男性が女性を愛する時に、もっとも重要なのはその人の「声」である、という主張も一部にはあります。
そうでなくても、愛する人の声というのは誰かにとって特別なものでしょう。
それが、自分だけのものでなくなったら――
作中ではその社会的文明的な意味について深く語られてはいませんが、合成音声「コニー」は確かに世界に福音をもたらしたはず。しかしその裏で犠牲になった「何か」――歴史の中に埋もれた個人の機微を描くSF作品として、そしてSFという枠を超えて訴えかける深遠なテーマ。
普及すればするほど、その絶望は大きくなり、それが「ある一点」を超えることで決定的になる。
これはあらゆる文明、あらゆる技術へのメタファーであるとも感じられます。
アイザック・アシモフの作品に哀愁をプラスしたような、流麗な文章と人の心に迫る怖さ、深遠なテーマを扱った素晴らしい作品でした。脱帽です。
美しい文体で語られる、とても哀しい物語。
「声」は、いったい誰のものなのか。
本人が亡くなった後も、その使用権は本人に帰属するのか。
遺族に、その「声」を取り戻す「権利」はないのか。
すみません。ずいぶん前に読んだのに、いろいろと考えすぎてしまって上手くレビューを書く自信がなく今まできてしまいました。
この物語が示唆するのは、これから起こりうる重大な問題の一側面だと思いました。今はまだあまり顕在化はしていませんが。
技術の進歩により写真で故人の姿が残せるようになりそれなりの年月はたちました。声も、もう何十年も前から録音技術があります。
でもそれらは、あくまで故人が残したものを見たり聞いたりするだけでオリジナルを改変するものではありませんでした。
でも、この作中に語られる世界……いえ現代もすでに起こっていることですが、故人が残したものを後世の者が改変を加え好きに活用することができるようになってしまいます。
それがいざ問題になったとき、故人の財産を相続人が相続するように、故人の元データを相続人が相続しそれを活用する権利を持つのか。それともそれは、一身専属上のもので死後改変することは許されないのか。逆になんの制限もなく契約上の規定に従って改変できてしまうのか。
今後、科学技術が今よりも発達すると、声だけじゃなく映像を三次元にとって本人の思考パターンに沿って自由にしゃべらせ行動し、まるで故人が生存しているかのように一緒に暮らせるようになるかもしれません。そうなったとき、その時代の人たちはこれを法的にどう許容し、制限し、解釈していくのか。
そんな先のことまで考えを巡らせてしまう……そんな示唆に富んだ作品だと思います。
この声の主の女性は、まさかそのバイト行為が、後々夫をそこまで苦しめるなんて考えてみなかったことでしょう。
この物語に語られる未来は、ほんの少し先の未来。
でも、現実の世界はもう少し故人にも、残された遺族にも優しい世界であってほしいな。そうなるように法制度や判例を整えてほしい。いや、整えなければいけない。そう強く感じました。
板野さんがSF競作として宣伝されていたので興味を持って拝読しました。
合成音声のモデルとなった今は亡き女性の元夫による述懐。
という掌編として捉えれば、話の筋は通っていて面白いのですが……。
「SF」として見ると、うーん、と首をかしげる部分もあります。
何が「うーん」なのか、大きく二点にわけてご説明します。
一点目は、サイエンス・フィクションとして読者を納得させる理屈付けの欠落です。
個人の肉声をもとにした合成音声というのは、恐らくボーカロイドあたりから着想を得たのではないかと思いますが。
しかし、なぜ、声優や芸能人でもなく、地方訛りもある一般人の声が、全世界で使用する合成音声のモデルとなりえたのか?
