第9話 小国の家
ホームルームが終り、皆が立ち上がった瞬間、僕は誰よりも早く教室を抜け出し、誰よりも早く学校を飛び出した。そして学生服を脱ぎ去り、鞄を咥え学生服を足に持つと翼を羽ばたかせ高く飛び上がった。
帰宅時に空を飛ぶのは校則違反である。近隣の住民から学校に苦情が来るからだが、今はそんな事を気にしている場合ではない。平屋の家々の屋根をかすめるような高さで一直線に飛んだ。目的地は駅である。
僕が駅前に降り立ち、券売機で切符を買ったとき、ちょうど下りの各停がホームに入って来た。ここから一駅電車に乗る。一駅くらいなら飛べない距離ではないが、体力も要るしスピードでも負ける。電車に乗らない理由はないのだ。
さすがに誰よりも急いだだけの事はあって、電車内に高校生はほとんどいない。帰宅の高校生達で座席が埋まるのは、もう一本か二本後の電車になるだろう。座席もガラガラだったが、僕は座るのをやめた。その代りドアにもたれながら、学生服の埃を払い、また着直した。他の乗客たちが一瞬顔をしかめたような気がする。彼らの眼に僕はどう映っているのだろう。迷惑な不良ヨウムの高校生にでも見えているのだろうか。まあ、それはそれで構わない。
七分ほどで次の駅に着いた。初めて来た訳では無いが、かと言って馴染みのある駅前でもない。改札を出るとそこは小さな広場になっており、その向こうには国道が左右に走っている。広場の左手にタバコ屋と薬局、右手にはパン屋と交番があった。パン屋の横には路地の入口があり、奥に進むと郵便局がある。僕は広場を真っ直ぐに横切ると、国道を跨ぐ歩道橋に上った。ここで待ち合わせなのだ。
歩道橋を真ん中まで歩いて立ち止まると、眼前には狭い平野部と、その向こうに低い山脈がある。山脈の
「意外に早かったな」
背後から声がした。『彼』だ。しかしその姿を見た時、僕は吹き出しそうになってしまった。青みがかったグレーのパーカーにピンクのズボン、フードを被り、顔には大きなサングラス、どう見ても犬の玩具か、玩具化された犬のどちらかだ。目立ちはするが、不審には思われにくい、かもしれない。
「その格好は……どこかで買ったの」
「心配するな、全部ワシのオプションパーツだ」
「そんなのあったんだ」
「さて、では行くかの」
派手な犬と地味な学生服のコンビは出発した。
国道と直交し、駅前からバイパスにまで抜ける大き目の道路の両脇に、街は広がっている。街というか住宅街だ。途中に獣医が一軒、歯医者が一軒、焼き肉屋と美容院が一軒ずつあった他は、見渡す限り住宅、住宅、住宅。団地やアパートも見当たらず、とにかく一軒家が延々と建てられていた。
比較的裕福な地域なのだろうか。だが、こんな日々の買い物にも困るような場所に、本当に裕福な人は住まないような気もした。街の真ん中をズドンと抜ける道路は緩やかな上り坂で、車道の幅はもちろん歩道も広く、街路樹はまだ細く、それ故に日陰が殆ど無い、こんな暑い時期に歩くのはできれば遠慮したい道だった。
「こんな何も無い所に遠足で来たのか」
『彼』は暑さには強いらしく、足取りが重くなる様子も無い。一方の僕は早くもバテ気味だった。駅まで全速力で飛んだのがマズかったか。けれどこんな所で弱音を吐く訳には行かない。
「社会見学だよ。昔はこの上の山を削って、海を埋め立ててたんだ。その採取場を見にね」
「ハハ、昔と言うほど昔ではあるまい」
確かにそうだ。『彼』はおそらく僕らが昔々と呼ぶ時代よりも、遥かに大昔から時を超えてやって来たのだ。僕らが小学生の頃など、『彼』の前で昔と呼べるほどの時間差ではないのだろう。
三十分ほど歩いて、ようやく街並みが途切れた。既に宅地として造成はされているが、ほとんど家が建っていない地域だ。道路の上の案内標識には、バイパス入口まで一キロとある。
「場所的にはこの近くだな」
『彼』は虚空を見つめている。頭に入れた地図の情報を読んでいるのかもしれない。
「どうした、息が上がったか」
「い、いや……」
僕は完全に息が上がっていた。たった三十分歩いただけなのに。こんな事になるなら、駅の自販機で冷たい飲み物を買っておくのだった。鞄もコインロッカーに預けておけばよかった。自分が酷く間抜けに感じた。いわゆる学校の勉強はできるのに社会では役に立たない、その典型ではないのかとさえ思う。
「もう少しだけ頑張れ、日陰のある所で一休みしよう」
バイパスまでは一キロあるが、森の一番前端まではあと百メートルもない。なんとか、なんとかそこまで持ち堪えれば。
森を抜ける風が心地良い。木の根に腰を下ろして、結局何だかんだで三十分ほど休んでいる。歩いてきた時間と同じだけ休憩しているわけだ。虚弱な自分の身体が情けない。とは言え、まだ少しダルさはあるものの、吐き気も痺れも頭痛もない。どうやら熱中症にはならずに済んだらしい。
