明日にも実現しそうな、「売られて」音声データベースに収録された誰かの声が、生活の中に満ち溢れる未来。
その、本来人格とともに存在するはずの「声」が商品として切り離されたことで生まれた、悲劇というよりもっとひそやかで、耐え難い悲しみを描いた傑作だと思う。
実際にはこんな商品が開発されることはない、と信じたい。ボーカロイドや「ゆっくり」の隆盛を踏まえればすでに合成音声はそれ自体のキャラクター性を獲得する段階まで来ていて、あえて法務上の困難で微妙な問題を生じる肉声を搭載する必然性は薄れていくから――そう、信じたいのだが。
商品として差別化を志向したときに、企業があっさりとそのラインを踏み越えないとは言い切れない。
そこの恐ろしさを、この作品はついている。
価値観も慣習も目まぐるしく変わり、あるいは崩壊しあるいは新生する現代に、我々は生きている。それがほんの少し足を踏み外し――あるいは歯止めなく突き進めば、我々はいつかこのように、窮して売り渡したもののために、最もプライベートな記憶、追憶まで搾取される、そんな日を迎えてしまうかもしれない。
次のドアの前に待ち構えるかもしれない近未来の、そんな悪夢との距離感を提示してみせる本作は、どこにいても同様のサービスが受けられるといった均質化した世界が、決してバラ色の居心地の良いものでないことも暗示して終わる。
多様性、多層性が保たれなければ救われない物事がある。赤坂さんの真意は、そのあたりにあるような気がしてならない。
言葉とは不思議なもので、意味とは別に音声によって拒否しようもなく湧き上がってくる感慨がある。作者の赤坂さんはイギリス在住の英語話者だが、かの国の言葉は出身階層、地域、歴史と個人史を言葉の中に容赦なく見せてくれる。発音そのものが個人史だ。
私も英語圏の聖歌隊に所属したことがあるが1600年代のイギリス国教会の聖歌を1900年代のアメリカ南西部、2000年代のアイルランド。色んな留学先で身に着けた『英語』で歌われると、それはもう同じ言葉を歌っているとは思えないほど違うものなのだ。
子音と母音。口腔の形と舌の位置。それだけの些細な違いから、音声に秘められた記憶がよみがえる。
「コニー」がそっくり再現する「コンスタンス」との秘めた自分史の暴露に耐えられない夫は、コニーが使われる言語圏から逃れようとする。言葉は子音と母音で構成された音声であると同時に「息遣い」でもあるのだ。
コニーの製品寿命は長いだろう。コンスタンスの記憶を持つ夫が亡くなった後、コンスタンスの声の記憶を持つ者が消えた後も、見知らぬ人のために奉仕し続ける。映像が伴わないのをまだよかったとすべきか、むしろ残酷なのか。それは東京に向かう若者にはまだわからないかもしれない。
「息」(プネウマpneuma)は生命原理の事を指す。
品格ある文体の見事な短編。
本作を読み終わった際、ほぼ反射的に★3つを付けると同時に、数年前に話題になった「ペットのクローン」を扱ったビジネスの事を思い出した。
当時そのニュースを目にした私は、正体不明の恐怖を感じたものだったが、本作の読後感には同じような空恐ろしさが漂っている。
言葉というものは、発したその瞬間から移ろっていく。やがて意味を変え、あるいは失い、発せられたその時に持っていた確かなものは、思い出の中のものだけになっていく。
あまりにも儚い、刹那の存在だが、その時その時に輝くからこそ、尊く美しいものとして人の心に響く。
ではもし、言葉からその「刹那」が失われたなら、一体何が起こるのか?
改めて、言葉というものについて考えさせられた。