第10話 魔の手

 何もない部屋だな、と圭一郎は思った。ベッドや机はある。タンスもあるし本棚もある。テレビに冷蔵庫まで置いてある。金持ちらしい部屋だと言えなくもないが、何故だろう、安いホテルの一室を少し広くしただけに思えてならない。生活感がないのだ。そして女の子らしさもない。


 と言っても別に圭一郎は女の子の部屋に詳しい訳ではない。どちらかと言えば、いやどちらかと言うまでもなく、まるで知らない。何も知らない。しかしそのまるで何も知らない圭一郎の眼から見ても、この部屋には高校生の女の子が暮らしているような気配が見当たらなかった。


「あんまりジロジロ見ないでちょうだい」


 小国とき代はイライラを隠そうともしなかった。


「ここお前の部屋か」

「そうよ、悪い?」


「つまんねー部屋だな」

「放っといてよ!」




 とき代は机の上の鉛筆削りを投げつけてやろうかと思った。しかし腹立たしいことに、ウコッケイは平然と笑っている。


「そんなつんけんするなよ、お前が生きてるかどうか見に来てやったんじゃねえか」

「大きなお世話よ」


 全くこの馬鹿ウコッケイは、自分の立場がわかっているのだろうか。いいや、わかっていない、わかっている訳がない。とき代は教えてやりたかった。他人の命を気にしてられる状況なのか、今どれだけ危険な事をしているのか、どれ程の生命の危険に身をさらしているのかという事を。


 でも出来ない。それをするにはこの馬鹿に、雉野真雉について話さなければならないのだから。そんなことをすれば、それこそあっという間に。


「で、本当は何しに来たの。私の顔だけ見に来た訳じゃないんでしょ」

「おお、いい勘してるな。実はこれ聞きに来たんだ、こいつ知ってるか」


 圭一郎は制服のポケットからメモを取り出して時代に渡した。さっき暴れた為か、クシャクシャになっている。おまけに字が汚い。だがそこに書かれた名前を、とき代は一目で読み取った。大芭旦悟。とき代はあまりの絶望感に眩暈めまいを覚えた。


「どうした、知ってるのか」


 とき代は答えず、本棚に向かった。


「おい、どうした、何かあったか」


 本棚を指でなぞる。確かこの辺りにあったはず。


「おーい、聞こえてますかー」

「うるさい!」


 とき代は振り向きざまに本を投げつけた。かなり分厚めの雑誌の角が、圭一郎の頭にガツーンと当たった。


「てっ! 痛えじゃねえか!」

「その本持って、さっさと帰りなさい」


「なんだとこいつ」


 何者かが階段を駆け上がる音にとき代は気付いた。庭に面した窓をガラリと開ける。


「さあ早くここから」

「おいおい、ここ二階」


 言葉の途中で部屋の扉が蹴破られた。真っ黒なニワトリが三人飛び込んでくる。黒い身体に薄黄色の斑点が流れる。黄斑プリマスロックか。


「警察だ、動くな!」




 黒いニワトリが叫ぶと同時に、圭一郎は窓へと跳んだ。逃げるつもりはなかったのだが、警察という言葉に体が反応してしまった。二階の窓から地面までは高さ五メートル程、圭一郎は羽ばたこうとした、が、両翼はとき代の投げた本を抱えていて羽ばたけない。あっという間にドシーン! と音を立てて圭一郎は落下した。


 しかし頑丈さに掛けては定評のある体、ぶつけた尻は痛むが、骨に異常は無いようだ。だが安心したのも束の間、あらかじめ庭に回っていたのだろう、二人のプリマスロックが駆けつけてきた。


 圭一郎は迷わず二人に向かって走った。正面から走ってくるウコッケイに驚いたプリマスロックが一瞬足を乱す、その隙に軽快なステップで二人をかわす圭一郎。とは言え、行く先にはあの門があり、レグホン達が待ち構えている。後ろからは追ってくるプリマスロック。さあ、どうする。そのとき。


「もーきん、こっちこっち!」

「こっちだよ!」


 塀の上からカラスコンビが顔を出している。何でこんな所に、と考える間も無く圭一郎はジャンプした。塀の高さ二メートル辺りに一旦足を付け、そこから残り一メートルを垂直に駆け上がる。


