五話 六の月十二日

六の月十二日

君がいなくなってから、なにを書いたらいいのかわからない。君が僕のすべてだった。今の僕に、生きている価値があるのだろうか。教えておくれ、アレナリア。




 バルローズは奴隷雇用を推進している。雇用と言っても奴隷と認定された者は家畜と同じ扱いで、購入してしまえばあとは賃金を払う必要が無い。飼い主が好きなように扱い、どうとでもできる。生きた人形だ。

 非人道的と言われても否定はしないが、奴隷になったことで以前より豊かな暮らしのできる者がいるのもまた事実だった。

  国に浸透している奴隷だが、フラネーヴェ家が奴隷という立場のものを屋敷に置くのは数十年ぶりだった。父も母も奴隷に対して良い印象は持っていなかったようだ。当主が父になってから一切の記録がない。

「……」

 身なりを整えられ現れた少女の前で、僕はどう接していいかわからないままでいた。

 繊細な雰囲気を纏った少女だ。同年代の娘のような愛らしさはないが、かわりに、硝子細工のような透き通った美しさがある。感情の見えない静かなままの視線と相まって温度が感じられない。

「……えっと」

 気まずさに押し負けて、なにか話さねばと口を開く。少女の意識がすべてこちらに向いたのがわかった。

「名前、はあるのかい」

 声を発したものの話題が思いつかずにぎこちない質問になる。

「……」

 少女はこちらを見つめたまま答えない。許可を出さねば返答できないのだったか。それとも答える名前がないということなのか。奴隷の扱いについてはほぼ知識がない。

「あー、その、自由に発言して良いから」

「……クレナと申します」

 威厳もなくしどろもどろに言うと、少女はゆっくり瞬きをしてから口を開いた。一般的な女性より少し低い、落ち着いた声色だ。

「クレナか。ではそう呼ばせてもらうよ」

「ご随意に」

 クレナは流れるような所作で頭を下げた。まるでどこかの令嬢のような優雅さがある。

「以前も誰かに?」

「いくつかのお屋敷に。手厚く躾けていただきました」

「……なるほど」

 奴隷を愛するあまり我が子のように可愛がる貴族も少なくないと聞いた。この子のように見目良ければ手間も惜しくないだろう。

 会話が終わり、再び静寂が訪れる。他に話すことはあるだろうか。改めて自己紹介でもしておいたほうがよいだろうか。

「……質問してもよろしいでしょうか」

「あ、ああ構わない」

「なぜ、あのように雨に打たれていらしたのでしょう」

「え……」

 予想していなかった言葉に固まった。少しだけ遠のいていた気持ちが滲んで足元に擦り寄ってくる。

「……少し探し物を」

 自分の声に感情が宿っていないことを、客観的に理解した。顔が凍ったように動かなくなった。

「過ぎたことを申しました」

 何かを察したのかクレナが謝罪を口にした。その声が反響して、心に波紋が生まれた。じわり、眩暈が僕を手招きする。

「彼女を、いつものように笑っていて、鳥が花と」

 何が言いたいのだろう。単語が散らばって沈んでいく。ふらついて何かに手をついた。少女が動く気配がしたが、見えない。自分のつま先が揺れる。

「愛していたんだ、いまでも」

 笑みをかたどって凍った頬に雫がすべる。波紋が大きくなって、器を圧し壊し溢れていった。

「なぜ彼女でなければいけなかったんだ、どうして」

 壊れた隙間から流れ込む絶望が僕を満たして、周りが暗く遠のいてゆく。そう、失ってしまったんだ。彼女の優しい声も、愛らしい笑顔も、あたたかい手も。もう彼女を抱きしめることもできない。体から熱が消えて、自分の鼓動さえ聞こえなくなった。

「アレナリア……」

 暖かいものに包まれて、無意識に名を呼んだ。いつの間に座り込んでいたのだろうか。濡れてかすむ視界に、華奢な肩が見えた。

 クレナがそっと、僕を抱きしめていた。

「どうぞ好きなように、私をお使いください」

 心地よい声が呼吸を楽にする。

「クレ、ナ?」

「……私は奴隷です。主人のことばひとつでどうにでもなります」

 クレナの鼓動が伝わって、体温が戻ってきた。

「苦しいなら、吐き出してください。それが私の役目です」

 するりと腕が離れていく。まっすぐな瞳が僕のみっともないであろう顔を覗き込んだ。

 無言なまま見つめあった。自分の心が落ち着いていくのを感じていた。

 それからのことはよく覚えていない。朝目覚めると、僕は涙を流しながら、少女の腕の中にいた。

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