七話――黒い鷺と白い鳥
――15
無事、なにごともなく朝を迎えたあさがおは、翔と共にある場所を目指し、街を歩いていた。
小林灯火から依頼された事件。小林火鉢自殺事件。その真犯人を探し出す為の捜査を、これから行うというのだ。
正確に言えば、その真犯人というのは、事件の依頼人である小林灯火であると、探偵――こちらも正確に言えば机上探偵である白髪少女、シロが断定しているので、今から行われる捜査――これは小林灯火が小林火鉢を殺した証拠。これを集める為の捜査であるのだった。
シロがいったいどんな推理をし、どうして真犯人を小林灯火だと断定したのか、それはあさがおには到底わからなかった。さらに言えば、あさがおの隣を歩く、自身とソファで一晩を過ごしたシロの『手』と呼ばれる男――白鳥翔にすら、わかっていなのだ。
しかし、机上探偵であるシロが、机上で下した推理に間違いなどないのだ。
少なくとも、翔はそう信じて疑っていないようである。
可愛らしい少女であるシロの言葉を信じたいという気持ちと、自身を頼って声をかけてきた小林灯火が実の妹を殺した犯人ではないと、そう信じたい気持ちとで、あさがおの心中は荒波のように荒れていた。
けれど、もしも――小林灯火が真犯人だったとして。
あの日、夕暮れ時の廊下で、小林灯火が言い放った言葉。
僕を助けてください。
そのひとことだけは、あさがおの中で確定の真実だと断定出来ていた。
信じることが出来たのだ。
ならば、あさがおは行動するしかないのだ。
真実の解明を、灯火が抱える、底知れない闇を晴らす為に。
「難しい顔してるとこ悪いが、あさがおさん。そろそろ目的地周辺だ。色々考えるのもいいけどよ、なにごともまずは準備ってのが大事だ。と、いうことで……」
言って、あさがおの隣を歩く白鳥翔はある場所を指さした。
大通りから一本道をずらした、大型マンションが連なる住宅街。
そのマンションとマンションの間に建つ、小さな喫茶店。
時刻午前十一時を少し過ぎた頃、緑色の看板の横、透明なガラス越しに見える店内には、あまりお客さんの姿は見えなかった。
おそらくモーニングラッシュを終えて、現在店内は落ち着いているようである。
「僕たち、朝起きてすぐに支度をして家を出ただろう。
「確かに……言われてみれば私、昨日の夜からも何も食べていない……」
その時、あさがおのお腹から可愛らしい、ぐぅうという音が鳴り響いた。
「まぁ、いきなり色々な事が起きたからな。食事を取るのも忘れて考えごとをしてても無理ないぜ。だが、体は正直だな」
そう言って翔は、右手の人差し指であさがおのおでこをちょんと、優しく突いた。
「……な、なにをしているのかねっ?!」
一瞬怯んで、たまらずあさがおが文句の言葉を口にするも、その時にはもう翔は喫茶店の入口に手をかけていた。
「も、もう……からかわないでよ……」
小さく文句を言うと同時、あさがおも翔に続くように、小走りで緑の屋根が可愛らしい喫茶店へと足を運んだ。
「いらっしゃいませぇ~……って、あらあら、誰かと思えば翔君じゃない!」
店内に入ると、従業員の一人であろう三十代ぐらいの女性が、いらっしゃいませの掛け声の後に続いて、そんなことを言った。
翔君とは、当然だがあさがおの目の前に立つこの男――白鳥翔のことだろう。
「どうもこんにちわ、岡本さん。相変わらずお元気そうでなによりです♪」
「うんうんっ、翔君に会えたんだもん、元気にもなるわよぉ~」
「ははっ、そう言って頂けると、僕も大好きなこのお店に通いやすくなりますよ♪」
どうやらこの喫茶店の店員さん、翔は岡本さんと呼んでいたが、岡本さんと翔は、
顔なじみのようである。話の流れから、翔はこの喫茶店に何度か足を運んでいるようで、店員さんと仲良くなる程、通い詰めているようであると、あさがおは小さな推理をしていた。
そんな時、店員さんが不思議そうにあさがおのことを見ていることに気が付いた。
