終話 九の月九日
*
マリーは息を潜めながら、裏庭にある門の前に立っていた。手入のされていない、長い間使われていなかったであろう小さな門だ。覆うように生える低木のせいで良く見えず、塀の向こうも草木が生い茂っているために、この門の存在を知る者はほぼいなかった。
マリーもつい最近まで知らなかったが、鼠に驚いて転んださいに偶然見つけたのだ。錆びていた錠前をうっかり触って壊してしまったのだが、気付かれないだろうと黙っていたのが功を奏した。
軋む格子をゆっくりと開け放す。暗がりにうっすらと小道が見えた。持ってきた燭台を置いて目印にする。不意に自分の影が濃くなり空を見上げると、雲の切れ間に月が丸く浮かんでいた。
「素敵な夜ね……」
そう呟いて、高鳴る胸を押さえながらマリーは彼を待った。皆が寝静まったあとの逢瀬。愛する二人の密やかな夜。とくとくと、マリーの心が幸せに満ちていく。
「マリー」
「!」
囁きが夜風に紛れて彼女を呼んだ。
「ウィステ、」
期待に弾む声が不自然に途切れた。マリーの瞳が暗闇を捉えきれずにさ迷った。燭台の灯火に、鈍色の三日月が浮かび上がっている。冷たい切先が深く、深くマリーにくい込んで、紅い雫に濡れている。
「か、ふ」
口から何かがこぼれ落ちる。三日月がマリーを離すと、その体はかくりと崩れて芝生に倒れた。腹が熱い。鉄の味がする。視界が霞む。断片的な感覚がマリーをつなぎとめて、自分を見下ろして立つ人物へと意識を促した。
「ゲ、……ティ、ぁ」
たなびく髪と光る隻眼が、もう一度三日月をマリーの体に沈めた。
*
月がちぢれ雲と戯れている。濃紺に染まる空は星を抱いて凛と澄み、静寂に包まれた街の空気が心を平穏にさせた。
「なんだか清々しい気持ちだよ、アレナリア」
今は闇に閉じる花々に囲まれながら、僕は懐かしささえ感じる彼女の名を呼んだ。夜風に冷やされた透かし彫りのテーブルに指を滑らせると、ひやりとした感触とともにここですごした記憶が脳裏に浮かんだ。
「後悔はしていないよ」
これでいい。僕は目を閉じて、頭上に浮かぶ真円に祈りを込めた。再び瞼を押し上げると、少し体が軽くなったような気がした。
ふ、と月が光を弱めた。それとほぼ同時に、芝生を踏む音が背後で聞こえた。鼓動が少しだけ早くなる。
「リージア様、眠れないのですか」
落ち着いた声が僕を呼ぶ。微かにいつもより固い。
「……眠らなくてもいいかと思ってね」
振り向かずに、言葉だけを返した。衣擦れの音がする。
「……なぜ、ですか」
声が数段暗く、冷たさを帯びた。僕は意を決して、ゆっくりと振り向いた。月が明るさを取り戻し、照らされた少女が白く浮かび上がった。
「どうせ、もう僕に朝は来ないのだろう、クレナ」
緩やかに流れていた風が止み、葉擦れにさざめいていた庭園が無音になった。
佇む少女はまっすぐに僕をみつめて、静かに瞼を下ろした。もう一度、透き通る睫毛の下に現れた紫色の瞳が、深い闇と冷酷さを宿した。
「いつ」
短く、今までよりも低い声で唸るように言う。柔らかな表情の面影はなく、温度を失った顔が無機質に僕を睨んだ。
「少し前、ほんの偶然だったんだ。君らの繋がりを、見てしまった」
「……」
「ジェイが、明日も来ると言ったから。ここで待つのも悪くないと思って」
微動だにせず聞いていたクレナは、僕の言葉が途切れてから一呼吸置いて静かに口角を吊り上げた。仮面のような笑顔に思わず僕は息を呑んだ。
瞬間、視界がぐるりと上を向いて背中が強く打ち付けられた。驚いて瞑った目をこじ開けると、数歩は離れていたクレナが目の前に現れて、僕に馬乗りになっていた。淡い銀の髪が流れ落ちて、帳のように僕らを外界から隔離する。冷えた鈍色の短剣が僕の喉元に狙いを定めた。
「ざまあないな」
嘲笑うような声音で目の前の少女が言った。本当に、この子はクレナだろうか。あどけない微笑を見せていた、あの繊細な少女なのだろうか。
「信じたくないか?そんなおめでたい頭してるから簡単に騙されるんだよ」