 塀の上には有刺鉄線が張られていたが、何故かそこだけ切り取られていた。そんな疑問も考えている暇はない。圭一郎は塀の上から外側に一気に飛び下りた。今度は尻餅をつくことはなかった。塀の外にはレグホン達がいたが、誰も圭一郎を捕まえる事は出来なかった。圭一郎の体は、地面には降りなかったからだ。


 耳元では、風がごうごう唸っている。その高さは、遠足で都心の高層ビルに上ったとき以来の経験だ。遥か遠くには富士山が見える。圭一郎は空を飛んでいた。雲に近い高さを、風の速さで飛んでいた。


 腹から背中にかけて、太い指が体をしっかりと、しかし優しく掴んでいる。見上げると太い首と鋭いクチバシが見える。イヌワシだ。圭一郎は塀から飛び下りた瞬間、イヌワシに抱えられて空に舞い上がったのだった。その隣に、カラスコンビがぴったり並んで飛んでいる。


「もーきん、大丈夫ー?」

「大丈夫ー?」


「い、いやいや、これは、どうなんだ、大丈夫なのか」


 圭一郎は血の気の引いた顔をカラスたちに向けた。


「ああ、イヌワシさんは大丈夫だよ」

「そう、イヌワシさんは大丈夫だよ」


 だがウコッケイがイヌワシにさらわれて、おまけにカラスまで一緒にいるのである。あまり大丈夫そうな気がしない圭一郎だった。


「あれ、もしかして、もーきんビビってる?」

「あれあれ、もーきんなのに?」


「う、うるせーよ馬鹿。それよりも、何がどうなってこうなってんだ」


「詳しい事は後々ゆっくり説明するね」

「ちょっとした旅行になるからね」


「旅行?」


 ええい、もうどうにでもなれ、と圭一郎は腹をくくった。括るしかなかった。だが、一つ気になる事がある。




 午後、どこからかワイドショーのテーマが聞こえている。洗濯機が回る音もしている。けれど人の会話は聞こえて来ない。


 コロは玄関の戸を少し開けて外を見てみた。人通りは見当たらない。一旦奥の間に戻り、紙袋から麦わら帽子を取り出した。身長十五センチのコロに合うサイズだけに、決して大きな物ではないが、少なくとも見下ろす視線からその姿の大半を隠してくれるだけの鍔の広さはある。


 コロは麦わら帽子を手にし、もう一度玄関に向かった。さっきより少し広めに戸を開けて、外を伺う。やはり人通りはない。今なら大丈夫だろう。目深に麦わら帽子をかぶると、玄関を開け、通りへ飛び出した。


 ハチクマ先生の家を出て、右に向かうと国道に、左に向かうと河がある。コロは左に進んだ。ざわざわと風にゆれる緑に覆われた、土手の上り坂を一気に駆け上る。土手の天辺には舗装道路が走り、その向こう側にはまた下りの坂道が、一面緑に覆われている。河川敷には小さな野球場と、遊具が幾つかの小さな公園と、遠くまで延々と続く葦原があった。


 遥か河口付近には、もくもくと煙を吐き出す大きな工場の煙突が立ち並び、その更に向こうには建設途中の高速道路が見える。強い向かい風に飛ばされそうな麦わら帽子を押さえながら、コロはその景色を目に焼き付けんばかりに見つめた。見知らぬはずが何故か知っている世界、幻のような現実の世界、そしてこれから自分が生きていくのであろう世界を。


 少し油臭い空気をゆっくり吸い込み、そして吐き出した。これからも時々ここに来よう、とコロは思った。


 背後から何かが近付く音がした。車だ。振り返らず、音でそう判断した。顔を見せてはいけない。要らぬ騒ぎを起こす事になるから。コロは麦わら帽子のつばを両手で押さえ、顔を隠していま登って来た坂道を降りようとした。


 その目の前に、突然細長い二本の脚が立ち塞がる。コロは思わず見上げてしまった。ガラス玉のような目が見つめていた。大きい。大きくて細長い鳥、アオサギだった。


「お前か」

 

 アオサギはそう呟いた瞬間、首を鞭の様にしならせ、麦わら帽子をパン! と跳ね上げた。飛ばされた麦わら帽子が土手の向こうに消えて行くのを、コロは押し倒された草むらから見た。首筋にはアオサギの足が食い込んでいる。頭の上の方で車が停まる音がした。