なにやら、ちらちらとこちらを見ては、店の外を確認しているようである。
「あら? 今日は
「あぁ、今日はみずきと一緒ではないんです。あいつは朝が苦手ですから」
ここで、初登場になる名前を、あさがおは聞き逃すことはなかった。
黒鷺みずき。おそらく、その女性の名前はこうだろう。
黒鷺ちゃんと、店員さんが呼ぶということは、おそらくその人物は女性であるに違いない。そして、翔が詐欺師モード(翔が紳士の仮面を被り、本性を隠している時)に入っている状態で、女性のことをあいつと呼ぶということは、かなり親しい人物、またはあいつと呼んでも、違和感のない人物だということ。
これは、昨晩翔本人から聞いた、翔の彼女さんではないだろうか。
シロと出会ってから、なにかと推理することがマイブームとなっていたあさがおは、小さな会話の中からこの推理を叩き出したことに、密かな達成感を感じていた。
そんなことを知る由もない翔は、その後も少しばかりの世間話を店員さんと交わすと、あさがおを誘導し、店内の一番奥の席へと連れていった。
「ふぅ、待たせて悪かったね。この店は僕のお気に入りで、よく来るんだ。だから、店員さんとのスキンシップは欠かせない。まぁ、仕事の関係上、こういう情報取集はしなきゃ駄目なんだろうけど」
「まぁ、それは見ててなんとなくわかりましたよっ」
自身の推理が当たっていたことに、少しの優越感を感じて、あさがおは内心喜んでいた。
「ん? どうした? なんか楽しそうじゃん」
「別にー、そんなことないですよ?」
誤魔化してはいるが、あさがおの口角は縦に伸びて、それに釣られるように言葉の語尾は上がっていたのだ。
誰の目から見ても、今のあさがおは少し気持ちが悪いだろう。
「ま、まぁいいけどよ。なに食べるよ?」
言って、翔はこの喫茶店のメニューを広げた。
きっちり、あさがおが読みやすいように向きを変えて。
「うーん、どれも美味しそうで魅力的ですなぁ……うむぅ……」
「確かに、ここのメニューはどれも絶品だからな。悩むのは無理ねぇ」
「翔がそう言うってことは、本当にそうなんだろうねぇ……」
本格的に悩んでしまったあさがお。
見かねた翔は、ある提案をすることにした。
「ならさ、ここは僕のおすすめを試してみるってのはどうよ」
「翔のおすすめ?」
「そうそう。このお店なら『いつもの』って言えばそれが伝わるぐらい、そればっかり食べてるぐらいだぜ。ちなみに……クレープは、食べれるか??」
クレープ――その単語を聞いた瞬間、あさがおの瞳がキラリと光った。
「好きいいいいいいいい!!!!!!!! 大好きクレープ!! あいらぶクレープ!! クレープ無しでは生きていけない!! あるの?! メニューにないけどっ!! あるのクレープ?!」
「お、おちつけよバカっ……」
「あ……ご、ごめんなさい……つい……」
好きなものは甘いもの。その中でも、あさがおはクレープを愛していると言っても過言でない程、好いていたのだった。
「ま、まぁ……そんだけ好きならちょうどいいぜ。岡本さーん! いつもの二人分!! お願いします!」
「はーーーい。かしこまりました~」
翔が注文を終えて数分が経った頃、あさがおの待ち望んだ瞬間は、すぐに訪れた。
「お待たせしました~。翔くんのいつもの二つ!」
店員さんがそう言って席に置いたのは、白い大き目の皿に載った、少し小さめのクレープ達だった。ひとくちからふたくちで食べ終えてしまいそうなサイズのクレープが、豪華にも六つ並んでいる。甘いもの好き――さらにはクレープをこよなく愛するあさがおからすれば、これ以上にないチョイスであった。
「ふふ、黒鷺ちゃんは甘いもの苦手だけど、あなたは翔くんと同じで大好きみたいね」
「はいっ!! 愛しています!! ぎぶみー糖分です!!」
「あははっ、翔くんの傍にはいつも可愛い子がいるみたいね。黒鷺ちゃんはどっちかっていうと綺麗系だけど、この……えーと……」
