第5話 彼

 ドアの前と窓の前以外の壁面は本で埋め尽くされている。文庫本、単行本、新書、ハードカバー、雑誌やムック。部屋で寝ているときに大きな地震でも来たら、悲惨な事になるのはわかっているのだが、大鳥たいちょう十年の震災以後、鳥和の時代になってからは無事が続いているので、これからも大丈夫かもしれないと思ったりもしている。


 僕は宿題の手を休め、窓の外に目をやった。日はとうに暮れ、街灯と家々の窓明り、そして時々走る車のライトが細々と闇を照らしている。都心部に出れば不夜城よろしくネオンサインで夜空が明るいらしいが、僕には星の見える夜空が似合っていると思う。


 少し視線を動かし、机の上にある、遠い昔に沈んだ大陸の名がつけられた雑誌を足に取った。表紙には「カレンダーに秘められた古代人の暗号」と書かれてある。カレンダーか。いくら暗号でも回りくど過ぎるのではないかと思うものの、まあ毎号こんな感じなのだから仕方ない。机の横、本棚の側面には小さなカレンダーが掛けてある。こんな所から暗号の可能性を探るというのは、冗談や冷やかしではなく、雑誌の編集者というのは大変なのだなあと純粋に思う。


 カレンダーは上半分に風景の写真と、下半分に今月の日数と曜日が書いてある。今月は七日だ。まあ殆どの月は七日なのだが。七日で一か月(閏月には八日で一か月)、四か月で一年(閏年には五か月で一年)、春夏秋冬の四季を一巡するのに五十二か月と一日で十二年三百六十五日、大閏年にはさらに一日増える事になるが、四十八年に一度である。


 このシンプルなサイクルはもう千年も昔から変わっていない。とはいえ、我々ヨウムは五百年を生きると言われている種族なので、もしかしたら生きている内に、カレンダーの読み方が全く変わってしまう事もあるのかもしれない。


 などと考えにひたっていると、暗い窓の外からガリガリとガラスをこする音が聞こえた。ああ、帰って来たのだな。僕は窓の鍵をはずし、『彼』を中に招き入れた。


 窓から机の上に歩いて来たのは子猫程の大きさの、ずんぐりむっくりとした犬だった。犬と言っても本物ではない。その体の表面は所々曇ってはいるものの、金属の光沢に覆われている。『彼』は機械仕掛けのロボット犬であった。


「どう、収穫はあった」

「いや」


『彼』は老人のような声で呟くと、机から飛び下り、後退りを始めた。すると尻尾がピンと立ち、次の瞬間二股に分かれた。そのまま壁のコンセントに尻尾を差し込むと、脚を丸め、まるで風呂に浸かってでもいるかのように、心地良さげな表情を見せた。


「随分疲れているようだね」

「バッテリーにもガタが来ておる。もう余り長い時間は歩けそうにないな」


「交換できるバッテリーがあるといいんだけど」

「それは無理だな」


 そう、それは無理だった。『彼』に使えるバッテリーなど、この世界にあるはずが無い。そもそも『彼』のように自律的に自由自在に歩き回り、人語を解すロボット犬など、現代の技術力で作れるはずなど無いのだ。だが『彼』は実際にここに居る。夢でも幻でもなく。


「帰って来たようだぞ」


『彼』がそう言うと間もなく、階下から玄関のドアが開く音が聞こえた。母さんが仕事から帰って来たのだ。


「じゃ、下に行ってくる。大人しくしておいてくれよ」

「うむ、わかっとるよ」


 そして『彼』は疲れ切ったかのように、深い溜息をひとつついた。




 俺だって疲れる事はある。一昨日の夕方には馬鹿女の自殺を止めて、その夜にはあのコロ――どうもこの名前には慣れない――に出会い、昨日はそのコロを預ける為に、何やかやで十時過ぎまで師匠の家で打ち合わせをしていたのだ。他にも何かあった気がするが忘れた。


 とにかく、この二日間は今までに経験したことの無いかなり濃密な二日間だった。だから今日はちょっとくらい寝過ごしてもいいだろう。ちょっとくらい。


 目が覚めたのは、もう三十分ほどで昼になろうかという時刻だった。枕元には親父の字で書置きがあった。


「父さんと母さんは仕事に行きます。よく寝ているので起こしませんでした」


 いやいやいや、おかしいだろう、起こせよ、起こしてくれよ、頼むよ。更にその横には小さなお袋の字でこうあった。


「面倒なのでお弁当は作りませんでした」


 一言余計だ! 全く何て親だ。息子が学校に遅刻するのを楽しんでるとしか思えない。大体昨夜遅く帰ったときもニヤニヤ笑って何も注意しなかったし、普通はこういうとき、息子がグレてるかもしれないと心配したりするもんじゃないのか。何が「御さかんですねえ」だ、ふざけるな。