「クレナ……」
「気付いたなら逃げりゃ良かったんだ。そうすれば少しは長く生きられたかもな?」
片目を眇めてくくと嗤う。僕は動揺を隠せないまま、それでもなんとか声を出した。
「逃げない、逃げないよ。僕はもう」
「貴族様は大変だな。いつでもいい格好をしなきゃならない。なにもできやしないってのに」
「……違う」
「何がだよ」
ちくりと喉に痛みが走った。
「貴族だからじゃない……君だから、君らだから」
少女の、クレナの眉間に皺が寄る。
「大切な君らだから、僕は逃げない」
「善人ぶってんなよ、泣き虫野郎が。綺麗事抜かせば見逃してもらえるとでも思ったか」
華奢な左手が僕の喉を押さえつけた。怒りの表情で短剣を振りかざす。
「あの世で泣いてろ」
恨みがましく吐き捨てて、切っ先を振り下ろす。僕はクレナを見つめたまま、全身の力を抜いた。怖くは、なかった。
刃が刺さる、鈍い音がした。
「……」
「……なんで」
小さく震える声が、庭園の片隅にポツリと咲いた。
「クレナ?」
「なんでそんな顔してるんだよ」
僕の頬を掠めて土に刺さる短剣から、力が抜けたように手を離す。
なにか言わなくてはと言葉を探し、それを口にする前に胸倉を掴まれ上体を起こされた。
「ふざけんなよ。泣き喚け、罵れ、這いつくばって命乞いしてみろよ!赦す必要なんかない、俺を恨んで死ねばいいだろ!」
語調を強めてクレナは叫んだ。怒っているのか、悲しんでいるのか、整った顔が感情に歪んで僕を睨みつける。
「……しないよ」
半ば無意識に襟を握り締める手に触れた。クレナの力が緩む。
「そんなことしないよクレナ。今までの全てが偽りでも、僕がそれに救われたのは事実なんだ」
「っ……」
「君を助けて、守ってあげている気になっていたよ。とんだ思い上がりだね。君のこと、全部分かったつもりでいた」
自然と笑っていた。心に浮かぶ気持ちを、一つずつ声に出していく。
「君らのおかげで、悲しみを乗り越えられた。親友もできた。愛をもらえたよ。感謝してる」
「……」
「愛する君らになら、僕の全てを喜んで差し出すよ」
俯いて黙ってしまったクレナの髪を梳いた。涼しげにきらめく銀色が、月光に照らされて一層美しく流れる。クレナはとうとう僕の襟から手を滑り落として、しばしされるがままになった。
「嫌いだ」
搾り出すようにクレナが呟いた。
「貴族なんて嫌いだ。この国も、お前も、……お前なんか、お前なんか大嫌いだっ!」
僕の手を払って言い放つ。その双眸が、じわりと滲んだ。雫になって、頬を滑っていく。
「クレナ」
はらり、涙が落ちる。手を伸ばして、親指でそっと雫を拭う。クレナは目を伏せて、その手に触れると消え入りそうな声でもう一度呟いた。
「……きらいだ」
胸が締め付けられる思いがした。日々の情景が脳内に広がる。共に物語に思いを馳せる姿が、自分の笑みに驚いて隠す仕草が、歌を奏でて宥める顔が、僕の心を温かく撫でた。
「あの、笑顔は」
言いかけて、口をつぐんだ。視界の端に、揺らめく朱が映った。
硝子窓の割れる音が暗い庭園に響く。
「……僕を、殺しておくれ」
「!」
「この身ばかりが残っても、惨めなだけだ」
クレナが潤む目を見開く。何かを言おうと開きかけた口を、彼女はそっと引き結んだ。無言で突き刺さったままの短剣に手を伸ばす。クレマチスの瞳が、決意に満ちて僕を見据えた。
「僕は幸せ者だ」
微笑んで見せると、クレナも微かに笑った。
炎がはためいて粉をちらす。
「愛しているよ、クレナ」
幸せに満たされて、僕は安らかに瞼を下ろした。
*
「庭に逃げていやがったか」
「……」
「どうしたクレナ?」
「……あんたに感謝してるってさ」
「感謝?……はっ、莫迦な奴だ。最期までお人好しか」
「……」
「ずらかるぞ」
「……ああ」
*
酒に満ちた盃が空中でぶつかり合った。
「やっぱ五大公ともなると物が違ぇな」
「ずいぶんチョロかったじゃねぇか。さすが兄貴たちだ」
「ハイドレンジア万歳!」
