終話 九の月九日


 マリーは息を潜めながら、裏庭にある門の前に立っていた。手入のされていない、長い間使われていなかったであろう小さな門だ。覆うように生える低木のせいで良く見えず、塀の向こうも草木が生い茂っているために、この門の存在を知る者はほぼいなかった。

 マリーもつい最近まで知らなかったが、鼠に驚いて転んださいに偶然見つけたのだ。錆びていた錠前をうっかり触って壊してしまったのだが、気付かれないだろうと黙っていたのが功を奏した。

 軋む格子をゆっくりと開け放す。暗がりにうっすらと小道が見えた。持ってきた燭台を置いて目印にする。不意に自分の影が濃くなり空を見上げると、雲の切れ間に月が丸く浮かんでいた。

「素敵な夜ね……」

 そう呟いて、高鳴る胸を押さえながらマリーは彼を待った。皆が寝静まったあとの逢瀬。愛する二人の密やかな夜。とくとくと、マリーの心が幸せに満ちていく。

「マリー」

「!」

囁きが夜風に紛れて彼女を呼んだ。

「ウィステ、」

期待に弾む声が不自然に途切れた。マリーの瞳が暗闇を捉えきれずにさ迷った。燭台の灯火に、鈍色の三日月が浮かび上がっている。冷たい切先が深く、深くマリーにくい込んで、紅い雫に濡れている。

「か、ふ」

口から何かがこぼれ落ちる。三日月がマリーを離すと、その体はかくりと崩れて芝生に倒れた。腹が熱い。鉄の味がする。視界が霞む。断片的な感覚がマリーをつなぎとめて、自分を見下ろして立つ人物へと意識を促した。

「ゲ、……ティ、ぁ」

たなびく髪と光る隻眼が、もう一度三日月をマリーの体に沈めた。



 月がちぢれ雲と戯れている。濃紺に染まる空は星を抱いて凛と澄み、静寂に包まれた街の空気が心を平穏にさせた。

「なんだか清々しい気持ちだよ、アレナリア」

 今は闇に閉じる花々に囲まれながら、僕は懐かしささえ感じる彼女の名を呼んだ。夜風に冷やされた透かし彫りのテーブルに指を滑らせると、ひやりとした感触とともにここですごした記憶が脳裏に浮かんだ。

「後悔はしていないよ」

 これでいい。僕は目を閉じて、頭上に浮かぶ真円に祈りを込めた。再び瞼を押し上げると、少し体が軽くなったような気がした。

 ふ、と月が光を弱めた。それとほぼ同時に、芝生を踏む音が背後で聞こえた。鼓動が少しだけ早くなる。

「リージア様、眠れないのですか」

 落ち着いた声が僕を呼ぶ。微かにいつもより固い。

「……眠らなくてもいいかと思ってね」

 振り向かずに、言葉だけを返した。衣擦れの音がする。

「……なぜ、ですか」

 声が数段暗く、冷たさを帯びた。僕は意を決して、ゆっくりと振り向いた。月が明るさを取り戻し、照らされた少女が白く浮かび上がった。

「どうせ、もう僕に朝は来ないのだろう、クレナ」

 緩やかに流れていた風が止み、葉擦れにさざめいていた庭園が無音になった。

佇む少女はまっすぐに僕をみつめて、静かに瞼を下ろした。もう一度、透き通る睫毛の下に現れた紫色の瞳が、深い闇と冷酷さを宿した。

「いつ」

 短く、今までよりも低い声で唸るように言う。柔らかな表情の面影はなく、温度を失った顔が無機質に僕を睨んだ。

「少し前、ほんの偶然だったんだ。君らの繋がりを、見てしまった」

「……」

「ジェイが、明日も来ると言ったから。ここで待つのも悪くないと思って」

 微動だにせず聞いていたクレナは、僕の言葉が途切れてから一呼吸置いて静かに口角を吊り上げた。仮面のような笑顔に思わず僕は息を呑んだ。

 瞬間、視界がぐるりと上を向いて背中が強く打ち付けられた。驚いて瞑った目をこじ開けると、数歩は離れていたクレナが目の前に現れて、僕に馬乗りになっていた。淡い銀の髪が流れ落ちて、帳のように僕らを外界から隔離する。冷えた鈍色の短剣が僕の喉元に狙いを定めた。