「あ、木漏日です! 木漏日あさがお! あさがおって呼んでください!」
「あさがおちゃん! うーん、あさがおちゃんは本当に癒し系よねぇ……私の娘も、こんな可愛い子に育ってくれれば……」
「岡本さん、そろそろ仕事に戻らないと。木漏日さんが可愛いのは、僕もよく理解していますから、大丈夫です♪」
クレープに夢中であったあさがおだったが、よくもまぁ抜け抜けと放たれた虚言に、思わず翔を睨みつけてしまった。
しかし、クレープの魅力には勝てず、すぐにその綺麗に並べられた六種類のクレープを眺め、どの順番で食べようか考えることに集中していた。
「あらそうねっ。じゃあ、わかってると思うけど、ホイップクリームは別皿のこれに載せておくから、好きなように食べて。おかわりも大歓迎だからね」
「はいっ、いつもありがとうございます♪ では、さっそ……」
「いただきまぁぁぁぁぁす!!!!!」
店員さんが去るよりも、翔が手を合わせるよりも早く、あさがおの元気のよい声が、店内に響き渡った。
「あらあら、元気がいいことっ♪」
「す、すいません……うちの子が……」
「ううん、本当に美味しそうに食べてくれて、こっちも嬉しいもん」
そう言って、満面の笑みでこの場を立ち去る岡本さんを眺めて、翔は唇を噛み締めた。それは、人の心を操る、自身の心さえ操り会得した対話技術をもってしても、あれほどの、心からの笑みや喜びを作り出すのが難しいということを、翔は誰よりも知っていたからである。
「ったく、こいつはいいよな」
そう呟いて、少しだけ、ほんの少しだけ、頬を膨らませた。
「翔、食べないの? おいしいよ??」
そんなことを知る由もないあさがおは、口にホイップクリームを付けながら、満面の笑みで翔にそう、声をかけた。
「あぁ、お前に言われなくても、そうするさ」
少し語気を強めて、しかしどこか嬉しそうに、翔はクレープを一つ、口に運んだ。
実はあさがおよりも、誰よりもクレープが大好きなことを、翔はまだ、誰にも打ち明けたことはなかったのだった。
――16
「だから!! それだとクレープ本来のバランスが大きく崩れてだね」
「いやいや、だから本来のバランスってなに?! 翔が言ってること、全然理解出来ないんだけど」
「いやいやいやいや、何回言わせるんだ……。だから――クレープにそんなにホイップを付けたら、クレープが可哀想だと言ってるんだよっ!!」
時刻は既に、正午を回り午後一時を半分程過ぎていた。
あさがおと翔が立ち寄った喫茶店――その店内には、一時間程前から、先のような二人のクレープを巡る論争がこだましていたのだった。
「いいじゃん別に!! 私はこの食べ方が一番美味しいの!! 人の食べ方に、いちいちケチつけないでよっ!!」
「見ていられないんだよっ! 僕の大好きな……大切なクレープ達が、あんな……あんな大量のホイップに包まれているのがっ!!」
この論争は、二人のクレープというスイーツを食す時の、少しばかりの作法の違いから端を発したのだった。
あさがおは、店員さんによって運ばれたホイップクリームを、なんと三回もお代わりし、それを豪快に使いクレープを食した。
対する翔は、皿に並べられた六種類のクレープに、バランスよくホイップクリームを使い、時にクレープ本来の味を、時にホイップを豪快に口に含み、自身が考える黄金比率に従って、クレープを食していたのだ。
誰よりもクレープを愛していると信じて疑わない翔は、そのクレープの食し方に関しても、自分なりに哲学を持っていたのだった。
なので――
「クレープちゃん達は幸せだったよ!! だって、こんなに美味しく食べてあげたんだもん! 翔は食べ方に拘るあまり、きっと私よりもクレープちゃん達を美味しく食べてあげてないねっ」
