十四話 九の月六日


余計なものを持って生まれたばかりに、ただの小道であったはずの人生は茨と泥にまみれたものとなった。

そんなにこれは特異であっただろうか。こんなにも、好奇の目と下卑た手に愛されるものであったろうか。

どんなに足掻いても、どこまで逃げようとも、はじめに受けた刻印は振り解けない。

一筋見えた希望も、ここよりは多少ましなだけの闇だった。もうお前は日陰から脱することはできないのだと、堕ちるほかないのだと、闇が嗤った。

ならばせめて夢を見ようと光に手を伸ばした。それらしく纏えば同じ世界にいられる。まるで元からそうであったように愛されるのは心地が良かった。背中合わせの闇を、忘れてしまうくらいに。

夢、これは夢だ。跡形もなく消える、無意味なもの。わかっている、遠くないうちに、闇に戻らねばならないと。でも、それでもこの脆弱な心は、希望を捨てられずにいる。

この笑顔は、偽りだろうか。この同情は、庇護欲は、幸福感は、本当にただの〈ふり〉だろうか。

闇に戻るしかないと理解しているはずだ。夢に触れようとしてはならないのだ。でももしかしたら。彼ならば。

愛が、欲しい。



九の月六日

クレナの歌を聴いた。知らない言葉だったけど、とても美しい響きだったよ。


「眠れないのですか」

クレナは僕を気遣うように撫でた。肩から滑り落ちる髪が窓から差し込む月光にきらめく。

「今日は少し……落ち着かなくて」

僕はクレナの膝に頭を預けながら、ぼそりと呟いた。細い指が僕の頬に触れる。優しく手を握られても、今夜は胸がざわついたままだった。

「歌は、いかがですか」

出会った頃よりずいぶん柔らかくなった声でクレナは囁いた。微笑みが僕を穏やかに見下ろす。

「うた、かい」

「はい。ひとつしか覚えていませんが」

「そうだね……聞かせておくれ」

僕が笑顔を見せると、クレナは頷いて目を閉じた。僕の肩に手を置いて、子供をあやすように上下させる。軽く息を吸って、手の拍子に合わせて声が音階を奏ではじめた。

不思議な曲調の歌だ。語学を一通り学んだ僕でも、紡がれる詩がなんの言語なのかは分からない。意味は理解できないが、水面に落ちる水滴のように、一音ずつが心に波紋を呼んでは馴染んでいく。透き通る歌声は心地よく、修道女が神に捧げる聖歌よりも、それは神聖なものに聴こえた。

「素敵な歌だ」

歌声が途切れたあと、僕は実に安らかな気持ちでそうこぼした。

「ずっと記憶の中にある、故郷の歌です」

どこか寂しげな表情でクレナは言った。

「そう……休暇が取れたら、その故郷に行こうか」

「……ありがとうございます」

「ふふ、君の望むところ、どこにでも行こう」

「楽しみ、です」

「うん。ねぇ、もう一回歌ってくれるかい」

「はい、何度でも」

クレナが再び異国の音をなぞり始める。僕は瞼を下ろして聞き入りながら、華奢な手を握り直した。

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