第15話 工場の秘密
椀を落とした拍子に、雑炊が床にぶち撒けられたが、幸いコロにかかる事はなかった。タンチョウはあらかじめ知っていたかのように足元に置いてあった雑巾で始末をすると、コロの顔をのぞき込んだ。
「何か思い出した?」
しかしコロは弱々しく頭を振るだけ。
「なあ、ニンゲンって人って意味じゃないのか、それって俺らの事だよな」
圭一郎の疑問はもっともである。それはいまのこの世界では、大多数の意見であろう。だがタンチョウは、いいえ、と即答した。
「我々は人ではありません。人の世に似せて造られた世界で暮らしているだけの鳥です」
「いや、鳥が進化して人になったんじゃないのか、少なくとも学校ではそう教わる」
「学校で教わらない事に真実がある場合もあります。例えば、外国の事。この国の外の世界の事。学校ではどう教わりますか」
「外の世界って、この国の外に人の住む世界なんか無い」
その知識は、この世界の一般常識レベルだった。
「いいえ、この国の外にも人の住む世界はあります。ただ、外の国の人は、必ずしも鳥の姿をしていませんけどね」
「コロの事か」
するとタンチョウは、はあ、とため息をついた。
「もしそうなら、どんなに素晴らしい事か。でも違うのです。外の世界では、ある国の人はみんな爬虫類です。別のある国の人は昆虫の姿をしています。そしてそれぞれの国の人々は、自分の国の外には人の住む世界は無いと信じて生きているのです」
「そんな話を信じろっていうのか」
「いきなりそんな無茶は言いません。ただ、自分達だけが唯一無二の『人』と呼ばれる存在だという仮定に、疑いの目を向けて欲しいだけです」
さすがの圭一郎も、二の句が継げなかった。この世界のどこかに未知の存在が居る、という可能性なら受け入れられる。だから実際コロの存在も受け入れられた。だが自分が人である事を疑うなど、どうしてできよう。それは充分に無茶な注文だった。
「私、は……」
その時、コロが口を開いた。
「私の仲間は、私と同じ姿をした者は、この世界には本当にいないのか」
「ええ、とてもとても残念だけれど、あなたはこの世界にたった一人です」
「それでは、私は何者なのだ、いったいどこから……」
「私にもはっきりした事は答えられません。でももしかしたら、それを知っているかもしれない者が居ます」
「えっ」
「ただ、いますぐは無理。明日まで待ってください。徹、権太、あなた達はもう寝なさい。明日は朝一番で彼らを迎えに行ってもらいますからね」
「はーい」
「はーい」
カラスコンビは奥へと入って行った。だが圭一郎とコロはまだ眠くはならなかった。いや、とても今夜は眠れそうに無い。
途中何度か防火ダンパーを溶断しながら、『彼』と僕は給排気ダクトの中を奥へと進んだ。これまでは数メートルから十数メートル間隔で分岐や交差や曲がり角があったのだが、突然それが無くなり一本道になった。
「ここからは二百メートルまっすぐだ」
『彼』が言った。
「長いね、それは。下に何があるの」
「本当に隠したい秘密だ」
僕はギクリとした。考えている事が彼に読まれている気がしたのだ。『彼』はしばらく無言で歩くと、ダクト側面に金網状の給排気口がある場所で立ち止まった。
そこで牙を剥き出すと、その金網にゆっくりと、音を立てずに長い犬歯を突き刺した。特殊合金製の犬歯が上から下に、金網を切り裂いて行く。静かに、少しずつ。縦に切り終わると、次は首を九十度傾けて横方向に切って行く。そして最後、首を軽く振ると、金網が四角く切り取られていた。
「ワシはこれまでいろんな所に潜り込んだ」
『彼』は不意に話し始めた。
「いろんな場所に行き、いろんな連中の話を盗み聞きした。そうして求める情報を捜していた。それは知っておるな」
僕はうなずいた。
「だが具体的に何を探しているか、何を求めているかをおまえに話した事は無い。不思議に思った事は無いか。訊きたいと思った事はないか」
「訊きたいと思った事はあるよ、何度も。でも何だか訊けなかった」
「訊かれても答えなかったかも知れんのう、何故ならおまえを後戻りできない世界に引きずり込みたくなかったからだ。しかし、ここまで来てしまっては、もう隠す事もあるまい」
僕は心臓の高鳴りを押さえられなかった。ようやく、やっと訊きたくて訊けなかった事が聞ける。
「ワシが探しておったのは、人類、と言ってもおまえたち鳥ではなく、ワシを創造し、ワシと暮らした、現代から見れば超古代の人類の情報だ」
やはり、やはり思った通りだった。『彼』は超古代文明の遺産だったのだ。待てよ。昨夜『彼』は、何か収穫があったかとたずねた僕に「あるにはあった」と答えた。ならば。
「じゃ、この下にある秘密がその超古代の人類に関する情報なの」
「それは違う」
彼は即座に否定した。
「だがどこかで繋がっているのは、おそらく間違いない」
そう言うと『彼』は一歩、二歩と下がった。そしてひとつ、ため息をついた。
「おまえさんに見せるかどうかは、正直迷ったんだがな」
それはすなわち、見せたくはないが、見ろ、という事だ。僕は金網の四角い穴から顔を少し出し、下をのぞいて見た。
ベルトコンベアの大行列だった。長い長いコンベアが、何十列も平行に並んでいる。コンベアの上を流れているのは何だろう、丸いものだ。大きさはまちまちで、極端に大きな物も、凄く小さなものもある。