読者が当然抱くであろうその疑問について、作中にエクスキューズがありません。
SFとは技術史です。作中に出てくるサイエンス要素については納得のいく説明が必要です。
現代人の目から見て不可思議に思えるモノであればあるほど、なぜその世界でそれが受け入れられるに至ったのか、読者を唸らせる説明が作者には求められるんですね。
その点、この作品では、物語の根幹であるはずの「コニーという個人の声が全世界の自動音声のスタンダードとなった」という出来事に筋を通す説明が欠落しており、「作者がそう決めたからそうなのだ」としか受け取れない内容になっています。
これでは、何歩か譲って「すこしふしぎ」なショートショートとしては成立の余地があるとしても、「サイエンス・フィクション」にはならないんです。
二点目は、話のスケールの小ささ、そしてそれに起因する「問題提起の欠落」です。
作中、コニーの声が世界に溢れることを悲観的に受け止める者が元夫しかおらず、世界の話ではなく彼個人の話になっています。
小説として間違いではありませんが、SFとしては決して面白くはない構成です。
良質のSFとは、作中で描かれる未来が果たしてユートピアなのかディストピアなのか、読者一人一人に判断が委ねられ、どのような受け止め方も許容される「問題提起」となっている作品のことではないでしょうか。
その点、この作品は、元夫の個人的見解を通じてしか読者が世界に迫ることができず、いわば、ただ一つの受け取り方をあらかじめ提示されてしまっているのです。
端的に言うと「ダンナさん、かわいそう」で感想が終わってしまうんですね。
世界全体にとってコニーの声は是なのか?非なのか? といったスケールの話にどうにかして発展させないと、SFとして名作にはならないのです。
と、厳しいことを書きましたが、これはあくまで「SF」として見れば、の話です。
「個人の身に起こった少し不思議な出来事の話」として見れば十分に面白かったです。作者さんの得意分野も活かされていますしね。
最後、セックスロボットの方面に話題が飛ぶのは、好みが分かれる部分だとは思いますが。個人的にはそのくだりは無い方が話がスッキリしていいと思いました。
初音ミクなどの人気ボーカロイドにも、声の提供者がいて、
彼女たちはしばしばボカロイベントに出演するらしい。
「ミクさんから仕事をもらっている」人が声優であることを、
私はボカロファンの知人から教わるまで知らなかった。
ボカロ楽曲には、生身の歌手には歌わせられないくらい
インモラルでセクシュアルで頽廃的、犯罪的なものも多い。
どんな楽曲を書こうと作詞曲者の表現の自由であり、
人間相手ではないから制限を受けずに済むのだ、と。
「中の人」が何を感じようと、「コンテンツ」に感情はない。
「中の人」にも「コンテンツ」にも否と口にする権利はない。
鈍感な社会は、傷付いた小さな個人を平然として押し潰す。
新たに現れる便利なモノから、一定数の人は突き放される。
世界最初のヒト由来の細胞株、ヒーラ細胞の話を思い出した。
患者本人や遺族のインフォームドコンセントが曖昧なまま、
ヒーラ細胞は本人の死後も増殖と使用が続けられている。
医学への貢献は非常に大きいが、倫理問題はどうなのか。
私たちの知らないうちに、社会の陰に押し込められながら、
「コニーの夫」はひっそり増えているのかもしれない。
自動音声。機械的でどこか無機質な印象を覚える声。
でも、生成されたその声は、どこかの血のある誰かのものである。
あたりまえのことだ。
大多数のユーザーは、元の音声の主の事情なんて知らない。
あぁ、未来にこんなにも胸を。心を締め付けることが起きるかもしれないのか。
声の提供者。彼女の、彼の意思を無視した声があちこちで聞こえる。
もう会えない、聞けないはずの声をもう一度聞ける……言葉にすると、何となくステキなことのように感じる。
ただ、彼女の『言葉』でない。
『声』だけがあのような使われ方をしていったら……
胸から込み上げた何かが、喉に纏わりつく。そんな気がしました。
近未来SFですが、ほぼ現在の私たちを取り巻く日常に潜む問題をついた作品と思います。
人工音声(実は、録音された個人の声を編集したもの)で、私が真っ先に思い浮かべたのは、世界的に有名な理論物理学者スティーヴン・ホーキング博士です。博士が筋萎縮性側索硬化症(ALS)によって言語を失った際、友人が人工音声発生装置を発明、提供しました。当時は画期的な発明でしたが、博士ご本人は「僕はイギリス人なのに、友人はアメリカ人なので、この機械はアメリカ訛りで喋るんだよ。そこだけは不満かな」と、冗談で仰っていました。
今、私たちは、その声で博士の講演を聴いています。博士の本来の声を知る術はありません。
病院の会計機械は、美しい女声で話してくれます。ある声優さんの声が、全国に普及しました。カーナビもいろんな声で話してくれますね。往年のアニメヒーローの声優さんだと漲ります。
でも、こうした『声』の商業利用に、あるべき制限が加えられていなかったら?
この作品は、ひと組の夫婦の不幸を通じて、そんな「有り得る恐怖」をみせてくれます。同時に、人の人格や尊厳とは何なのか……を、考えさせられました。