「ざまあないな」

 嘲笑うような声音で目の前の少女が言った。本当に、この子はクレナだろうか。あどけない微笑を見せていた、あの繊細な少女なのだろうか。

「信じたくないか?そんなおめでたい頭してるから簡単に騙されるんだよ」

「クレナ……」

「気付いたなら逃げりゃ良かったんだ。そうすれば少しは長く生きられたかもな?」

 片目を眇めてくくと嗤う。僕は動揺を隠せないまま、それでもなんとか声を出した。

「逃げない、逃げないよ。僕はもう」

「貴族様は大変だな。いつでもいい格好をしなきゃならない。なにもできやしないってのに」

「……違う」

「何がだよ」

 ちくりと喉に痛みが走った。

「貴族だからじゃない……君だから、君らだから」

 少女の、クレナの眉間に皺が寄る。

「大切な君らだから、僕は逃げない」

「善人ぶってんなよ、泣き虫野郎が。綺麗事抜かせば見逃してもらえるとでも思ったか」

 華奢な左手が僕の喉を押さえつけた。怒りの表情で短剣を振りかざす。

「あの世で泣いてろ」

 恨みがましく吐き捨てて、切っ先を振り下ろす。僕はクレナを見つめたまま、全身の力を抜いた。怖くは、なかった。

 刃が刺さる、鈍い音がした。

「……」

「……なんで」

 小さく震える声が、庭園の片隅にポツリと咲いた。

「クレナ?」

「なんでそんな顔してるんだよ」

 僕の頬を掠めて土に刺さる短剣から、力が抜けたように手を離す。

 なにか言わなくてはと言葉を探し、それを口にする前に胸倉を掴まれ上体を起こされた。

「ふざけんなよ。泣き喚け、罵れ、這いつくばって命乞いしてみろよ!赦す必要なんかない、俺を恨んで死ねばいいだろ!」

 語調を強めてクレナは叫んだ。怒っているのか、悲しんでいるのか、整った顔が感情に歪んで僕を睨みつける。

「……しないよ」

 半ば無意識に襟を握り締める手に触れた。クレナの力が緩む。

「そんなことしないよクレナ。今までの全てが偽りでも、僕がそれに救われたのは事実なんだ」

「っ……」

「君を助けて、守ってあげている気になっていたよ。とんだ思い上がりだね。君のこと、全部分かったつもりでいた」

 自然と笑っていた。心に浮かぶ気持ちを、一つずつ声に出していく。

「君らのおかげで、悲しみを乗り越えられた。親友もできた。愛をもらえたよ。感謝してる」

「……」

「愛する君らになら、僕の全てを喜んで差し出すよ」

 俯いて黙ってしまったクレナの髪を梳いた。涼しげにきらめく銀色が、月光に照らされて一層美しく流れる。クレナはとうとう僕の襟から手を滑り落として、しばしされるがままになった。

「嫌いだ」

 搾り出すようにクレナが呟いた。

「貴族なんて嫌いだ。この国も、お前も、……お前なんか、お前なんか大嫌いだっ!」

 僕の手を払って言い放つ。その双眸が、じわりと滲んだ。雫になって、頬を滑っていく。

「クレナ」

 はらり、涙が落ちる。手を伸ばして、親指でそっと雫を拭う。クレナは目を伏せて、その手に触れると消え入りそうな声でもう一度呟いた。

「……きらいだ」

 胸が締め付けられる思いがした。日々の情景が脳内に広がる。共に物語に思いを馳せる姿が、自分の笑みに驚いて隠す仕草が、歌を奏でて宥める顔が、僕の心を温かく撫でた。

「あの、笑顔は」

 言いかけて、口をつぐんだ。視界の端に、揺らめく朱が映った。

 硝子窓の割れる音が暗い庭園に響く。

「……僕を、殺しておくれ」

「!」

「この身ばかりが残っても、惨めなだけだ」

 クレナが潤む目を見開く。何かを言おうと開きかけた口を、彼女はそっと引き結んだ。無言で突き刺さったままの短剣に手を伸ばす。クレマチスの瞳が、決意に満ちて僕を見据えた。

