第3話 師匠の家

 食料はアンパンと紙パック百八十ミリリットルの牛乳。それだけではあったが、私の十五センチに満たない身体には、丸一日分の食糧として、充分どころか過剰な質量とカロリーだった。


 寺の床下から見上げる外の世界はまたも赤く、ざわめく気配は引き潮の様に遠ざかる。夕焼けに懐かしさや切なさを感じるのは何故だろう。失われた記憶に答えを求めようと意識を探ってはみたものの、何の手応えも無かった。


 もう何時間ここに座っているのだろうか。昨日の夜にここに連れて来られてからほぼ丸一日、時折通りかかる人影――鳥影か――から身を隠す為に奥に入ったり柱の陰に隠れたりしたものの、この数時間はそれすら無く、ただ茫然と時を過ごしていた。


 いま目の前にあるのは、直接的には記憶していない、けれども何故かよく知っている風景。公園、空き地、板塀に瓦屋根、高い建物といえば団地ぐらいの広い空、きっと夏にはセミの声が、秋にはコオロギやキリギリスの声が響くであろう、そんな世界。それらは失われた物のはずだった。いつ失われたのかは思い出せないが、きっと随分と昔だったのではないか。


 しかし、そんな滅び去ったはずの風景がいま私の目の前に実在している。そしてその世界の住民はみんな鳥なのだ。鳥が人を名乗り、人として社会を構築し、人として日々暮らしているのだという。人とは果たして、こういうものだったのだろうか。私の失った記憶の中でも。


 鳥がどういう生き物であったのかは覚えている。空をかける鳥、籠で歌う鳥。鳥とはそういうものだったはずだ。そんな鳥達が、服を着、電車やバスに乗り、学校で学び会社に勤めるなど何とも信じ難い。だが記憶を失った私にとっては、目の前にある事実を否定することなどできなかった。現時点ではこれこそが、もっとも「正しい」事だからだ。


 そこに誰かが近付いてきた。思わず柱の陰に身を隠す。しかし人影は足を止め、しゃがみこむと、こちらを覗き込んできた。


「よう、大丈夫か」


 そう声をかけて来たのは、あのウコッケイ、烏骨圭一郎だった。圭一郎はそこからまた二、三歩歩み寄ると、口に咥えて持参したビニール袋を足でゴソゴソしだした。


「ちょっとはマシな物がないかと思ってさ」


 彼が足で取り出したのは、サンドイッチと缶のお茶だった。


「悪ぃな、小遣いも少なくてさ、こんな物しか買えなくて」


 サンドイッチにはレタスとハムと卵が使われていた。確かに、アンパンだけよりは健康的な気がしないでもない。


「ありがとう、何から何まですまない」 

「いや、いいってことよ。困ったときはお互い様だ」


 圭一郎は少し焦った様子で頭を振った。羽毛で見えなかったが、もしかしたら赤面していたのかもしれない。


「でよ、何か思い出したか」

「いや、これと言って」


 思い出した事は何もない。思いついた事は、この世界の風景に対する違和感だけ。しかもそれは記憶の裏打ちがあってのことではない。単に気のせいかも知れないのだ。


「そっか、まあ仕方ねえよな。それはともかくとして、だ」


 そう言いながら圭一郎はビニール袋を再度まさぐった。


「とりあえずさ、これで顔隠そうぜ。顔さえ隠せばそうそう驚かれる事もねえよ」


 手渡されたのはペイズリー柄のバンダナだった。口元を軽く覆ってみると洗剤の香りがする。


「あとは、これだ」


 最後に出て来たのは、何だろう、四角い布にヒモが縫い付けてある。


「それは何だ」

「おんぶヒモだよ、知らねえか? 赤ん坊を背中におんぶするときに使うやつだ」


 それならば知っている気がするが、いや待て、鳥がおんぶするのか。と言うか。


「えっと、もしかして私がおんぶされるのか」 


「そうだよ、まさかここでずっと暮らして行くわけにはいかねえんだから、もっとちゃんとした所に移らなきゃならんだろ。かと言ってお前みたいなのを手ぇ引っ張って街中を歩いたら、どんな騒ぎになるかわかったもんじゃない」


「夜中に移動するとか」


「補導でもされたらどうするよ。警察に説明できねえぜ。大体向こうの家の都合だってあるんだからさ、夜中は無理だ。赤ん坊の振りしておんぶで移動するのが一番安全なんだよ」