「な、なにを言ってるんだ……こ、この僕が……愛すべきクレープ達を美味しく食していない……? クレープ達は幸せではない? は、はは……そんなこと……ある筈がないだろうがっ!!」
このように、傍から見ればどうでもいいような……けれど、本人たちにとってはとても重要なクレープ論争は、その熱を上げていくのである。
「だいたい、これは僕のおすすめの、僕がこのお店の店員さんと相談して作り上げた、最高のクレープ達なんだ。なのに、あさがおは好き勝手に僕のクレープ達をホイップまみれにして……」
「別にいいじゃんか! それに、もしおすすめの食べ方があったのなら、翔はそれを事前に私に伝えるべきだったんじゃないかな?!」
「あぁ、確かにその通り。僕もそのつもりだったさ、だけど……あさがお……覚えていないのか?! 僕が丁寧に、ホイップをクレープ達に塗っていた間に、いつの間にかホイップをお代わりし、知らぬ間に完食していたことを!」
右手の人差し指を、ビシっと効果音が聞こえそうな程綺麗に、翔はあさがおに向けて突き出した。その顔は何故か真に迫っていて、まるで事件の真相を語る探偵が、犯人に証拠を突き出した時のようだった。
対する容疑者あさがおは、そんな推理は間違っていると、左腕をぴんと天井に伸ばし、反論をした。
「そんなの知らないよっ! だって、翔こそ覚えてないでしょ? 私が何回も『おいしいねぇ翔ぅ~』って声をかけても、だらしない顔でクレープにホイップを塗ってたことを!! 翔、物凄い集中してたんだからね? 私の声も、店員さんの声も全部無視してたからね?」
「な、なん……だと……」
慌てて翔は、なじみの店員さんである岡本さんに視線を移した。
そして、『今の話は本当ですか? 嘘ですよね? そう言ってください』という趣旨が伝わるよう――目を見開き、眉を顰め、下手っぴな笑みを浮かべた。
しかし、対する店員岡本さんはというと……
『残念、全部本当の話だわ』という意味を込めて、たったワンアクション。
両手を上に挙げて、アルファベットのWのようなポーズを取ったのだった。
「そんな……ばかな……」
翔は席を立ち、あろうことか店の通路に膝をつき、両手を挙げた。
「僕としたことが……まさかクレープに気を取られて……人様にあられもない姿を晒していたなんて……」
翔にとって、他人の前で本性を出してしまうことは、最大のタブーであり、恥ずべきことなのだった。
机上探偵の『足』であり、元はプロの空き巣として世間を賑わした翔。
彼にとって、偽りの仮面を被り続けることは、一種のポリシーであり、自身がここまで生き残ってきた手段でもあったのだ。
であるからして、あさがおはともかく、顔見知りの店員さんである岡本さんに、あろうことかクレープに夢中になる自分を見られていたことが、ショックでたまらなかったのである。
「か、翔……だいじょうぶ……?」
「………………」
あまりの落ち込み具合に心配し、膝をつく翔の傍に近寄るあさがおだったが、翔のショックは思ったより大きかったらしく、あさがおの声に反応する余裕さえ無かった。
「そ、そんなに落ち込まなくてもね……? 大丈夫だからね? うん、私もよく、可愛い子とか美味しいもの見つけちゃうと、他のこと見えなくなっちゃうことあるしさ。大丈夫だから……ね?」
そう言って、あさがおは翔の頭を、よしよしと撫でた。
まるで、お母さんが泣いている子供をあやすように。
すると、翔はうな垂れる顔を持ち上げ、うつろな目をして、声を出した。
「……はぁ……なんで僕が、昨日あったばかりの女の子に慰められてるんだか……まったく、いやになるぜ……」
「かける…………」
「わかってはいたんだ……理解はしてた……」
言って、翔はうつろな表情で、低く小さな声を出し、語り始めた。
「演技には限界があるってことも、本物に偽物が敵わないってことも……僕のしてきたことは、全部無駄だったんだよな……あぁ、知ってたさ……」
そう言って、今度は店の床に顔をつけ、倒れてしまった翔。
