第6話 聖域

 よく考えたら、俺は悪くないだろ。いや、全然悪くない。何であんな後ろめたい気持ちにならなきゃならなかったのか。むしろアオバズクの方が問題だろ、いい歳こいた大人が、しかも教師が、教え子の高校生に頼ってどうするんだよ。頼られなきゃいけないのはお前の方だろ。ふざけんな。


 そう思いながらも、口はバクバクと動き続ける。我ながら驚くほどのスピードで、焼きそばパンは口の中へと消えて行った。うめえ、炭水化物うめえ。


「おおー、凄いねえ、食べてるねえ」

「食べてるねえ、お腹空いてたんだねえ」


 権太と徹のカラスコンビは、俺の食べる様を面白そうに見つめていた。何か言ってやりたかったが今は言えない。この焼きそばパンはこの二人からの「お恵み」だったからだ。


 学校に着いたのがギリギリ五時限目直前で、なんとかそこから五十分は堪えたものの、授業の内容は、いやそもそも何の教科だったのかすら覚えていない。そして休憩時間、腹が減り過ぎてほとんど気を失いそうになっている俺の前に、カラスコンビが焼きそばパン持参で現れたのだ。


 猛禽の意志は何処へやら、俺はその差し出されたパンに、ついつい飛びついてしまった。


「良かったねえ、もーきんも雑食で」

「そうそう、僕らと同じ雑食で」


 お前らと一緒にするな、と喉元まで出かかったが、何とか耐えた。まあ確かに、俺らだって肉は食うし。それより何より今はこれを食い終わるのが先だ。最後の一欠片を口に放り込んだとき、六時限目の始業のチャイムが鳴った。


「じゃあ戻るね」

「戻るね」


 とカラスの二人は立ち上がった。


「え、おい、お前ら俺に何か用があったんじゃないのかよ」


「また今度でいいよ」

「そうそう、また今度」


 そう言い残して二人は自分達の教室へと戻って行ってしまった。




 小国定子は美しいニワトリであった。羽毛にはまだ現役で卵が産めそうな若々しさが輝き、すらりと背筋の伸びた立ち姿には、半端な雄鶏おんどりでは太刀打ちできない力強さがあった。とき代は娘として、母のその美しさを誇りに思った事が何度あった事か。しかしいま隣で両翼をつき、深々と頭を下げるその姿には、醜さしか感じ取れなかった。


 その向かいで分厚い座布団に座る鳥は、まこと好々爺こうこうやといった雰囲気で、まるでいたずらをした孫娘を見るように、定子ととき代を見つめていた。彼は大柄なキジであった。真っ赤な面から垂れる肉垂は、ニワトリと同じ祖先を持つ長き血統を知らしめ、首の青から胸の緑へのグラデーションの美しさは、種族の頂に立つ威厳を表していた。彼こそはニワトリや七面鳥を含む全てのキジ目の代表であるキジ一族の中で、最も格式高き存在。キジの中のキジ、その名を雉野真雉きじのまきじと言う。


「もうそのくらいで良いでしょう、頭を上げてください」


 少し甲高い、優しげな声だった。だが定子は頭を振った。


「娘のしでかした事は、親である私の責任です。罰はお受けいたします、ただこの子だけはどうぞお許しください」


 震える声でそう懇願する定子の姿は、とき代には不快であった。その不快さを表す為にか、時代は真雉を睨み付ける視線を動かさず、決して頭を下げようとはしない。それでも真雉は優しげな笑顔を、毛の一本程すらも陰らせる事はなかった。


「私ゃ神様でも何でもないんだから、罰だ何だと言うつもりなんか最初からありませんよ。結果的には何も起きなかったんだし、あなたが頭を下げる理由なんか一つも無いのです。それにね」


 真雉の笑顔が一層優しげになったように、とき代には見えた。


「もしお嬢ちゃんがあそこで死んでいたとしても、どうせ何も起きはしなかったんですから」


 とき代は自分の頭にカッと血が上るのを感じた。彼女の命がけの行動が、薄ら笑い一つで一蹴されたのだ。真雉は続けた。


「お嬢ちゃんは、あの中学校の下に聖域か何かがあると思ったんでしょう。で、せっかく自分の命を絶つのなら、それを血で汚してやろうと。若い子の考えそうな事です。目の付け所は良かった。でも肝心な事が理解できていないんですね。聖域というのはね、人一人の血くらいで汚せるような場所じゃないんですよ。それどころか、何千何万の血を吸っても決して汚されない、そういう場所こそが聖域と呼ばれているんです。お嬢ちゃんがあそこで死んでも、それはあなたが思っているような意味も値打ちも持たない、つまらない無価値な死でしかなかった。そもそも、あそこには聖域なんて無かったんですから」