 親の事を愚痴っていても仕方ない。今は学校をどうするかだ。面倒臭いしこのまま休むか。……いや、それでは何だか負けた気がする。何に負けたのかはよくわからないが、とにかく負けている気がする。とりあえず学校には行くだけ行こう。俺は学生服を足に取り、鞄を咥えた。




 俺の腹はグーグー鳴っていた。ものの例えではなく、本当に物凄い音を立てていた。すれ違う奴らが振り返るレベルである。何か食って出てくれば良かっただろうか。だがこれ以上のんびり遅刻していたら、学校に行く意味が無くなってしまう。


 買い食いをするという手もあるが、コロの為に用意しなきゃならんものがまだある。できれば余計な金は使いたくない。俺は意志だって猛禽、空腹なんぞに負けやしない。はずだ。


 そんなこんなを考えながら、中学校の前を通ると、何やら校舎の脇で工事中だった。いまどき重機も使わず、三人程がスコップで穴を掘っている。場所的にはコロを見つけた辺りだ。校舎を見上げると、窓には沢山の顔が張り付いていて、不安気に工事を見下ろしていた。


 何か妙な雰囲気だな、と思っていると、突然俺の脚を掴む奴がいた。振り返ると、またかつての担任、アオバズクだった。


「お、おい、烏骨、これはどういう事だ」


 俺はいま腹が減りすぎて、気が短くなっている。本気で一発お見舞いしてやろうかと思った。


「どういう事って何だよ、俺が何を知ってるってんだよ」

「だ、だ、だってだよ、お前がこの間助けたのは」


 アオバズクは急に声を小さくした。


「小国の娘らしいじゃないか」

「それがどうした」


「あ、あれは小国の建設会社だろ」


 振り返ってヘルメットを見ると、確かに小国建設と書いてある。


「だから何だよ、たまたまだろそんなの」


「今朝、いきなり市の教育委員会から電話があって、校内で工事をするから生徒を近付けないように、って事だったんだ。何の工事か聞いても教えてくれない、そして作業にやって来たのが小国の建設会社だ、この間の自殺騒ぎに関係してるんじゃないかって普通思うだろう」


「あんたの普通は知らねえよ」


 思わず声を荒げてはみたものの、確かに引っかかる部分があると言えばある気がする。気はするのだが、畜生駄目だ、頭が上手く回らない。


「な、なあ烏骨、何か知ってるなら教えてくれないか、生徒達が皆不安がっているんだ」

「わあかった、わかったよ、調べとくから、それでいいだろ、な、調べとくからさ」


 もちろん調べる当てなどない。俺はアオバズクの脚を振りほどくと、急ぎ足でその場を離れた。何だか後ろめたい気持ちを残しながら。




 ハチクマ先生は朝から出かけていて、家には私一人だ。音量をできるだけ絞ったテレビを朝からずっと見ているのだけれど、どうやら間違いなく、私が暮らしていた世界とこの世界の言葉はほぼ同じものだった。そして文字も。


 テレビの音が聞こえなくても、画面に出て来るテロップを見ていれば、大抵の内容は理解できる。原稿を読むアナウンサーの表情からバラエティのタレントのリアクションに至るまで、言葉に関わる事柄で違和感を感じる所はほとんど無かった。


 一方テレビを見ていて気になったのは二つ、まずは色々な高さだ。例えばキッチンの高さ、車のダッシュボードの高さ、学習机の高さなどだ。私の感覚では、どれも低すぎる。しかしこの世界ではそれは当たり前の事のようだった。何故なら、彼らは手を使わないから。この世界の住人は全て、足でレジを打ち、足でクルマを運転し、足で包丁を振るい料理を作る。すべての作業を足で行う為に、あらゆる物が足で使いやすい高さに揃えられているのだ。


 二つ目は台車の存在。テレビに出て来る人々は庶民であれ金持ちの使用人であれ、みな台車を持っている。個人が持っていたり店に用意されていたり、押すタイプや引くタイプ、ベビーカータイプから大八車タイプなど様々あるが、とにかく台車が目につく。ほんの少しの買い物なら口に咥えた買い物かごで済むのだろうが、少し増えるともう台車が必要だ。これも足が手の代わりをしているが故の事で、彼らには「手に持って歩く」という事が出来ない。足に持ったらもう歩けないので。