 どうやらこのウコッケイは彼なりに私の事を一生懸命考えてくれているようだった。それについては心底有難いと感じた。しかし、だからと言って。


「何してんだよ、早く顔隠して、ほれ、さっさとおぶさる、ほい、ほいほいほい!」

「え、えええ」


 どうやら私が断るという選択肢は、彼の中には全く無いようだった。




 ウコッケイの背に揺られて、三十分は経ったろうか。行き交う者達の視線を感じた事は幾度もあったが、特に怪しまれたりはしなかった。中年の女性らしい大型のニワトリに顔を覗き込まれそうになったが、圭一郎が適当にかわしてくれた。結果的には言う通りにして正解だったようだ。


 陽もすっかり暮れた頃、辿り着いたのは三軒続きの平屋の長屋が幾棟も並んだ地域。お世辞にも裕福な者が暮らしていそうな場所には見えなかったが、どうやらここが圭一郎の言う「ちゃんとした所」らしい。


 そのうちの一軒、既に玄関の明かりは消えて、ガラス戸には奥の間のテレビらしき光が浮かんでいる。そこを圭一郎は躊躇すること無く、足で勢いよく開けた。


「師匠、お邪魔します!」


 奥の間にはタカが居た。腹巻を巻いて。足に持ったコップには半分ほどビールが入っていたが、畳が濡れているところを見ると、飲んだのではないのかもしれない。タカはしばらく口を開けたまま、丸い眼を殊更に丸くしてこちらを見ていたが、二、三度口をパクパクすると、上ずった声をあげた。


「お、お前、何だ」

「ちょっと師匠にお願いが」


「お前なんかを弟子にした覚えはない! 大体今何時だと思ってる」

「まだ七時過ぎですよいやだなあ」


「十分だ、じゅうぶん! 子供が家に帰るには充分遅い時間だろうが」

「いやそこはそれ、緊急事態って事で」


「うるさい、黙れ、これ以上グダグダ言うなら食っちまうぞ馬鹿野郎」

「またまた、俺はハチじゃないんすから」


「ハチ?」


 思わず口を押えた。うっかりしていた。警戒心を解いたつもりはないのだが、あまりの意味不明さに、また好奇心が優ってしまったのだ。圭一郎は私に振り返るとニヤリと笑った。


「そうさ、俺の師匠はハチクマ先生って言ってな、タカのくせに主食がハチなんだぜ」

「何だ、誰か居るのか」


 ハチクマ先生が立ち上がるのを見て、圭一郎は玄関の引き戸を、今度は静かに閉めた。そしておんぶ紐をゆるめると、私をそっと上り口に降ろし、頭を包んでいたバンダナをクチバシではずした。


 ハチクマ先生は息を飲んだ。私の頭頂から爪先までを何度も見た。なめまわすような視線では無い。どちらかと言えば切り刻むような鋭い視線だった。


「何だ、これは」

「師匠はどう思います」


 圭一郎は声を潜めるように問いかけた。


「わからん、こんな生き物は見たことが無い」

「俺はサルに似てるって思ったんですが」


「全く似ていないとは言わん。だがこれほど自然に直立するサルなど居ない。居るわけがない。強いて言うなら人だ。我々だ。だが、いや、ある意味こいつの方が遥かに人らしい姿かもしれん」


「おまけに言葉まで喋る」


 ハチクマ先生は一瞬圭一郎に目をやったが、すぐに私と視線を合わせた。


「本当に喋れるのか」


 またうっかり返事をしそうになったが、一呼吸置いて圭一郎を振り返った。


「大丈夫だよ。師匠は変な人だけど悪い人じゃない」

「お前が言うな」


「……何を喋ればいい」


 ハチクマ先生は、しばらく何かを吟味するかのように見つめた。


「そうだな、まずは名前を聞かせてくれ」

「名前は覚えていない」


「ほう、覚えていない? では家族の事は、住んでいた家や暮らしていた地域の事は」

「……覚えていない」


「こいつ記憶喪失らしいんですよ」

「お前は口を挟むな」


 ハチクマ先生は厳しい顔で圭一郎を睨んだ。


「ほ、本当だ、覚えていないのだ」


 私の言葉に、ハチクマ先生は再び厳しい顔をこちらに向けた。

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