十四話 九の月六日
*
余計なものを持って生まれたばかりに、ただの小道であったはずの人生は茨と泥にまみれたものとなった。
そんなにこれは特異であっただろうか。こんなにも、好奇の目と下卑た手に愛されるものであったろうか。
どんなに足掻いても、どこまで逃げようとも、はじめに受けた刻印は振り解けない。
一筋見えた希望も、ここよりは多少ましなだけの闇だった。もうお前は日陰から脱することはできないのだと、堕ちるほかないのだと、闇が嗤った。
ならばせめて夢を見ようと光に手を伸ばした。それらしく纏えば同じ世界にいられる。まるで元からそうであったように愛されるのは心地が良かった。背中合わせの闇を、忘れてしまうくらいに。
夢、これは夢だ。跡形もなく消える、無意味なもの。わかっている、遠くないうちに、闇に戻らねばならないと。でも、それでもこの脆弱な心は、希望を捨てられずにいる。
この笑顔は、偽りだろうか。この同情は、庇護欲は、幸福感は、本当にただの〈ふり〉だろうか。
闇に戻るしかないと理解しているはずだ。夢に触れようとしてはならないのだ。でももしかしたら。彼ならば。
愛が、欲しい。
*
九の月六日
クレナの歌を聴いた。知らない言葉だったけど、とても美しい響きだったよ。
「眠れないのですか」
クレナは僕を気遣うように撫でた。肩から滑り落ちる髪が窓から差し込む月光にきらめく。
「今日は少し……落ち着かなくて」
僕はクレナの膝に頭を預けながら、ぼそりと呟いた。細い指が僕の頬に触れる。優しく手を握られても、今夜は胸がざわついたままだった。
「歌は、いかがですか」
出会った頃よりずいぶん柔らかくなった声でクレナは囁いた。微笑みが僕を穏やかに見下ろす。
「うた、かい」
「はい。ひとつしか覚えていませんが」
「そうだね……聞かせておくれ」
僕が笑顔を見せると、クレナは頷いて目を閉じた。僕の肩に手を置いて、子供をあやすように上下させる。軽く息を吸って、手の拍子に合わせて声が音階を奏ではじめた。
不思議な曲調の歌だ。語学を一通り学んだ僕でも、紡がれる詩がなんの言語なのかは分からない。意味は理解できないが、水面に落ちる水滴のように、一音ずつが心に波紋を呼んでは馴染んでいく。透き通る歌声は心地よく、修道女が神に捧げる聖歌よりも、それは神聖なものに聴こえた。
「素敵な歌だ」
歌声が途切れたあと、僕は実に安らかな気持ちでそうこぼした。
「ずっと記憶の中にある、故郷の歌です」
どこか寂しげな表情でクレナは言った。
「そう……休暇が取れたら、その故郷に行こうか」
「……ありがとうございます」
「ふふ、君の望むところ、どこにでも行こう」
「楽しみ、です」
「うん。ねぇ、もう一回歌ってくれるかい」
「はい、何度でも」
クレナが再び異国の音をなぞり始める。僕は瞼を下ろして聞き入りながら、華奢な手を握り直した。
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