 だから買い物であれ、社内でコピーした書類を運ぶときであれ、台車が無ければ何もできないのである。そのために台車文化が発達している。女の子なら可愛い台車を、ビジネスマン向けには黒い革張りの台車を、幼児ならキャラクター物の台車を、といった具合だ。


 それらは、長い試行錯誤の末にそうなったようにも見えるし、誰かが取って付けたようにも感じる。どちらが正しいのか。目の前にある現実と、何かが何処かに詰まっているかの如く思い出せない記憶の、有るのだか無いのだかすらわからないギャップが、私を悩ませた。


 もしかしたら、全て私の気のせいなのかも知れない。この世界は太古の昔から、鳥類を万物の霊長と位置づけて歴史が築かれてきたのかもしれない。実の所それが一番簡単な話なのだが、もしもそうなら、この世界に私の居場所は無いはずだ。つまり私のような姿形の生き物は、そもそも存在するはずがない。存在してはいけないのだ。


 何故なら私はこの世界にある文化を理解できる。毎日掃除機をかけ、車で通勤し、映画を観たりラジオを聴いたりレストランで食事をしたり、そして何もせずに一日ゴロゴロしてみたり。そんな人々の日常を当たり前の事として受け入れる事ができる。それは同じ様な、同じ程度かそれ以上の文化文明を持った世界で暮らしていた証拠であり、すなわち私と同じような姿を持った者達による文明社会が存在していた証拠なのだ。


 だが現実には、この世界の中にそのような異文明は存在していない。存在しているのなら、圭一郎やハチクマ先生が私の姿を見てあれ程驚く訳がない。生存競争に敗れて消え去ったのだと仮定しても、それは歴史に残らぬ太古の話だろう。その末裔が何故今頃この世界に居るのか。それこそ、本当にタイムスリップをしたとでも仮定しない限り、有り得ない話である。これもまた動かしがたい現実なのだ。だとすれば。残された可能性は何か。


 ガラガラと玄関が開く音に、慌てて卓袱台ちゃぶだいの陰に身を隠す。入って来たのはハチクマ先生だった。引っ張るタイプの台車の中に紙袋を二つ放り込み、暑そうに息を荒げて帰って来た。なるほど、実際にこのように台車を使うのだな、と変な所に感心していると、紙袋の一つを私に渡した。中には婦人物と思われる洋服が幾つかと、大きな麦わら帽子が入っていた。


「今度外に出る時にはそれを着な。おんぶ紐よりずっといい」

「ありがとう、買ってきてくれたのか」


「圭一郎の馬鹿に服を持って来いとは言ったが、こういう事に関しちゃあいつは信用できんからな」


 ハチクマ先生はそう言いながら、もう一つの紙袋から本を取り出した。もちろん足で。


「古本屋をハシゴしてな、やっと見つけてきた」


 分厚いハードカバーの本で、タイトルには、『哺乳人類の真実』とあった。表紙の隅に一〇〇円と書かれたシールが貼られている。先生は次々にページをめくって行く。


「随分前にたまたま本屋で立ち読みしてな、体裁は学術書みたいな雰囲気だろ、だがそんときゃ科学もへったくれもないくだらねえ本だと思ったがね、お前の姿を最初に見た時、この本の事を思い出したのさ。見てみな」


 先生は本を開いてこちらに見せた。そこには見慣れた姿があった。二本の腕、二本の脚、両手両足には五本ずつの指を持ち、直立二足歩行をし、全身の体毛は薄く頭部の体毛が濃い、裸の男女の図。

 

「但し書きには全長は百五十から二百センチ程度とある。全長だけは大外れだが、それ以外はお前とそっくりだ。無関係とは思えないよな」

「これが、哺乳人類……」


「もし哺乳類から知的生物が発生したら、あるいは過去にしていたらってのはオカルト系では昔から良くあるネタだ。この本もそういう類だと思ってたんだが」

「この本を書いた人なら、何かを知っているかもしれない?」


「当てずっぽで書いたにしちゃ詳しすぎるからな。とりあえずこの著者か出版社について何か知っていないか、知り合いの編集に聞いてみるさ。まあ明日だがな。今日はもうくたびれた」


 ハチクマ先生はうつぶせで小の字になると、余程疲れていたのだろう、すぐにいびきをかき始めた。

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