これは何だ、いや、見覚えはある。誰でも、とてもよく知っているものだ。そう、卵だ。だが何故、こんな所をこんなにも大量の卵が流れているのか、それがわからない。
コンベアを流れる卵たちは、ときどき透明な箱の中に入る。機械の動きが早くて良くわからないが、どうやら卵に針のような物を刺しているらしい。そんな箱が、コンベアの途中に何箇所かある。これは一体、何のラインなのか。小国財閥が隠したい秘密とは何なのか。
「これは……いったい何なの」
振り返った僕の言葉に、『彼』は重々しく口を開いた。
「下に流れている卵は、全て生きた有精卵だ。全国の産院からここに毎日送られてくる。途中で針を刺しているのが見えるか、アレは遺伝子改造用のウイルスを注射しているのだ」
「遺伝子改造? 何の為に」
「人の言葉を喋らせ、人としての生活をさせるためさ」
「そんな事、普通に生まれれば」
「普通に生まれた
「そんな、馬鹿な」
「鳥類は一度に何個卵を産む。種類によって差はあるだろうが、大抵は複数個だろう。しかも生涯に何度も産む。ならばそれぞれの家庭で兄弟がもっと多くても良いはずだ。だがおまえはどうだ、おまえの学校の同級生の事を思い出せ、兄弟が何人もいる例がどれほどある。普通は一人か、せいぜい二人兄弟だ。なぜそうなると思う」
「それは、鳥が人に進化して脳が発達したことで、卵死亡率が高くなったから」
学校ではそう習った。
「自然な進化の結果なら、九割の卵が死に至る発達なぞするものか。卵死亡率を上げている原因がこれだ。この工場だ。遺伝子改造の成功率はせいぜい一割らしい」
僕は言葉を失った。現実感がない。自分のすぐ足の下で行われている事が受け入れられなかった。自分が生まれてこられたのは、たまたまなのか。自分が生まれてくる陰で、何人もの兄弟が殺されていたのか。
「いま下にいる卵のほとんどが死んでしまうの」
「そうなる」
「でもそれって、それって虐殺なんじゃ」
「そう呼ぶかどうかはワシにはわからんな」
「卵を産むのって命がけなんだよ……」
母さんは、今まで何度卵を産んだのだろう。
「当たり前の話だが、この事は政府だって知っている。知っていればこそ、小国財閥には警察も軍も手が出せない。この工場が稼働している限り、小国財閥は安泰だ」
「もしこの工場が止まったら」
「この国に『人』はもう生まれて来ない。ただ鳥が増えるだけだ。それが不幸な事かどうかはわからんが」
僕は後悔し始めていた。真実を知ってしまった事を。『彼』の知った秘密を、あれほど自分も知りたいと願っていたはずなのに。知らされない事に疎外感を感じ、他人に嫉妬し、身悶えていたはずなのに。いざ知ってしまうと、その大きさに自分のちっぽけさが際立つだけだった。自分の無力さを思い知るだけだった。
例えばもしこの事実を、誰かに話したとしよう、そして相手がそれを信じてくれたとしよう。だが、それでどうなる。どうにもならない。自分達が遺伝子改造の結果生まれた存在だ、と知ったところで、それが何だと言うのだ。大多数の者にとってはそんな事よりも、目の前の仕事をこなし、日々の生活を送る方が遥かに重要なのではないのか。
この工場で行われている事を、感情的に否定することは簡単だ。けれど実際止められるか。そんな勇気が誰にあるだろう。止めれば自分達の世界が終ってしまう事を知った上で、誰がそれを選択できるだろう。いやそもそも、何故止めなければいけないのか。止めなければならない理由が本当にあると思うのか。僕にはもうわからなかった。
知っても何もできない、何も変えられない。そんな「真実」を知る事に何の意味があるだろう。何もできないのなら、何も知らない方が幸せだ。ただ悲しみを抱き、無力感に浸るだけの真実ならば。
「さて、これからどうするね」
僕は顔を上げる事ができなかった。
「これ以上深入りしても、ろくな事にはならん。それは良くわかったはずだ。ここで帰るというなら、すぐ出口を開けてやろう。警察か軍隊あたりに捕まる可能性はあるが、そのときにはワシの事を詳しく話してやれ。そうすれば悪いようにはされまいて」
『彼』の言葉には優しさが満ちていた。最後の優しさなのだろう。ああそうか、だから今まで秘密にしてきた、これまでの行動についても説明してくれたのか。
それは妥当な提案であると思えた。自分が求めていた、自分に都合の良い真実など、心地良い本当の事など、この先にはないのだから。なのに。
「いや、一緒に行く」
自分の口から飛び出た言葉に自分で驚いた。何を言ってるんだ僕は。これ以上何をしようというのか。
「おいおい、良く考えろ。この先には知りたくもない現実ばかり転がってるのかも知れんのだぞ」
「それでも」
この言葉は、僕の胸の奥から、暗く閉ざされていた僕の心よりもっと深い奥から、激しい流れとなって吹き出して来た。
「それでも僕は、本当の事が知りたい」
僕は胸を張って『彼』を見つめた。何処からそんな自信が湧いたのかはわからない。けれど、どうしてもこのままでは終われなかったのだ。『彼』は翻意を待つように、しばらく僕を見つめていたが、やがて諦めたようにため息をついた。
「強情だのう。何があっても責任は持てんからな」
背を向けて歩き出した『彼』を、僕は転ばないよう、一歩ずつ確かめながら追いかけた。
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