「え、えっと……これは…………」
クレープの話から、まるで話が飛躍してしまっていて――あさがおはどうしたらいいのかわからなくなっていた。
翔が言う本物だとか偽物だという言葉の意味も、翔がどれだけの想いで、今まで偽りのキャラを演じてきたのかも、わからなかった。
けれど、しかし――あさがおは本物だったのだ。
翔が言った、本物――その言葉に相応しい人物なのであった。
それを、本人であるあさがおは自覚さえしていない。
けれど、本物は本物であるが故――無意識にその本領を、発揮するのであった。
「大丈夫だよ、翔――」
そう言って、あさがおはもう一度、翔の頭を撫でた。
何度も、何度も――優しく、優しく撫でた。
そして、翔を元気にしたいという、ただのそれだけの願いの為に、口を開けるのである。
「翔が、いったいどういう想いで、今みたいな性格になったのか。そして今みたいに偽りの仮面を被ることにしたのか、私にはわからないよ。けどね――それが間違ってるわけないってことは、私が保証してあげるよ」
「……………………」
「ふふ、その証拠に当ててあげる……今翔は、『なんで間違ってるわけないって、言い切れるんだよこの女は』って思ったよね。どう、当たってるでしょ」
その言葉の語尾に、ハテナマークは付いていなかった。
その真意は、あさがおには確信があったのである。
翔がそう思ったという、確かな確信が。
それは、シロのような類まれなる推理力があったわけでも。
はたまた、翔のような対人スキルや心理学の知識があったわけでもなかった。
ただ、それはあさがおが、真に本物であったからである。
翔が語った、本物というのは……まさしく、あさがおそのものなのだから。
「翔が今までみたいに、偽りの仮面を被って、翔自身を偽ることを、私は応援していきたいの。確かに、翔が嘘をついてるって、私はすぐに思って、なんでそんなことをしてるんだろって、不思議だった。けどね、わかったの。翔とまだ少しだけだけど、行動を一緒にして、わかった。それは…………それはね…………」
「……………………」
「翔がつく嘘には、必ず、誰かに対する想いがあるの。愛とか、思いやりがつまっているの。誰かを笑顔にしたい、誰かを守ってあげたい、誰かを幸せにしたい。そんな、たくさんの想いが、翔の嘘にはつまってる。シロちゃんを守りたい、助けたい、そして、私のことも、店員さんのことも。そんな翔がつく嘘は、きっと必要な嘘で、演技ではあっても、偽りなんかじゃないよ。その証拠に、一番たくさんの嘘をついてきた筈のシロちゃんは、翔くんのことを、とっても誇らしげに……それこそ、自分の体の一部みたいに、紹介してたんだもん……」
翔本人も、わかっていたことだった。
自分は、誰かの為に嘘をついているのだと、どこかで自覚していた。
元はといえば、子供たちのつく嘘を見抜けない大人達。
それを心配して産まれたのが、怪盗チルドレンなのだから。
けれど、そんな気持ちの本流を、本人である翔はもう、覚えてすらいなかったのである。心の片隅に置き去りにされ、川の流れに逆らうように、まるで小枝に引っかかる木の葉のように、川の隅で忘れられていた。
それを、あさがおは見逃さないのである。
小枝を折らないように、川の流れに逆らわないように、ゆっくりと丁寧に、優しい音色を伴って、元の川に流すのである。
「…………はっ、なら余計に駄目じゃねぇか……その演技をミスったら……」
自嘲気味な口調で、か細い声で翔はそう言った。
そこまで理解してくれていたのなら、わかってくれと思うのだ。
白鳥翔の演技は、完璧でなければいけないのだと。
あの日、あの人から託された願い――シロを、助けるという頼みを完遂する為には、完璧でなくてはいけなかった。
中途半端では駄目なので。偽物は偽物なりに、完全な偽物にならなければ、それは偽物ですらなく、ガラクタなのだから。