「嘘、だってあそこは」


「あそこは古代の宗教上、特別な場所だったと言うのは確かです。よく調べましたね。でも、いわゆる聖域じゃあない。別の意味を持つ場所でした。そちらは、お宅の工事会社の方からこちらに報告が入っていますよ。現物も届いているようです。まあ分析はこれからでしょうが、お嬢ちゃんの好奇心を満たすような物が見つかるかどうか」


 真雉はここで初めて、声に出して笑った。見下ろされていると、とき代は感じた。同じ部屋、同じ場所にいるはずの年老いたキジが、天空の高みから自分を見下ろしているのだ。足がすくんだ。何故かはよくわからない。反発心よりも先に恐怖が湧いた。目の前にいるキジの姿をしたモノは、自分の知らない別次元の何かに思えた。


「けれどひとつだけ褒めておきましょう。お嬢ちゃんを助けた子、何て言いましたかね、ウコッケイの、あの子に何も話さなかったのは正解です。もし話してたら、余計な仕事が幾つか増える所でしたからね」


 そう言って、雉野真雉は目を細めた。




 圭一郎は学校帰りにハチクマ先生の家に寄った。寄ったと言うには随分と遠回りではあるのだけれど。ハチクマ先生は待っていたかのように圭一郎を呼び込むと、件の本を開いて哺乳人類のイラストを見せた。圭一郎は本のイラストをしげしげと見つめ、そしてコロをジロジロと見た。しげしげ、ジロジロ、を三回くらい繰り返しただろうか。


「どうだ、そっくりだろ」


 ハチクマ先生の言葉にうなずくと、圭一郎は心底感心したかのようにこう言った。


「このコロの服、師匠が買ったんですか」

「あ? ああ、そうだが」


「凄いっすねー、婦人服売場なんて俺一人で入れないですよ、緊張しちゃって」

「何の話だコラ」


 圭一郎は本をパタンと閉じると首を傾げた。


「いや何て言うんでしょうね、よくわかんないんですけど、もっとこう弾けた感じって言うんですか、謎の諜報機関がどうとか、どこそこの秘密結社がこうとか、そういうワクワク感を期待してたんですけどねえ」


「とんだ陰謀論者だなこの野郎は」


 ハチクマ先生は呆れ返った。


「実際の世の中ってのはそんな派手にゃ出来てないんだよ、地味なのが当たり前だ。とにかく、俺は明日この出版社を知ってる奴に会って来る」

「え、もうそんな話になってるんですか」


「俺は仕事は早いんでな。お前はどうする。ヒマならついて来い、荷物持ちくらいにはなるだろ」

「いやいや、俺は学校があるんですから。大人が率先してサボらせたらマズイでしょ」


「授業もろくすっぽ聞いてない奴が何を言う。嫌なら俺一人で行って来る。詳細はお前には教えてやらん」

「えー、そりゃ酷いなあ」


 圭一郎は話しながら何気なく本をパラパラと足でめくり、ふと巻末に目をやった。


「あれ」

「どうした」


「これ小国出版の本じゃないですか」

「何だお前、小国出版に知り合いでもいるのか」


「いや、直接はいないですけど、知り合いの知り合いの知り合いくらいならいるかも」

「何だそりゃ」


「あ、ちょうどいいや、俺明日そいつんとこ行ってみます。何か知ってるかもしれないし、ちょっと気にもなってたんで」

「ふむ……まあいいだろう、そっちは任せる。ただし、無茶な事はするなよ」


「大丈夫ですって、俺はちゃんと聞いたこと師匠に教えたげますから」

「お前はまず話を聞けよ今」


 そんなやり取りを聞きながら、コロは不思議な気持ちだった。彼らが今話しているのは、自分の失われた記憶に関わる事である。彼らは本当の名前すらわからない自分の為に、骨を折ってくれているのだ。ほんの三日ほど前までお互いの存在すら知らなかった、しかも姿形もまるで違う、彼らから言わせれば異形の存在であろう自分の為に。


 彼らはさも当然であるかのようにそれを行っている。しかしこれは当然の事なのだろうか。自分がかつて居た世界ではどうだったのだろう。自分は、家族は、仲間は、赤の他人の為にかくも一生懸命になりながら生きていたのだろうか。皆が常に誰かの事を思いやりながら暮らせる社会だったのだろうか。


 少し脚を崩していたコロは正座し直し、深々と頭を下げた。


「ありがとう」


 これにはさすがの圭一郎も面食らった。


「な、な、何だよいきなり」

「そういう時には『いいって事よ』とでも言うもんだ。猛禽ならな」


 ハチクマ先生は軽く翼でポン、と圭一郎の頭を叩いた。




 夜、既にいつもの就寝時間は過ぎている。しかし洋鵡夢一郎は眠れずにいた。『彼』が戻って来ないのだ。まさか遊び歩いている訳でもあるまい。そもそもそんなにバッテリーがもつなら心配などしない。


