたしのお願い、聞いてくれるんだね?」


 言われ、僕は泣きつくように化け物を抱きしめた。


 そして化け物も、僕を思いきり抱き締めた。


 何故だかわからないけど、涙があふれた。

 

 そこから、僕の記憶は消えていた。


 おそらくだが、僕は化け物から教わったあの技術を使ったのだろう。

 化け物が死んだあの日――母さんや父さんが泣きじゃくる姿を見て、僕は理性というものを取り戻したのだ。


 自身を偽り、妹を化け物と呼んで、殺した。

 

 違う、僕は火をつけただけ。

 僕はなにも悪くない。


「おにいちゃん。ありがとうね」


 今でも僕は、妹の幻覚を見ることがある。


 それは気まぐれに現れては、僕の耳元で囁いていく。


「すきだよ、おにいちゃん」


 時に感謝の言葉を、時に愛の告白を、幻覚は囁いていく。


 そんな時、僕はあの必殺技――自己催眠という奴で、自身を偽った。

 

 慣れてしまえば、案外便利な代物である。


「殺してくれて、ありがとう」


 やめろ。


「あたしは、おにいちゃんに殺されたんだ」


 やめてくれ。


「あれ、なんであたしは死んだのに。おにいちゃんは捕まってないの?」


 助けてくれ。


「いやいや、それは勝手が過ぎるよおにいちゃん」


 もう、いい加減にしてくれ……


「わかってないなおにいちゃん」


 僕は解放されたんだ。


「あたしはいつまでも……」


 僕の心の中で、一緒にいる。


「そう、わかってるじゃん。流石、あたしのおにいちゃん」


 僕は妹が大好きだ。


 僕は理想のおにいちゃん。


 妹が大好きな、カッコいいおにいちゃん。

 

 妹は自殺した。凄く悲しかった。


 お母さんも泣いている。


 なんとかしなくちゃ。


「じゃあ、警察に相談してみる?」


 駄目だ。僕は捕まりたくはない。


「なら、どうするの」


 どうも……しない。


「え、人を窒息死させておいて、それはずるいよおにいちゃん」


 苦しかったか。


「くるしかった」


 辛かったか。


「うん、とっても」


 ごめんな火鉢。

 ありがとう。


「ふふ、やっと本音を言ったね」


 そう……かもな。

 僕は昔から――妹を殺したくて、たまらなかった。


「でも、お母さんはどうするの?」


 なんとかする。


「誰か相談出来る相手はいるの?」


 一人だけ……心当たりが……


「その人は……信頼出来るの?」


 わからない……ただ――


「ただ……?」


 きっと、僕を救ってくれる。



 その時だ、僕が木漏日あさがおに目を付けたのは。

 

 彼女は地元では知らぬ者のいない有名人で、どんな事件も解決に導くと噂されている。


 単なる噂なので、信憑性は皆無だが、頼ってみるのもいいだろう。


 僕は、母さんを助けるんだ。


 

――32




 ぐしゃぐしゃに丸められた一枚の紙を、ごみ箱に捨てた。

 なんとも、狂気に満ちた内容であると、小林灯火は笑みを浮かべた。


 文脈も時系列も所々ぐちゃぐちゃで、まるで頭のおかしいイカレ野郎だ。


「ま、それは今でも変わっていないか」


 紙に書かれた思い出と共に、何かを捨て、覚悟をした灯火は、予行演習も兼ねて脳内シミュレーションを試みた。


 第一声はどうしようか。

 こういうのは第一印象が肝心だ。

 

 初めましてあさがおさん。

 事件があるんだが、興味はないかい? 

 こんな所で何をしているのかね?

 ちょっと一緒にお茶しない?

 妹が……自殺したんだ……


 どれも駄目だと、灯火は頭の中でため息をついた。

 まぁ、第一声はアドリブでなんとかするとして、事前に調べた情報を、灯火は確認することにした。


 灯火の調べでは、この曜日に――彼女は必ずここを通る。

 

 やや茶色い髪を腰まで伸ばした長髪に、切り揃えられたぱっつんの前髪。

 くりくりの丸い目に、人目を惹くというその可愛らしい容姿。


 情報はそれぐらいだが、きっと見ればわかるはず。


「ったく、どんな根拠だよ……」


 小さく呟いて、灯火はその時を待った。


 すると、その瞬間は訪れた。


 下校を知らせるチャイムが鳴り響くと同時、階段をゆっくりと降りてくる、足音が廊下に響いたのである。


「待ってくださいっ!!」


 灯火は叫んだ。

 久しぶりに考えて言葉を発したので、音量調節をミスってしまったらしい。


 けれど、そんな自身の犯したミスを――次の瞬間、灯火は忘れてしまったのだ。


「……きれい…………だ…………」


 振り向いたその人物は、灯火の予想を遥かに超える程の美貌を持っていた。

 否、それとは少し違った気もした。


 何故だか、無性に込み上げてくるものがあったのだ。

 

 今まで言いたかった言葉。

 頭の中では幾度となく叫んだ、悲痛の叫び。


 今ぶちまけてしまおうか。

 灯火は思い悩んでいた。


 けれど、そんな逡巡など、夕日に照らされたあさがおを見て、吹き飛んだ。


「助けてくださいっ!!!!」


 心の底から、そう叫んだ。

 数年間――心の中に押し込めた想い、そのすべてを込めて、叫んだのである。


「……まかせなさい」


 あまりにも簡単に、放たれたその言葉を聞いて、灯火は諦めた。


 あぁ、やっぱり僕は……助かりたいんだ。


 不幸になることを、諦めたのだった。

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