「ははっ、翔は人の気持ちがわかってないなぁ……」
「な、なんだって……僕が、人の気持ちをわかっていない……?」
翔にしては珍しく、少し怒気を込めてそう言った。
この時すでに、翔は立ち上がり、あさがおの遥か頭上に位置していた。
対するあさがおは、そんな翔にいっさい怯むことなく、余裕の笑みで翔を見上げていた。まるで、もう決着をついているような。
この小さく、けれど大切な事件は……もう解決していると言わんばかりであった。
「わかってないよ、翔は。確かに、翔はミスをしたんだ。大好きなクレープを前にして、我を忘れて、自分になった。素になった。それで、店員さんはどう思ったのかな? 店員さんは言ってたよ? いつもこうして、夢中で私たちの作ったクレープを食べてくれるのが嬉しいんだ――って、その時が、一番嬉しいって。私だってそう、私の大好きなクレープを、一緒に美味しそうに食べてくれる翔を見てて、とっても幸せだった。翔は、そこをわかっていない。完璧を求めるなら、ミスをカバーするぐらいの演技を求めてよ。ミスをミスと思わせない……本物の偽物になってよ。それを、私は応援したいの。翔が言う本物っていうのが、どんなものなのか、私にはわからないけど……翔が目指している完璧な偽物を、私は大好きなんだよっ♪」
「…………ミスを……ミスと思わせない……演技……」
本物の偽物――完璧な偽物。
かつて自身がなろうとしたものの、最終形態。
自分は、どれだけ甘かったのだろう。
反対に、この女はどれだけ厳しいことを言うのだろうと、この時翔は思った。
優しい顔をして、天使みたいな声をして、悪魔みたいなことを言いやがる。
けれど――やはり……
「女の子に大好きって言われたなら……頑張らないと男じゃねぇ……な……」
翔は、そう言って立ちあがった。
あの日、あの孤児院で、人生で初めてミスを犯したあの日。
彼女から言われた、本物から言われた、大切な言葉を思い出して――
「ふんっ、あさがおに言われなくてもわかってんだよ。今のはあれだ……そう、完璧美少年である僕にも、人間らしい所があるって、岡本さんに見せつける為の演技だったんだよ。馬鹿め、騙されやがったな」
「あらあら、そうだったんだ。そいつは……騙されたっ」
どうやら事件は無事解決だと、あさがおは確信し、席につこうと足を踏み出した……けれど、予想外の事件は、これから始まりを迎えたのだ。
「おい待てよっ、まだ終わりじゃねぇってのっ……」
「ん? まだなにかっ……って………………………え」
鼻腔に広がる、甘くけれど爽やかな匂い。
両肩から体に巻き付く、生暖かく、けれどがっしりとした温もり。
首筋を這う、こそばゆい感触。
そして、自身の頭蓋骨に響き渡る――優しい声。
「ありがとうあさがお。僕も、君が好きだ」
自身を抱きしめそう言った、白鳥翔の感触が、あさがおの全身を支配した。
しかし、これは事件の序章に過ぎなかった。
同時進行をしていたのだ。
もう一つの事件は、随分前からこの店内で巻き起こっていた。
それと、言うのも――
「あらあら、待ち合わせをすっぽかして何をしてるのかと思えば……いいんじゃない。私の存在にすら気づかない程、お楽しみだったのなら、しょうがないわね」
天国すら黒く染めてしまいそうな、漆黒の長い髪。
前髪は無造作に並べられ、その隙間から覗くのはきりっとした眉に、薄暗く光る赤い瞳。
すらっとした体躯を、着ているこれまた黒のスーツがより強調していた。
やや低めの、けれど透き通るような女性の声を聞いて、あさがおはすぐさま理解したのだった。
あ、これ、修羅場だ。
「どうも、初めまして木漏日あさがおさん。黒鷺みずきと申します……これから、仲良くしていきましょうね」
「は、はい……こちらこそ……」
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