 では誰かに捕まったとか。いったい誰に。『彼』が何らかの情報を求めて毎日街を歩き回っているのは知っているが、それが何の情報なのかは夢一郎は知らないでいた。


『彼』に問えば答えてくれたかも知れない。けれど何故かそれは躊躇ためらわれた。不思議なものだ。夢一郎は他人に気を使うタイプではない。少なくとも自分ではそう思っていた。他人になど興味は無いのだ。だが『彼』には、あのロボット犬には気を使わずにはいられなかった。何故だろう、と夢一郎は思う。『彼』の全てが謎めいているからだろうか、それとも単に『彼』が人の姿をしていないからだろうか。


 コトリ、と音がした。夢一郎は思わず布団を跳ね除け、部屋の照明を点けた。窓が細めに開いており、その向こうに『彼』が居た。


「おかえり」


 窓を静かに開け、夢一郎は小さく声をかけた。


「起こしてしまったかのう」


『彼』はバツが悪そうに部屋に入ってくると、そーっと床に降り、また尻尾をコンセントに差し込んだ。


「起きてたよ。それより今夜の収穫は」


 これは夢一郎にとっては日常の挨拶であった。だが。


「あった」


『彼』は力強くそう答えた。それは夢一郎が『彼』から初めて聞いた言葉であり、夢一郎の胸に生まれて初めて宿る新たな感情を湧き起こさせる言葉でもあった。


「三日程前、近くの中学校で飛び下り自殺の騒ぎがあったことを知っておるか」


『彼』の言葉に夢一郎は小さく曖昧にうなずいた。そう言えば母さんがそんな事を言っていたような気がする。だがはっきりとした記憶では無い。夢一郎にとってはどうでもよい話だったからだ。他人が生きようが死のうが本人の勝手であり、そんなものに興味など持てなかった。


「その自殺騒ぎを起こした者については」

「いや、それは知らない」


「どうやら小国という家の者らしい」

「小国? あの財閥の」


「財閥なのか。なるほどな、それで箝口令かんこうれいを敷いたか」

「箝口令……」


 それは物語の中でしか聞いたことのない言葉。


「現場には学校関係者、警察、消防、それにマスコミも居たらしいがな、どこからか一切他言無用という御触れがあったそうだ。とは言えそこには何人もの中学生がおったのだから、そうそう箝口令など守られる訳がない。ワシが聞いたのも、あれは中学生ではないかな。こんな時間に遊びまわっていた子供が話しておった」


 この時点では彼ら二人は知らない。あの現場に居た者で、その箝口令の存在を全く知らなかった者が一人居る事を。


「しかもその二日後、内容もよくわからない工事が学校に入って、何かを掘り起こしていたのだそうな。これは何か臭う」


 喜ぶべき事なのだろう。『彼』の探していた何かに繋がる情報が手に入れられたのだから。実際、夢一郎もわくわくしていた。だが夢一郎の心の中には、穏やかな日常が終るかもしれない予感に、微かな不安があった。


「で、これからどうするつもりなんだい」

「まずはその小国という家を探してみんとな」


「場所ならわかるよ」


 そう言って夢一郎が本棚から取り出したのは、道路マップであった。全国各地域に対し一冊ずつ出ているそれには、国道や市町村道、鉄道等の他、観光や生活関連の各種情報が記載されている。


「えっと確かこの辺に……あった、ここだ」


 夢一郎が開いたページの地図は、この家からごく近隣のものだった。その真ん中よりも少し南側、市街区域のはずれの辺りに、全く何の表示も書かれていない、エアポケットのような場所があった。地図の上では小さな、一見しただけでは見逃してしまいそうなその地点を、夢一郎は足の指でグルグルと囲んで見せた。


「この辺り一帯が小国の屋敷のはずだ」

「ほう、間違いないか」


「小学校の頃、社会見学で近くを通ったことがある。その時にクラスメートが話しているのを聞いたんだ。嘘かもしれないけどね」

「なるほど、今回の自殺騒ぎといい、人の口に戸は立てられんのう」


「どうする、今夜行くかい」

「いや、さすがに今夜は無理だ。バッテリーを満タンにして、明日だな」


「そういや、今夜は随分長く歩けたみたいだけど、バッテリーよくもったね」

「ああ、途中で自動販売機があったのでな、ちょっとコンセントを拝借した」


「それ盗電って言うんだよ」


 呆れる夢一郎に、『彼』は片目をつぶって見せた。

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