「おい、早くしろ」


 これは誰の声だろう。アオサギは徐々に体重をコロの首にかけ、足をゆっくり閉じて行く。鉄筋のような細い足は、コロの力ではビクともしない。


「ああ、わかってる」


 土手の上に顔を向けたアオサギが、コロの首を締め上げたまま、飛び上がろうと両翼を広げたとき。


「うわああああああっ!」


 ぐしゃりと音がしたかと思うと、コロは放り出された。何が起こったのかはわからない。ただ、とにかくそこに烏骨圭一郎が居る事はわかった。




 空から落ちてきた何かがアオサギ十三を押しつぶしたのを見て、運転手のプリマスロックは車を急発進させた。だが突然フロントガラスが真っ黒になり――それがカラスだと気付く間もなく――河川敷に転落、車は横転してしまった。


 一仕事終えたカラスコンビは、倒れたままの圭一郎の所へとやって来た。


「もーきんは無茶苦茶するねー」

「無茶苦茶すぎるよねー」


「う……るせ」


 今日落ちるのは二回目だったが、今回は流石に尻餅だけとは行かず、体が痛くてすぐには起き上がる事もできない。


「イヌワシさん、びっくりしてるよ」

「飛べもしないのに、あんな高さから飛び下りるから」


「結果オーライだ……馬鹿野郎」


 悪態をつきながら、なんとか圭一郎は体を起こした。右足を上げ、左足を上げる。右肩を回し、左肩を回す。どうやらどこも壊れていないらしい事を確認し、そしてコロを見た。


「よう、怪我ぁないか」


 コロは何も言わず、顔をくしゃくしゃにして圭一郎の首に抱きついた。そしてわーわーと声を上げて泣き始めた。


「おいおい、泣く事ないだろ」


 しかしカラスコンビは呆れたように言った。


「いや、そりゃ泣くよね」

「いろんな意味で泣くよね」


「いろんな意味って何だオイ」


 圭一郎が小国の屋敷を逃れた後、ちょっとした旅行になると言われて最初に思い浮かべたのが、コロの事だった。警察から追われ、謎のイヌワシにさらわれた時点で、しばらく会えなくなるかもしれないと思ったのだ。


 そこで別れの挨拶をしたいとイヌワシに頼み込んだ。カラスコンビは危険だと反対したが、最終的に折れた。しかしハチクマ先生の家に着く直前、カラスコンビが堤防のアオサギ十三を見つけた。その足元にはコロが居た。


 後は説明するまでもなく、イヌワシの足を振り払った圭一郎が、重力を武器にアオサギ十三に突撃してしまったのである。


 カラスコンビが、普通ではない姿勢で倒れたまま動かないアオサギ十三の顔を覗き込んでいる。


「息はあるよ」

「死んでないよ」


「どうする?」

「助ける?」


 圭一郎は立ち上がると、体をブルブルッと震わせた。


「放っとけ。運が良けりゃ助かるさ」


 河川敷では横転した車から煙が上がり、周囲に人も集まって来ている。こっちに気付くのも時間の問題だ。圭一郎はまだしがみ付いて離れないコロの頭を撫でながら、空を見上げた。イヌワシはまだ上空を旋回している。


「なあ、コロも一緒に連れてっちゃ駄目か」


 圭一郎の言葉にカラスコンビは顔を見合わせた。


「まあ、イヌワシさんなら大丈夫だと思うけど」

「まあ、その子をあちら側に渡す訳には行かないんだけど」


「よし、決まりだな。師匠には後で俺から話す」


 カラスコンビは空へと飛びあがって行った。入れ替わりにイヌワシが降りてくる。圭一郎は、コロを翼で抱き上げ、空へと昇る準備をした。


「おっとっと、いけね忘れてた」


 圭一郎はアオサギ十三から少し離れた草むらから、足で本を拾い上げた。小国とき代が投げて寄越した分厚い雑誌である。意味があるのかどうかは知らない。だが持って行けと言われたのだ、取り合えず持って行ってみよう。




 報告を受けた雉野真雉は一言、「アオサギは所詮、劣等種族」と吐き捨てたという。

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