「僕は幸せ者だ」

 微笑んで見せると、クレナも微かに笑った。

 炎がはためいて粉をちらす。

「愛しているよ、クレナ」

 幸せに満たされて、僕は安らかに瞼を下ろした。



「庭に逃げていやがったか」

「……」

「どうしたクレナ?」

「……あんたに感謝してるってさ」

「感謝?……はっ、莫迦な奴だ。最期までお人好しか」

「……」

「ずらかるぞ」

「……ああ」



 酒に満ちた盃が空中でぶつかり合った。

「やっぱ五大公ともなると物が違ぇな」

「ずいぶんチョロかったじゃねぇか。さすが兄貴たちだ」

「ハイドレンジア万歳!」

 男たちが財宝をばら撒きながら成功に酔う。燃える焚き火に宝石が艶かしく光った。

「どうした姐さん、難しい顔して」

 男の一人が木に寄りかかって腕を組む少女に声をかける。少女はそれを無視すると、焚き火に背を向けた。

「どこに行く、クレナ」

「……夜明けを見てくる」

 隻眼を光らせてジェスターが問うと、クレナは顔だけを動かして言った。そのまま木々の向こうに消える。

「兄貴?」

 同じく男を無視して盃の中を飲み干すと、ジェスターはクレナを追った。


 鬱蒼と茂る木々の間を抜けて、小高い丘に出た。そこだけ景色が開けて、丁度長椅子のように倒木が一本鎮座する。そこに浅く腰掛けて、クレナは白んだ空を眺めていた。

「なんだよ浮かない顔して。気にくわねぇことでもあったか」

 ジェスターが話しかけても、クレナはそちらを見ようとしない。

「おい」

「……なあジェスター」

 思いつめたようにクレナはジェスターを呼んだ。立ち上がって、向かい合う。

「ハイドレンジアを抜ける」

「……」

 ジェスターの眼光が鋭さを増す。

「腑抜けたか?あんな奴に絆されたんじゃねぇだろうな」

「もう俺は役に立たねぇ、切ってくれ」

「ふざけんな」

 ジェスターはクレナの顎を掴んで無理やり自分のほうを向かせた。

「まだ夢心地かよ。引っ叩かなきゃ起きねぇか」

「っ、もう無理なんだよ」

 華奢な手がジェスターの手首を掴んで引き剥がそうとする。

「ああそうだ、絆されちまった、だから」

「なら縛ってでも引き戻してやる」

「もう前みたいには騙せない!」

「だったら一から仕込み直してやる!」

 ジェスターは凄むと腕を振ってクレナを地面に叩きつけた。倒れ伏したクレナはゆっくりと上体を起こすと、項垂れたまま呟いた。

「……、愛してるって、言ったんだ」

「方便に決まってんだろ?貴族はそうやって善人のふりしては俺達を踏みにじる。今までだってそうだったろうが」

「……そうだ、優しい言葉を並べ立てて、汚い手で触る」

 クレナは自らの肩を抱いて歯軋りした。

「大事にするなんて全部嘘で、結局欲にまみれてあいつらは俺を辱めるんだ」

「その通りだ。お前は貴族様の、都合のいい人形でしかねぇんだよ」

 ジェスターが耳元に寄って囁く。

「だから俺達で貴族共を」

「でも」

 震える肩を握り締めて、クレナはジェスターを睨んだ。

「あいつは違う」

「……」

「あいつ、一度も俺を抱かなかった」

「いい加減にしろよ」

「一度だってそんな目で俺を見なかったんだよ」

「クレナ!」

 ジェスターが声を荒げる。クレナはひるまずにジェスターの袖を掴んだ。

「……あんたみたいになりたかった。そうすれば、二人でなんだってできるって」

「そうだ、二人で何でも奪ってやろうって決めただろ」

「でも、もう無理だ」

 苦しそうに吐き出す。

「あんた以外に、愛されたいと思ってしまった」

「……っ」

 ジェスターが顔を歪める。乾いた音が丘に響いた。クレナが片頬を赤くして俯いた。

「相棒失格だ。だから抜ける」

「本気で言ってんのか」

「あんたに嘘はつかない」

 拳を固く握るジェスターに微笑んで、クレナはふらりと立ち上がった。空が明るくなって、眼下に広がる森の向こうから太陽が顔をのぞかせた。

「俺たちに陽は似合わないな」

 へら、とクレナが笑った。そのまま静かに丘の端まで歩を進める。

「クレナ……?」

 ジェスターが訝しげに呼ぶと、クレナは昇る日に背を向けて丘に立った。

 踵が崩した石の欠片が、丘の下に、丘に見えていた崖の下に落ちていった。

「ジェスター、好きだったよ」

「っ!」

 行動の意味に思い立ったジェスターが駆け出す。

 クレナは彼を待たずに、地面を蹴った。

「クレナ!」

 伸ばした手が虚空を掴んだ。


 奈落への、地獄への旅路だ。

 祈るように手を組んで、少女は意識を手放した。


 朝焼けに、華が咲いた。

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紡ぎ花 輪円桃丸 @marutama

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