男たちが財宝をばら撒きながら成功に酔う。燃える焚き火に宝石が艶かしく光った。
「どうした姐さん、難しい顔して」
男の一人が木に寄りかかって腕を組む少女に声をかける。少女はそれを無視すると、焚き火に背を向けた。
「どこに行く、クレナ」
「……夜明けを見てくる」
隻眼を光らせてジェスターが問うと、クレナは顔だけを動かして言った。そのまま木々の向こうに消える。
「兄貴?」
同じく男を無視して盃の中を飲み干すと、ジェスターはクレナを追った。
鬱蒼と茂る木々の間を抜けて、小高い丘に出た。そこだけ景色が開けて、丁度長椅子のように倒木が一本鎮座する。そこに浅く腰掛けて、クレナは白んだ空を眺めていた。
「なんだよ浮かない顔して。気にくわねぇことでもあったか」
ジェスターが話しかけても、クレナはそちらを見ようとしない。
「おい」
「……なあジェスター」
思いつめたようにクレナはジェスターを呼んだ。立ち上がって、向かい合う。
「ハイドレンジアを抜ける」
「……」
ジェスターの眼光が鋭さを増す。
「腑抜けたか?あんな奴に絆されたんじゃねぇだろうな」
「もう俺は役に立たねぇ、切ってくれ」
「ふざけんな」
ジェスターはクレナの顎を掴んで無理やり自分のほうを向かせた。
「まだ夢心地かよ。引っ叩かなきゃ起きねぇか」
「っ、もう無理なんだよ」
華奢な手がジェスターの手首を掴んで引き剥がそうとする。
「ああそうだ、絆されちまった、だから」
「なら縛ってでも引き戻してやる」
「もう前みたいには騙せない!」
「だったら一から仕込み直してやる!」
ジェスターは凄むと腕を振ってクレナを地面に叩きつけた。倒れ伏したクレナはゆっくりと上体を起こすと、項垂れたまま呟いた。
「……、愛してるって、言ったんだ」
「方便に決まってんだろ?貴族はそうやって善人のふりしては俺達を踏みにじる。今までだってそうだったろうが」
「……そうだ、優しい言葉を並べ立てて、汚い手で触る」
クレナは自らの肩を抱いて歯軋りした。
「大事にするなんて全部嘘で、結局欲にまみれてあいつらは俺を辱めるんだ」
「その通りだ。お前は貴族様の、都合のいい人形でしかねぇんだよ」
ジェスターが耳元に寄って囁く。
「だから俺達で貴族共を」
「でも」
震える肩を握り締めて、クレナはジェスターを睨んだ。
「あいつは違う」
「……」
「あいつ、一度も俺を抱かなかった」
「いい加減にしろよ」
「一度だってそんな目で俺を見なかったんだよ」
「クレナ!」
ジェスターが声を荒げる。クレナはひるまずにジェスターの袖を掴んだ。
「……あんたみたいになりたかった。そうすれば、二人でなんだってできるって」
「そうだ、二人で何でも奪ってやろうって決めただろ」
「でも、もう無理だ」
苦しそうに吐き出す。
「あんた以外に、愛されたいと思ってしまった」
「……っ」
ジェスターが顔を歪める。乾いた音が丘に響いた。クレナが片頬を赤くして俯いた。
「相棒失格だ。だから抜ける」
「本気で言ってんのか」
「あんたに嘘はつかない」
拳を固く握るジェスターに微笑んで、クレナはふらりと立ち上がった。空が明るくなって、眼下に広がる森の向こうから太陽が顔をのぞかせた。
「俺たちに陽は似合わないな」
へら、とクレナが笑った。そのまま静かに丘の端まで歩を進める。
「クレナ……?」
ジェスターが訝しげに呼ぶと、クレナは昇る日に背を向けて丘に立った。
踵が崩した石の欠片が、丘の下に、丘に見えていた崖の下に落ちていった。
「ジェスター、好きだったよ」
「っ!」
行動の意味に思い立ったジェスターが駆け出す。
クレナは彼を待たずに、地面を蹴った。
「クレナ!」
伸ばした手が虚空を掴んだ。
奈落への、地獄への旅路だ。
祈るように手を組んで、少女は意識を手放した。
朝焼けに、華が咲いた。
紡ぎ花 輪円桃丸 @marutama
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