と、そこへ『彼』が戻ってきた。一人で小国邸を探しに行っていたのだ。もしかして、僕は最初から必要なかったのではないか。ただ邪魔をしているだけではないのだろうかと思えてならない。
「見つけたぞ」
『彼』は弾む様に駆けて来た。
「動けるか、動けるなら来てくれ、お前さんの力が必要だ」
その言葉に、僕は跳ね上がるように立ち上がった。
森の中を二百メートルくらい歩いただろうか。突然、舗装された道が現れた。
「あれを見てみろ、三十メートル程先だ、更に細い小道が森の奥に向っている」
確かに、車一台通ったら一杯になる程度の幅の小道が奥へと続いている。
「あの小道の奥に門がある。どうやら小国の屋敷らしい」
「じゃあ、今から行こう」
「待て待て焦るな。門の周りには見張りが何人も居る。正面突破は難しい」
「門以外からは入れないの」
「塀の高さは三メートル、まあそれは問題ではないが、その上に一メートル幅で有刺鉄線が張ってある。高圧電流のおまけ付きだ。そして監視カメラもある」
「じゃあ僕が上から」
「上にはもちろんネットが張ってある。木の葉柄で森に偽装したやつがな。つまりは勢いだけで乗り込もうとしても、隙はないということだ」
まったくもってその通りだった。僕は勢いだけで何とかなると思っていた。いやもちろん、『彼』のバッテリーが消耗するのを心配していたということもあるのだが……違う、単にこんな企み事をするのが生まれて初めてだったから、面白がって興奮していたに過ぎない。
「ごめん」
「気にするな、策はある」
その策とは、何とも至ってシンプルな、有刺鉄線を切るというものだった。しかし有刺鉄線には高圧電流が流されている、それをどうするのか、それに監視カメラもあるのではないか、と言えば、何と『彼』にはセラミックで出来たカッターが内臓されていたのだ。そんな物の存在は今日まで知らなかったのだが、とにかくそれで監視カメラの死角から有刺鉄線を切るらしい。しかし、それには多少なりとも時間がかかるし、何より音が出る。それを誤魔化す為には誰かが見張りの眼を集めなければならない。
「つまり
「何、囮と言ってもそう難しく考えるな、熱中症で気分が悪いから水をくれ、とでも言えば良い。時間にして一分もかからん」
「わかった、それで」
それで行こう、と言いかけた時である。何だお前は! と声が響いた。一瞬身構えたが、僕達に対しての声では無かった。何かが暴れるような声と音が響く。僕らは木の陰に隠れながら、小道の入口から小国の屋敷の方を覗いた。
大柄でトサカの大きなニワトリのレグホン達が三人がかりで誰かを押さえつけていた。僅かに見える尻の形から、どうやら小型のニワトリらしい。しかしその小さなニワトリは、三人のレグホンを持ち上げんばかりの勢いで暴れた。慌てて応援に来た二人のレグホンが、更に上に乗って押さえつける。
「ええい、大人しくしろ」
「できるか馬鹿野郎!」
叫ぶその声は、僕の耳に覚えがあった。
「もーきん? 何でここに」
俺が何をしたって言うんだ。糞暑い中を延々歩いて、やっと小国の家を見つけたと思ったら、急にデカいレグホンどもが立ち塞がりやがった。
「何だお前は!」
て、いきなり怒鳴りやがるから、おとなしい俺のコメカミもブチブチッて切れて、
「お前らにゃ言わねえ」
て、返したらレグホンがあの糞デカい足で胸ぐらを掴んでくるもんだから、そのまま払い腰の要領でぶん投げたら別のレグホンに後ろからタックルされて、あとはどんどん上に乗られて、こっちは樽の底の漬物みたいになっちまった。馬力にゃちっと自信はあるが、さすがにこんだけデブに乗られると、身動きは取れない。
「ええい、大人しくしろ」
「出来るか馬鹿野郎!」
せめてもの反抗だ、素直にいう事なんぞ絶対に聞いてやらねえ。俺の根性は猛禽、お前らとは次元が違うって事を教えてやるぜ。と、思っていたのだが。
「やめてください!」
不思議なもんで、こういう時に女の声はよく通る。門の横にある小さな通用口が開いて、そこから小国とき代が飛び出して来た。
「その人は私のお客様です、放してあげてください」
「しかし、我々は聞いておりません」
レグホン達は困惑していた。
「うるせーよ、友達が家に来る度にいちいち連絡とかしてられるか馬鹿野郎、さっさと放せ」
「あなたも黙りなさい!」
何で俺が怒られなきゃいけないのかはわからないが、頭に来てる女には逆らわないのが得策だ。俺は渋々暴れるのをやめた。するとレグホン達も俺と同じ意見だったのか、これまた渋々と言った感じに俺の上から退き始めた。女の怒りは偉大である。
「お騒がせしてごめんなさい、すぐに帰りますから」
そう言うと小国とき代は、俺の尻を蹴飛ばすように屋敷の中に押し込んだ。
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